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点と点がつながり線になる時


毎日自分が興味を持って読んでる本、感動したブログなどは、
多分線でつながる時がくる予感がある。

最近「哲学」の本を読んでいる。
きっかけは、野本響子さんが勧めてくださっていた「はじめての哲学的思考」
(苫野 一徳著)だ。

「哲学」という、難しそうなものがとても読みやすく、事例も書かれてあったのでスーッと読めたし、心に刺さる言葉がたくさんあった。
まだ完全に習得はできていないので、再度読み直したいと思うが、


「不幸とは欲望と能力のギャップである」

「はじめての哲学的思考」(苫野 一徳著より)

という言葉は、ずばっと言い当てられた気がした。

昔から、私はこの「本質的」「根本的」なことに興味がある。
そして、不思議と高校生の頃大学進学先で、「哲学科」を考えたこともあるのは
偶然ではない。
ただ、そのときに数冊ニーチェやサルトルなどの本を読んで、私の読み方が
悪かったのか、
「哲学者たちも結局生きる意味や死後の世界は分かってないんだから、勉強するよりも実社会に出て答えを見つけよう」と生意気なことを思い、
自分がやってきた音楽と英語を活かせるようにと、東京の私大英文科に進学する。その傍でバンド活動をしていた。

かと言って、人生の意味がわかっているわけではないのだけど。

そして自宅の本棚にあった「幸福に死ぬための哲学」池田晶子の言葉
(池田 晶子著)を再度読み始めた。


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ずいぶん前に買って読んでいた本だけど、なんだか本質的なものに触れたく
なったのだろう。
一つ一つ納得しながら読んでいる。


「わからないのは当たり前」
そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、自分の決断で死ぬのでもない。生まれて死ぬという、人生のこの根本的な事態において、私たちの意思は全然関与していない。気がついたら、どういうわけだか、こういう事態にさらされていたわけです。
このことの不思議に思い至れば、人間が自分の人生について、自分の意思で決断してどうのこうのということが、いかに小賢しいことであるかにも気がつくでしょう。人間が自分の意思でできることなんか、たかが知れています。人生は自分の意思を超えているのです。

「幸福に死ぬための哲学」池田晶子の言葉(池田 晶子著)



深い。
そしてなぜか納得してしまう。
それは、本質を突いているからだろうと思う。

今は表面的なことではなく、本質的なことを求めている。


元々昔から生徒さんたちを教える時も、表面的な一過性のテクニックではなく、
本質的な部分に触れ、そこから本人の意思で生まれ変わったり、自分を取り戻して行ったりすることのお手伝いをしている感じでいる。
あくまでも本人が持っている資質を、または眠ってしまっている資質を引き出す
仕事だと思ってきたからだ。

本質的な部分がしっかりしていれば、どんな想定外のことが起きても、
しっかり対応ができるからだ。表面的なテクニックは、一部分しか通用しない、
そんな「小賢しい」テクニックを教えるくらいだったら、教えるのをやめると
思ってきた。(生意気)

結局高校生の頃から変わってないんだな、と哲学の本を改めて読んでいる自分に
思わず笑みが浮かぶ。

そしてこの本質的なことを求めているその先に、線となって何かにつながる
気がしている。

「無駄なことは何もない」

心に従ったことに、無駄なことは何もない。
目の前が曇っている状態の時は、ひたすら関心があることに没頭するだけ。
やがて目の前がパーっと開ける瞬間がくる。
今は、それを信じられる自分がいる。

池田晶子さんの言葉を元にすれば、
「自分の意思ではない、何かがちゃんと未来に待っている」
のだと思う。

人生は自分の意思を超えているのであれば、もっと肩の力を抜いて生きて
いっていいのだと思える。

やっぱり、面白いよ、哲学。


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