「論理的な文章」のはなし
共通テストが終わり、いよいよ大学受験が本格化してきました。受験生みんなが希望の進路に進めますようにと、日々願いながら過ごす毎日です。
先週、主に文系の希望者対象に私大現代文講習を実施しました。傾向として感じたのは、中堅私大までは共通テストのような傍線部読解の問題よりも、漢字(読み書き)・語句(熟語)・空欄補充・脱文挿入といった問題が多いこと。つまり、知識面と日本語自体の読解で確実に点数を積むことが大事です。一方で、GMARCHの上位校からは共通テストと同じ解き方で対応する問題が増えていました。問題数は減りますが、配点が高い問題が多いので注意深く解いていく必要があります。
その中で立教大学の2021年度共通問題を扱ったのですが、阿部公彦さんの「『論理的な文章』ってなんだろう?」が出題されていました。設問自体はオーソドックスなものでしたがとても面白いなと感じたので、その内容について述べていきます。
「論理的な文章」の例として、新課程で用いられている「論理国語」が提示されています。現在の高校1年生は小説を扱わず、評論文のみを国語では扱います。では「論理的な文章」とは何なのか、それを学ぶ意義や本質的な「論理」とはなにか、ということを論じています。これに疑問と皮肉が効いていて面白かった。
僕たちの日常と正しいとされている論理に生じている乖離。つまり、究極的な論理の世界は少なくとも実生活の中では存在しない。そもそも論理的ということの定義は、「論理的に破綻がない」こと。すべての情報が余すことなく網羅された正しい情報。この例として俗にいう「公式な硬い文章」が挙げられています。しかし、読んでいて目がチカチカするほど長いし、聞き慣れない言葉がたくさん出てくる。これを理解することが「論理的」なのか?と疑問に思うわけです。
本当の論理は、日常に中にこそあるのではないかという阿部さんの論。阿部さんのいう論理とは、簡単に言うと文脈と場面での理解です。それこそが論理なのではないか。実用文という言葉が国語教育でも叫ばれるようになりましたが、実用とは何を指しているのか。教科書での実用とは、日常と文脈から切り離された文章のみの整合性です。しかし、それを文字通り「実用」する場面が果たしてどれだけあるのか。
社会に出たときに必要なスキルを学ぶことが、義務教育ではない高校で学ぶことだと私は思っています。もちろん、言語(日本語)の正しい使用ができることで幅は広がります。特に公文書作成については。これは日本語の性質や日本における企業での働き方に起因する。言い回しの複雑さ、公と私の区別などを理解して使い分けをすることで円滑に回る。これは文章のみで理解できる類のものではない。
ここで必要になるのは、阿部さんが言うところの「空気を読む」力。論理的整合性を全てに求めることは、実は僕たちを窮屈にしているのかもしれない。
論理的とは何なのか。それは、僕らが言葉を通じて、気持ちを理解しようとすることだと思いました。論理を究極的に突き詰めれば、それは数学の世界になる。1+1=2は変わらない。しかし、その数学でさえ日常会話では様々な意味を含み持ちます。大切なのは1+1=2を前提として、紡がれる言語の理解。1+1=2じゃなくて3にも4にもなる。これは、相乗効果によって想定以上な結果が出るということ。それこそが実用的な論理の答えなのではないか。
そして、ここに必要なのが「文学」だと思うんですね。文学は二重性を秘めています。誰かが作るフィクションであり、登場人物は存在しないことを理解しつつ、現実に絡めて想定しうる存在。さらに語り手、作者が関連する。この重厚な構造を学ぶことで論理を学べるのではないか。
具体的な方法についてはまだ検討が不足しています。が、論理というものについて少しヒントが見えたような気がしました。
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