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バイアスと個性のバランス


ふと見かけた言葉や記事に、不快な思いをすることはないだろうか。
多分誰でもある。

ただ、不快ならば見なければいいし、フォローしている人なら外せばいい。
私も実際にそうしているが、その後「なぜ不快に思ったんだろう」と考えることがある。

いつも考えているわけではない。

自分で理由が明らかな場合は、考える必要がない。
差別であるとか、誹謗中傷であれば、理由なんて考える必要がない。

ただ、もっともらしいことを書いていて、差別や誹謗中傷ではない時に、「なぜ不快に思ったんだろう」と考えていることがある。

最近も一つあった。

それは、その人が「働き収入を得ることができるようになった女性が増えた時代に、女性が気をつけないといけないこと」を書いていたのだ。

差別に近いかもしれない。
男性は、そんなことはしない、なぜなら長年収入を得てきて、社会的な訓練ができているから、のような内容だった。

すぐにフォローは外したものの、「なぜこれが嫌だったのか」を考えてみた。


  1. 女性を一括りにしていること

  2. 男性を一括りにしていること

  3. おそらく自分の周囲に多い女性のことを元に書いていること

  4. 女性と男性に対してのバイアスがかかっている(偏った見方をしていること

だと思ったのだ。

ちなみに、このことを書いていたのは、男性でしょうか?女性でしょうか?

と聞かれたら、ほとんどの人が「男性だよ」

と答えるだろう。

その通り、男性が書いたものだ。

この人は、男性にも女性にも「バイアス」つまり「偏り」を持ってみていることがわかった。
男性=○○
女性=○○

という考え方をする人は、自分がバイアスをかけて人を見ていることに気づいていない。
そのほうが簡単だろうし、自分にとって都合がいいのかもしれない。

「バイアスがかかっている人は、無理だ」

と、私は不快に思ったようだ。

でも、そこからふとまた考えた。

「でも、大なり小なりみんな色んなバイアスは、自分で気づかないうちに持っていて、それが「個性」になることもある。
良いバイアスは個性になり、悪いバイアスは不快感を持つ。
この違いはなんだ?」

と考えてみた。

(まあ、私の脳はなかなか面倒なことを、時々考える)

これは私なりの結論だが、
「良いバイアスは、人に強要しない」
「悪いバイアスは、断言して、それが世の正義のように言う」

つまり、「伝え方」なのだと思った。

例えば、このケースの場合、
「俺の場合は、~で、こないだ会った○○さんは(女性)こんなことを言ってて、びっくりしたんだよな」
というのは、もし面白おかしく言えば、クスッと笑えるかもしれないし、「確かにそんな人いるよな」と共感をしてもらえたかもしれない。

つまり「全体化をせず、個別化する」ことで、「全員の女性がそうだ」というのではなく、「こんな人いますよね」ということで、面白いネタを見つけてくる人、面白いことを教えてくれる人という「個性」になっていく。

つまり「バイアス」は「ものの見方」に使うのであって、「伝えるときには、そのまま持ち込まない」ということなのだと思う。

バイアスが個性として成り立つのは、「切り口」の部分。

ほとんどの人がこだわらない電車の中にある降り口を示す図に、興味を持ってあることに気づいた人が書いたコラムを読んだが、これは「切り口」として使っているし、「電車の掲示物」という、「差別」など一切挟む余地がないものだったからこそ、「すごい」と思ったし、「この人の個性が光っている」と思ったのだ。

バイアスが嫌がられるのは、伝え方による。

つまりたった数人の人たちの例を見たと言って、「全員の人が」という伝え方をすると、「そうじゃない人もいるよ」と思われる。

情報発信をする機会が多い私にとって、この「バイアスと個性のバランス」はとても大事なテーマだな、と思ったので、深掘りをしてみた。

全体化せず、個別ケースとして伝える。
伝え方で、全く違う結果になる。

学ぶ材料は至る所にあるので、伝え方をこれからも学び続けます。


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