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17歳の愛国心 パート2



あなたは、国歌を聞いて涙したことはあるだろうか?



 もし涙するとしたら、オリンピックで日本の選手が

金メダルを取った、表彰式でのことかもしれない。



私は、一度だけある。


それは高校2年の時、
1年間アメリカコロラド州コロラドスプリングスに
留学していた時のことだ。


 1年の間に、3度もホームシックにかかり、
その度にスーツケースに荷物を詰め、

「明日空港に行って、飛行機に乗って日本へ帰ろう」


と思っていた。


でもその翌日朝、

「やっぱり今日だけ学校に行ってみよう」

と思い学校に行くと、その日に限って楽しいことがある。
その度に、スーツケースからまた荷物を取り出し、
クローゼットに戻す、と言うことを繰り返していた。


日本からの留学生は私ともう1人の女の子だけ。
それ以外は、フランス、フィンランド、スウエーデン、
ノルウエー、デンマークと言うヨーロッパからの
留学生ばかりだった。


英語も大してできなかった私は、日本からの留学生の
Tさんと良く話していた。


 Tさんのホストマザーは、日本人でアメリカ人と
結婚してコロラドスプリングスに住んでいた。


お正月には私を自宅に招いてくれ、お雑煮やおせち
料理を振る舞ってくれた、優しい人だった。


ただ、普段は「あなた達のためにならないから」と、
私たちには一切日本語で話さず、常に英語で会話を
していた。


日本のバレーボールチームがやってきた


このTさんのホストマザーがある時、

「私たち日本人会に、日本のバレーボール代表チーム
が来るから、炊き出しをして欲しいと言う連絡が
あったのよ。あなた達も来る?」

と声をかけてくださった。


二つ返事で行くことにし、Tさんと2人で

「着物を着て行こうよ、きっと日本の選手達も
喜んでくれるよ」


と言って、2人はウールの着物で、作り付けの帯を
締めて、会場に行った。


すると、着物姿が珍しいのか、子供達が私たちを
囲んで、「サインして欲しい」と言われた。

サインなんてしたことがないけど、とりあえず
漢字で書けば良いよね、と2人で照れながら
サインなどしていた。

そして、アメリカのナショナルチームと、日本の
代表チームの親善試合が始まった。


 当時のアメリカは、バレーボールをする人も少なく、
今のアメリカチームとは比較にならないくらい、
まだまだ弱いチームだった。
その一方で日本は「東洋の魔女」以来、日本=
バレーボールが強い、と思われていた時代だ。


試合の前に、それぞれの国旗が掲げられ、国歌が
流れる。


アメリカ人は国歌が流れている間、右手を左胸にあて、
国旗を見ている。


「かっこいいな」

と思っていた。


その後、「君が代」が流れてきた。


何度も今まで聞いた国歌だ。


アメリカの国歌や他の国の
国歌に比べ、日本の国歌である君が代は、
旋律も暗く、歌うのさえ恥ずかしいし、
嫌だな、と思っていた国歌だ。

でも、君が代が流れて来ると

「ツツツー」

と、私の目から涙が流れてきた。


「え?」


「なんで?」


自分でも全くわからなかった。
さっきのアメリカの国歌では、
かっこいいとは思っても、涙は出なかったのに、
「君が代」で涙を流している自分がいた。

なぜ泣けたのか?


考えてみれば、少々ホームシックにかかって

いたのかもしれない。


わずか16歳で自分で望んだとは言え、親元を離れ、
8ヶ月くらいの頃だ。


日本食を恋しいと思い、

日本語をいっぱい話したいと思い、

家族に会いたいと思い、

日本の規則だらけの高校でさえ、通いたいと思って
いた頃だ。


今でも泣いた理由はわからないが、

一つ言えるのは、

「私は日本人だ」

と、実感した。


日本にいたまま、留学をしなければ、
日本から長く離れなければ、決して気付くことはなかった、

日本人としての自覚。


「愛国心」とまではいかないが、
理屈抜きで自分が日本人であることを
実感させられた。


留学経験や、海外生活経験がある人にしか

わからないかもしれない、この感情。

留学の意味は、こんなところにもあったのだと思う。


上野 博美


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