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九キロは長すぎる(19)

 僕と立花が推論に推論を重ねていると、やがて信号が青に変わった。
 ポケットに両手を入れたまま、立花と肩を並べて歩き出す。

 横断歩道を渡り切ると、前方からやってくる歩行者の数が増え出した。
 しばらく、二人とも黙って足を進める。

 鉄橋の手前で角を右に曲がり、車一台分が通れるくらいの、人通りの少ない沿線を南進する。市街地を抜けると、僕たち以外に通行人の姿は見えなくなる。
 まもなく、立花が口を開いた。「犯人とその動機は割り出せた。後は、手口だね」
「手口に関しても、芹沢の供述とアリバイの事実から、推論が可能だ」
 僕は正面を向いたまま応じる。「何度も言うように、芹沢は水本を殺していない。これは確かなことだ。例の完璧なアリバイが、芹沢には実行不可能だったことを証明している」
「だね。でも、芹沢は水本さんを殺してはいないが、その代わり、ある細工を施した。では、その細工とは何か? もちろん、草野くんはわかってるだろ?」

「睡眠薬だな」
「ご明察。そう、睡眠薬だよ。警察は、水本さんの遺体に外見的に不審な痕跡を発見しなかった。検死は行っていないわけだから、あくまでも外見的にというところがポイントだ。
 したがってこのことから、水本さんは犯人に直接殺されたわけじゃないことが読み取れる。要するに、水本さんは、殺されてから現場に運ばれたわけじゃなく、生きている状態で現場に運ばれたんだよ。
 一切の抵抗をされることなく、生きた状態で現場に運ぶ方法とは? 無論、水本さんを眠らせることだ。睡眠薬を服用させてね」
「水本は眠っている状態、言い換えれば生きている状態で、犯人に小動岬の崖から落とされた。そして、絶命した」

「そう」
 立花が力強い声で同意する。「僕は当初、遺体の発見現場と殺害現場は別々だと思っていた。でも、状況から見るに、どうやら違ったようだ。
 あの小動岬の崖こそが、発見現場であり、殺害現場でもあったんだ。そして、水本さんを眠らせた状態で崖から落とせば、自殺に見せかけて殺害することが可能になる。警察は検死をしなかったから、水本さんの体内からは睡眠薬の成分が検出されることもなかった」
「犯人の二人にとって、それはかなり好都合なことだったろうな。で、水本に睡眠薬を飲ませられるのは、芹沢だけだ。それも気づかれることなく、自然に飲ませられる場所が、ホテル、か」
「うん。草野くんの言う通り、芹沢はホテルで、水本さんの飲み物に睡眠薬をこっそりと混入させたんだ。きっと、水本さんが帰りの車内で眠るように調整して、飲ませたんだろう。
 仮に、ホテルの部屋を出るまでに水本さんが眠ってしまえば、芹沢は水本さんを抱き抱えてロビーを通り、チェックアウトの手続きをしなくてはならなくなる。そうなると、ホテルの従業員や、万が一事件性ありと判断した警察がホテルの防犯カメラの映像をチェックした際に、不審に思われるリスクが生じる。芹沢はそこのところを、緻密に計算したはずだよ」

 厚木基地に向かう米軍の航空機が凄まじい轟音を響かせながら、上空を通過していく。
 航空機が北の方角に飛び去っていき、辺りが概ね静かになると、立花は話を続ける。「ホテルを後にした芹沢と水本さんの二人は、車に乗った。やがて睡眠薬の効果が効き始め、車内で眠り込んだ水本さんを、芹沢はどこに送ったのか? 藤沢駅ではないことだけは確かだ」
「ああ」
 僕は相槌を打った。「駅周辺の防犯カメラに、芹沢の車は映っていなかった。そしてアリバイの問題から、芹沢の仕事はこれで完了。芹沢が犯行に関わったのは、車でどこかに運ぶところまでだな」
「だね。ここからは柏木先生にバトンタッチだ。芹沢はどこか人目につかない場所まで車を運転し、——山の駐車場とかだろうか——そこで、柏木先生と合流した。当然、そこには柏木先生も車で来ている」

「白のBMWだな。レンタカーは借りていない」
「ああ、違いない。レンタカーの場合、自動的に走行履歴や移動経路が記録されてしまい、レンタカー会社に知られる危険性がある。
 だから、計画的な殺人にレンタカーを利用しようとは思わないだろう。心情的にも、愛車のBMWに乗りたいはずだ。柏木先生は、二十代後半の公立高校の教師。年齢的にも収入的にも、他に車を所有しているとは思えない」
「同感だ。そうして犯行の引き継ぎ。水本は、芹沢の車から柏木先生の車に移された。場所はトランクだろう。トランクなら、もし仮に水本の目が覚めても、逃げ出される心配がない」
「そこなら、車内からの脱出はまず無理だからね。それに水本さんのスマホは、きっとこの時点ですでに取り上げられていたはずだよ」
「水本がトランクの中で目を覚ました場合、携帯で助けを呼ばれる恐れがあるからな。携帯にはGPS機能がついてるから、車がどこを走ってるのかも知られる」

「念には念を、ってやつだね」
 立花が二重顎を触りながら言う。「そうして、水本さんを引き渡した芹沢は自宅マンションへ帰り、柏木先生は水本さんを乗せた車を運転する。深夜の大雨の中、小動岬に向かってね。現場が小動岬なのは、水本さんの自宅がその近くにあるからで、より自殺だと思い込ませるための工夫だろう」
「断崖という点では、東の方に稲村ヶ崎があるが、あそこは人目につきやすいからな。一方で、小動岬に繋がる小動神社は百三十四号線に位置しているものの、あまりそこまで目立つような場所じゃない。
 おまけに、時間帯は深夜で大雨が降ってた。車なんてほぼ通っていないだろうし、通行人についても同様だ」

「そうなるね」
 立花が即座に同意する。「柏木先生のBMWが現場に到着した時、周囲は時間的にも天候的にも、人の気配なんか全くなかったはずだ」
「大雨が降る中、柏木先生はBMWを鳥居の前に停車した後、眠っている水本をトランクから出して、担ぎ上げた。先生は身長が百七十センチ以上ある。一方の水本は、妹の玲奈と同じく小柄で華奢だ。女と言えども、その体格差なら水本を運ぶのは、柏木先生にとって容易だったはずだ」
「だろうね。柏木先生には造作もないことだったと思うよ。強い殺意があるから、余計に容易かっただろう。そうして神社の敷地内を通り、その先の展望台まで水本さんを運んだ柏木先生は、ついに崖から彼女を落とした」
「……水本は、まるで自分から飛び降りたように死んだ。完全犯罪成立だ」

 僕たちの間に、しばし沈黙が流れる。
 しかし、それは耐え難い沈黙というわけではなく、あくまでも次の推論を正確に展開させるための、一時的な休息のようなものだった。

 僕たちは沿線を左に折れた。
 ここから一直線に進んでいけば、十分も経たないうちに藤沢駅に到着する。

 頭の中の考えがまとまると、僕は言葉を発した。「立花、また賭けになるんだが……柏木先生は車内の証拠隠滅を図っていない可能性があると思わないか? そうであれば僕たちの推論が当たっていると、立証できるんだが」
「そうだな……」
 立花は考え込むように視線を落とし、数秒後、顔を上げる。「いや、草野君の言う通り、先生がわざわざ車内を清掃していない可能性はあるよ」
 立花は思い直したように答えた。「芹沢と柏木先生は交際を隠していて、秘密の仲だった。学校の生徒にも、同僚にも、誰にも教えていなかった。情報通の僕が知らなかったわけだから、それは間違いない。
 だからこそ、柏木先生はまさか自分が疑われるとは思わない。先生は言わば安泰なんだ。芹沢が淫行で逮捕されようが、警察の捜査線上に柏木先生の名前が浮かび上がることはない。なぜなら芹沢自身の口から、柏木先生の名前は絶対に出てこないからだ」
「芹沢自身も、水本殺害に加担してるわけだからな。柏木先生のことを漏らしてしまえば、それは自分の犯行を自分で証言することになってしまう。要するに、芹沢と柏木先生は運命共同体ってことだ。どちらか片方が裏切れば、それは両方の破滅を意味する」

 思えば、先週、芹沢と柏木先生の聞き込みをした際の二人の反応は、どこかおかしかった。
 二人とも過剰に反発して、僕たちの行為を非難していた。

 それは裏を返せば、これ以上、深入りされることを嫌ったことを意味する。
 せっかく警察が水本の死を自殺だと処理しているわけだから、僕たちが——それもゴシップ大好きな新聞部だ——その件を追究することを許すわけにはいかなかったのだ。
 あれは、そういう種類の反応だった。

 柏木先生の、「これ以上、心配をかけないで」という言葉も、僕たちが真相を突き止めようとすることに対して、無意識に抵抗した心理が表れていたのだろう。
 今なら、色々なことの辻褄が合う。

「すなわち、柏木先生が疑われることは皆無だと言っていい」
 立花が断言した。「先生もそれを理解しているだろうし、安心し切っているはずだよ。草野くん、そういった状況下において、柏木先生が証拠の隠滅を図る可能性はむしろ低いのかもしれないよ」
「だよな」
 僕は首を縦に振り、そして見解を述べる。「車内の物的証拠だ。先生が証拠隠滅を図っていないのなら、被害者である水本小百合が先生のBMWの車内——トランクと接触したことを示す痕跡がびっしりと残っているはず。指紋、頭髪、皮脂、衣服の繊維……ありとあらゆる物証がそこに存在している」
「そいつは、かなり期待できそうじゃないか?」
 立花はそう言って、ギョロ目を輝かせた。「柏木先生は油断してるだろうし、そもそも警察が自宅を訪れて、物証が検出されることなんて、先生は夢にも思ってないかもしれない」
「ああ、それに期待したい」

 東海道線が真横を走り去った後、立花はすぐに話し始める。「草野くん、他にも別の角度から、柏木先生の犯行を裏付けられそうな手段があるぜ」
「なんだ?」
 立花の口の端が持ち上がる。「Nシステムだよ」
「そうか、Nシステム! 事件が起きた日の時間帯、柏木先生の車が現場に向かう時に、Nシステムの下を通過した可能性はある。そしてその際に、車のナンバーと運転席の柏木先生の姿が、ばっちり撮影されてるはずだ」
「その通り。主に幹線道路に設置される、ナンバー自動読み取り装置こと、通称Nシステムは、犯罪捜査に使用されるシステムだ。確か、県内だけでも相当な数が設置されてるはずだよ」
「だとしたら、車が通過している可能性は尚更高まってくるな」
「そうさ! 車内の物証に、Nシステム。これら二つの証拠が揃えば、もはや柏木先生は言い逃れできないんじゃないかな」

 立花の言う通りだ。
 仮に柏木先生の車のトランクから、水本がそこにいたことを示す物的証拠が見つかったとしても、「運転したのは自分ではない」などと主張して、先生はシラを切る可能性がある。

 しかし、あの日のあの時間帯、愛車を運転して現場の方向に向かう柏木先生の姿がNシステムで撮影されていたとなれば、もう言い逃れはできなくなる。
 この二つの条件が見事に揃えば、柏木先生の犯行を完璧に証明できるのだ。

「これが、最後の賭けになるな」
「みたいだね」
 立花が口元を微かに緩める。「にしても、僕らはなかなかのギャンブラーじゃないか?」
「ああ、そしてこれまで全部勝ってきた。運は完全にこっちの味方をしてるぞ、立花」
 立花は朗らかに笑った。「よし、後はこの推論が真実であるかどうかが検証されるには、警察の捜査に懸かってるね」

「僕たちから直接言ったところで、どうせ聞き入れてはくれないだろう。水本玲奈を通して伝えた方がいいだろうな」
「そうだね。まずは玲奈ちゃんに、僕らが組み立てた推論を聞いてもらおうか。仮に部活中でも用件を伝えれば、抜け出して来てくれるはずだ」
 そう言って、立花が素早い手つきで携帯を操作する。「オーケー、伝えた」

 すぐに、立花の携帯から通知音が鳴った。「早っ。もう返信が来たよ」
 立花は画面に視線を落とす。「草野君。今玲奈ちゃん、部活中だけど早退してすぐに行くって」
 僕は思わず苦笑する。「早退か。僕たちと同じだな」
「そうなるね」
 立花も微笑んで答える。「待ち合わせ場所は、この間の辻堂駅の前のディグジーズになった。よし、僕らも急ごう」

「おい、本気か?」
「当たり前だろ。わかるだろ、草野くん? 僕らは今、とてつもなく走り出したい気分のはずだぜ」
 快活な調子で言った後、「まあ、夕日は反対側だけどね」と付け足した。
 僕は力なく首を横に振った。「僕はお前と、そういう体育会系的な情熱を共有した覚えはない」
「違う。これは体育会系のノリなんかじゃない。いいかい? では、柏木先生が証拠隠滅を図っていないことを前提に考えよう。万に一つ、今日にでも心変わりした柏木先生が車内を抜かりなく清掃してしまう可能性だって、ないこともないんだ。
 だからこそ、警察に柏木先生の車をすぐにでも調べてもらうように、少しでも早く働きかけるべきなんだよ。ゆえに、僕らは急ぐ必要がある。どうだい、論理的だろ?」

 相変わらず、口が達者だ。
 本当はただ衝動的に走り出したいだけのくせに、もっともらしい理由をその場ですぐに思いつくのは、さすがだと言わざるを得ない。

 きっと反駁はんばくを試みたところで、立花は聞かないだろう。
 だから僕の心境は、観念というよりもはや諦念ていねんに近かった。

 そして立花が駆け出すと、——不本意ではあるものの——僕も同じように足を動かす。
 藤沢駅に向かって真っ直ぐ伸びる道のりを、僕たちはただひたすらに走った。

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