「人のお世話期」の終了
かなりダイレクトに意見を書いたので、ご注意ください。
読みたくない人は、スルーしてくださいね。
客室乗務員を7年。
その後、客室乗務員になりたい人を育てて32年。
子育ても終わった。
親は世話をする必要が出てくるかもしれないが、それもできることを、できる限り、と思っている。
今は個人的な相談以外は、人のお世話を全て辞めた。
人のお世話をすることは、おそらく向いていたのだろう。
やりがいも感じたこともあった。
ものすごく責任を持ってやっていた。
しかし、最近は「人のお世話よりも、自分の世界観の構築」に関心が移ってしまったようだ。
人の本質は変わらないらしい。
それなのに、なぜこんな風に変わったのだろうか。
・人のお世話をすることは、長女だったから当たり前と思っていたのかもしれない。
・目立ちたくはないが、目立ってしまうから、責任を任されることが多かったかもしれない。
でも、自分で望んだことは一度もなかった気がしている。
向いていることを頼まれ、なんとなくできたからやっていたに過ぎない。
先日、「向いていることが天職とは限らない」と言う記事を書いて、多くの方に読んでいただいて、こちらの方が驚いた。
向いていても、人のお世話をやりたいか、と言われたらやりたくない。
そんなこともあるんだ、と実感したので、書いた記事だった。
情熱と時間を我を忘れるほど注げるものに出会ったら、あとはどうでも良くなってしまう。
人のことより、自分の夢中になれるものに時間を注ぎたい。
世の中の「人の役に立ちなさい」という風潮にも、私は今はもう卒業しました、と言いたい。
家族、お客様、生徒さん、クライアントの役に立つように、と今まで生きてきた。
もう、卒業していいと思った。
「人の役に立ちなさい」と強制されるものでもないし、困っている人に手を差し伸べることは強制されてやるものでもない。
自分に余裕がない時に、人の役に立つ必要もない。
でも、「人の役に立つことを・・・」と言っている方が世間的には受け入れられやすい。
というより、日本では受け入れられやすい気がする。
世間的に受け入れられやすいことが、自分の本当にやりたいことならば問題はないが、私は今、違う方向に向かっているし、それでいいと思っている。
世間なんて勝手なものだから。
世間の正体は見えないから。
だからこそ、自分が信じていることをやり続ける方が、ずっといい。
その結果、もし誰かの役に立ったのであれば、「良かったです」というかもしれないが、人の役に立つことをゴールには、もうしたくない。
人を信じる前に、まず自分を信じる。
自分さえ信じられていないのに、人のお世話なんてできない。
それがようやくわかってきた気がする。
そして、人のお世話をするというのは、かなり傲慢だな、と思うようにもなった。
人は、それぞれに伸びる力を持っているし、考える頭も持っている。
あれこれ世話をされたら、その力を奪ってしまうかもしれない。
もし、伸びる力も、考える力もないのだったら、多分お世話をしても伸びないだろう。
長年人を育ててきた自分が、最近はそんなことも思うようになったことに、驚いている。
だからもう私は、人のお世話はしない。
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