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「自立」は「孤立」で 「支援」は「無援」か?

                                              植草学園短期大学 教授 佐藤 愼二

「自立」という幻想
 現代社会において「支援なしの自立」はあり得ない。もし、「私は完全に自立している」と考えているとしたら、それは大きな勘違いになるだろう。水道、電気、ガスがないとしたら…、農業、水産業等に従事する人がいないとしたら…考えればきりがなく、おそらく生きていくことさえ危うくなる。社会・生活インフラは-普段は意識されることの少ない-極めて重要な「基礎的環境整備」である。
 それらの支援もない孤立無援のロビンソン・クルーソーのような自給自足的な生活を「自立」と考えるならば、我が国に「自立」している人は皆無である。
 奇しくも、近年、相次ぐ地震、台風、集中豪雨等の自然災害によって現代版「自立生活」の脆さを身をもって実感することとなった。(なお、亡くなられた方々に哀悼の意を表すると共に、現在も避難生活をされている方々には心からのお見舞いを申し上げます。)私たち誰しもが支援付きの「自立生活」を営んでいるのだ。
 それをあえて、公式化すれば次のようになる。
 
『「自立的・主体的生活」=自力・孤力(自己の力・意思)×支援(人・もの)』
 
 特別支援教育・知的障害教育の目標である「自立」は本来ならば、「自立的」という言葉の方がふさわしいだろう。そして、教育の立場で「生きる力」という意思的側面をさらに強調すれば「主体的」を加えて「自立的・主体的生活」となる。
「自立的・主体的生活」を単なる「自力」「孤力」という側面だけで考えれば、…「江戸」…「縄文」…過去の時代を生き抜いた人たちの方がおそらく遙かに「自立的」で、しかも「共生的」であったに違いない。
 

他力本願の時代
 その意味では、現代は極めて「依存的」で「支援に満ちあふれている」時代と言える。例えば、読者は家族を含む知人の電話番号をいくつ記憶しているだろうか。否、むしろ、覚える努力すらしない場合が多いだろう。多くの人がスマホ等の「外部脳」に依存しきっているはずだ。もはや「自力」で「独り」生きることはできないだろう。
 つまり、「自立的・主体的生活」とは、言葉を換えれば、適切な「依存先」を得ることに他ならない。そして、その依存先、すなわち、「支援の適切性・多様性」こそが人生を豊かにすると考えるべきである。それゆえ、現代は、障害の有無にかかわりなく、極めてポジティブに支援を頼る圧倒的「他力本願の時代」と言えよう。
 なお、先の「公式」に「支援(人・もの)」としたが、それは、単なるライフラインのような物理的な支援だけでなく、特に、教育の場合には、「共に活動する仲間や教師がいてこそ」という側面を強調するためである。私たちが何かを成し遂げる時に-部活動を振り返っても-共に支え合い・競い合う仲間やライバルの存在は大きい。人こそが人を支える。そして、支援の質と量が最適化されれば、よりよい「自立的・主体的生活」が実現する。
 
 「自立」は「孤立」ではなく、「支援」は「無援」ではない。
 
特別「支援」教育-「自力論」ではない「自立論」を!-
 しかるに、「育成を目指す資質・能力」が打ち出されて以降、「つけたい力」を明確にし、「力をつける」論調が強まっている。大目標である「自立的・主体的生活」に直結する「支援の最適化」を問うならば、その議論に異論はない。しかし、それが「自力」をいかに強めるのかという側面にのみ終始し、「支援」への着目を弱めるとするならば、そこには疑問と議論の余地が大いに残るだろう。
 先の公式に従えば、仮に弱さと困難さを抱える「自力」「孤力」であったとしても、本音で「楽しく・やりがいある学校生活と授業」という充実した「支援」が整えば、必然的に「自立的・主体的生活」は高まる。その結果、「自力」も着実に高まるのだ。なぜか?答えは簡単である。「適切な支援」を得て、「もっとやりたい!」と思えば、当然、何度も「自力」を使うからである。
 甲子園大会に出場するという明確な大目標のある「支援」が整えば、必然的に自分から・自分で取り組む「自立的・主体的生活」が高まり、結果として「自力」(野球の力)を繰り返し使い、高まるのと同じである。「支援」への着目とその最適化に力を尽くしたい。
 そして、そこにこそ、特別「支援」教育の意義と専門性を見い出したいと思うのだ。
 


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