桜をあと何回見られるか。君とあと何回会えるのか
子供の頃は思いもしなかったこと。
大人になったら感受性は鈍くなるものだと思っていた。
桜はいつまでも見られるものだと思っていた。
散っていく花びらを見ても、多少の寂しさは感じながら
「また来年」としか思わなかった。
実家の近くの土手沿いには桜の木があって
上京するまでは毎年見ていたけれど
その桜はもうない。
学生の頃、一緒に桜を見た友人も、もういない。
東京で暮らしていくうちに
いつからか桜の華やかさに心踊るよりも
桜にまつわる気ぜわしさや、うら寂しさを感じるようになり
桜の開花を待ち望む気持ちが薄らいでいた。
むしろ
道すがら桜を見るだけにとどめる自分を
花見だ何だとはしゃぐ人たちから
なんで何もしないの?つまらない奴だな
と言われてるような、追い立てられる気持ちになるため
早く桜の季節が過ぎないかな……とさえ思っていた。
感受性、ニブくなんないじゃん、ウソつき!と、
ぶつける相手のいない悪態をついていた。
おそらく鈍くなるのではなく
見て見ぬフリが上手くなるのだと思った。
昨年の春、父が他界した。
その何年か前から具合が悪く
今年は桜が見られるかな、今年はどうかな
という思いを繰り返しながら春を越してきた。
しかし、とうとう昨年、父は桜を見ることなく旅立っていった。
先日、一周忌を終え
東京では桜が咲いた。
自分は、桜をあと何回見られるんだろう。
あと20回?あと30回?
父とは上京後、何回会えたのだろう。
学生時代の友人とは、何回会えたのだろう。
子供たちが自立した後は
あと何回会えるんだろうかと、数えることになるはずだ。
私が年老いて入院した時には
あと何回、妻と会えるんだろうかと思うはずだ。
君とあと何回会えるのか。
そう思って、数えるだろう。
いつでも会える
また明日会える
また来年会える
そんな風に思えるのは
とてつもなく幸せなことで
そして迂闊なことだ。
大切な人たちや、大事な風景がなくならないとしても
自分がいなくなるかもしれない。
そこに気づかないなんて、迂闊以外に表現しようがないだろう。
そして私は迂闊な人間だった。
もっと、大切にするべきなんだ、と思った。
今年はもう桜に急き立てられるような感覚はなくなっていた。
父と桜の花を見たかったな。
桜の花びらが風に舞う様子を見ながらそう思った。
父はもういないが、今年も桜が咲いた。
そして、もう間もなく東京では花が散り終わる。
妻と子供たちと眺めた桜の花のある風景を
私がいつまでも覚えていますように。
そう思った。
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