日本の建築史(原始時代)

前回の記事で日本の歴史の歴史をざっとまとめました。(原始時代(旧石器時代~弥生時代)、古代(大和時代~平安時代)、中世(鎌倉時代~安土桃山時代)、近世(江戸時代全般)、近代(明治~現代)と扱っています。)
その歴史を踏まえた上で各パート毎に建築の歴史をまとめていこうと考えています。
今回の記事は、日本の始まり・原始時代(旧石器時代~弥生時代)の建築を扱っていきます。

・日本の環境

日本の地形(「Wikipediaより」)

まずは建築の成り行きを見る前に、日本がどのような地理的条件、自然環境なのかをざっとまとめます。
日本列島は周囲を海に囲まれており、約6割が山地(丘陵も含めると3/4が山地)で多くの河川や湖が点在しています。気温は旧石器時代の氷河期を抜けて縄文時代以降は高温多雨で温暖な気候が続いています。こうした自然環境の元で森林をはじめ豊かな自然環境が形成されていきました。
その中で人々の暮らしは盆地や平地に広がり、適度な距離感で海外の技術を取り込みながら、歴史とともに建築文化が花開いてきました。

・旧石器時代

田名向原遺跡の旧石器時代平地建物の復元模型(「Wikipediaより」)

(主要な住居:洞窟、小屋など)
狩猟・採集を主とする生活で河川流域や大地の縁辺部を遊動していたと考えられます。季節により食糧が変化するため一定期間居を構えることができる洞窟や小屋を造っていたようです。

・縄文時代

吉野ヶ里遺跡の復元・竪穴建物(「Wikipediaより」)

(主要な建築:竪穴建物、掘立柱建物)
気候が温暖になり多様な獲物が採集できるようになった為、移動型の住居から海岸部や河川流域を中心として定住化が進みました。大型の集落も形成され始め、中央に広場が設けられたり、墓域や祭祀関連の施設が設けられたりしました。建築の形式としては竪穴建物や掘立柱建物等が主であったと考えられます。

・弥生時代

佐賀県吉野ヶ里遺跡の復元・高床倉庫(「Wikipediaより」)

(主要な建築:竪穴建物、高床倉庫、大型建物)
水稲耕作が広まり、狩猟・採集による生活から農耕により生活へ変化すると集落の社会に大きな影響を与えます。富の蓄積による貧富の差が顕在化し階層的な社会を生み出していきました。やがて一部の集落は大きくなっていきクニが成立していきます。
そこでは、新たに収穫物の保管という機能を持つ高床倉庫が誕生します。以降、富の象徴たる倉庫は格式や権威を持つことになります。また、巨大集落の内部では居住域に加え、工房や祭祀施設などのさまざまな施設が集約しており、物見櫓や大型建物が造られることもありました。

・古墳時代

大仙陵古墳(「Wikipediaより」)

(主要な建築:巨大古墳、宮室)
クニがまとまり始め、ヤマト王権を中心として統一国家を形成した時期でした。巨大な古墳はその権威と社会の大きさの表出でした。
大王を中心とする体制が確立すると、宮室(天皇の政務・生活等の場)が営まれるようになりました。中でも宮殿建築が特別なデザインで一般の建物とは差別化を図っており建物が威厳装置として機能していたと考えられます。

・まとめ、考察

古代の日本の建築史を見てきましたが、まず建築の原初は住居から始まったといわれています。
最初の要求としては外敵から身を守ったり風雨を凌ぎたいといった外的環境に対する内的(生活)要求によって、身の回りの木々や植物等を利用して簡易的な小屋を造っていたのだと考えられます。
その後の建築の発展は、それに加えて信仰的要求や権力的要求によって発展していったものと推測します。なぜなら人間社会を形成するにつれて、信仰・宗教と権力・政治といった側面が大きく影響していったと考えられるからです。
信仰的要求としては、縄文時代までの狩猟採集による循環社会における「アニミズム信仰」から、農耕社会の生産による計画社会における「祖霊信仰」や農耕儀礼等が合わさって神道となり、儀式やまつりの空間が必要に応じて建築として現れていったと推測できます。
一方、権力的要求は階層社会が形成された後の権力者による支配、権力の誇示によるものから建築の巨大化や装飾、差別化、規定へと変化していったと推測できます。
これらの外的・内的要求によって社会や人間生活が変化していき、建築も影響を受けていったのだという視点でこの後の歴史も考えたいなと思います。

最後まで読んで頂きありがとうございました。以下の資料を参考にさせて頂きました↓
・建物が語る日本の歴史 (海野聡 著)


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