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妥協してはいけない


つい、簡単に妥協してしまうことがある。

この服でいいんじゃない
この食器でいいんじゃない
このレストランでいいんじゃない
この音楽でいいんじゃない

この旅行先でいいんじゃない
この人でいいんじゃない

いやー流石にそれはまずいでしょう、ということでない限り、つまり「まあまあ」の場合、
探す時間や、面倒さゆえに、「これでいいか」と妥協してしまうことがある、意外と多かったと今朝ふと思った。

この「ふと思う」というのが、2023年になって格段に増えていて、それをこのnoteに書くことが多いのだが、今日は「妥協してはいけない」だった。

確かに、たくさん妥協してきたなーと振り返り反省した。

案外大事なことなのに、なんで妥協したのだろうか、と。
そして、迷っているときは「違う」ということなのだから、無理に決断せず、スルーすればよかったのだ。

仕事などで期限がある場合は別だけど、私が反省するのは、プライベートなことが多い。
(多分仕事については、妥協をしていないようだ)
洋服、食器は、最近断捨離をするから気づいたのだと思う。
結局妥協したものは、あまり気に入っていないので使わなかったり、すぐに捨てることになる。
あまり気に入っていないものを自分の身の回りに置くことは、運気を下げる気もしている。

洋服は、本当に今はお気に入りのものばかりになり、それらをコーデイネートしながらバンバン着ている。
洋服たちもきっと喜んでいると思う。

食器もずいぶん自分が気に入っているものばかりになって、それらもバンバン使っている。
欠けたらまたお気に入りを迎えればいい。
こうして、モノとの相性をちゃんと見極めて自分の身の回りに置くようになった。

そして今気づいた。
私がこんなことを今朝思ったのは、昨日「アルフォント ミシャ展」を見に行ったからだ。
以前も見たことはあったのだけど、もう一度見たいと思って行った。
すると、見覚えがある絵が、今は全く違って見えたのだ。

ほとんど全ての絵が、ポスターが好きなのだけど、特に好きな絵の前に佇むと感じるのだ。
波動の高さを。

今まで、ピカソもゴッホ、も見てきたけど、彼らの絵もきっと波動が高いのだが、私はその時にはそれを感じることができない、または感じていても言葉にはできなかったのだ。
ただ、今回は感じて、言語化ができたのだ。

もちろん、人にはそれぞれの感じ方があるので、あくまでも私がそう感じたというだけなのだが、写真のイラスト(絵)は購入したノートの表紙だが、これをずっとデスクに置いて時間があれば眺めている。

そして、今朝は家事と仕事をする時に、BGMとして「クラシック」を選んでいる。
ロックをやっていた経験がある私からすれば、おそらくこの人生の中でほとんどない選択をしている。

そして、今朝は「妥協してはいけない」という言葉が浮かんできた。

別にクラッシックの方が上とか下とかはないが、私が今選びたいのはクラシックだったということなのだろう。
そしてそこに妥協を入れない、ということが今の私にとっては大事なのだとわかる。

こうして、人はインプットしたものから、ヒントを得て、それらが顕在意識であったり、潜在意識であったり、よくわからないけと、「気づく」ことにつながる。
この気づきこそが、生活、人生の羅針盤であり、よりよい人生を歩くために必要なのだと、思っている。
そして、その心地よい状態で出会った人たちとのご縁は続いていき、
その人たちに助けられ、
その人たちに支えられてますます充実した人生になっていく。
今はそんな予感がしている。

不思議な感覚だけど、多分間違っていないと思っている。


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