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幽霊が出た!

 数学の授業が終わり、次に英語の授業が始まるまでに十五分の休憩時間がある。
 この時間、真面目な生徒ならテキストを開いて予習なんかをするんだろうけど、俺も緒方も不真面目ではないが特段真面目というタイプでもないため、スマホでプロ野球ゲームをやっていた。

 時間は夜の七時半過ぎ。学校の教室よりも三分の一ほど狭い塾の教室は、二十人くらいの中学生たちがいて、騒がしくて活気に満ちている。
 さっきまで一次関数の小テストが行われていたこともあって、緊張の糸が切れた教室の中の空気は完全に緩んでいた。
 まあ、俺たちは中学二年で受験生ではないから、この現象は自然の摂理なのかもしれない。

 中学二年とは一番多感で調子に乗る時期なのだ。「中二病」という言葉の存在が俺のその持論を立証していると思う。
 中学生らしい中学生的な会話が飛び交う教室で、俺と緒方は「よっしゃあ」とか「あっ、やられた」とか呟きながら、互いに向かい合ってリアルタイム対戦に集中していた。

 液晶画面の中で俺が操作する佐野が、緒方の菅野からタイムリーヒットを放った時、後ろの席から「えっ、本当に幽霊見たのっ」と女子の声が聞こえてきた。
 ガサツで声が大きくて、いかにも体育会系といった感じの中村尚美の声だ(実際、中村は身長が百七十センチ近くあって、片瀬中の女子バレー部の部長をしている)。

 「幽霊」という非現実的なフレーズに思わず反応した俺と緒方は、画面から目を離して、一瞬だけ互いに顔を見合わせた。
 でも、振り向いて会話に混ざることはしなかった。今、俺のDeNAと緒方の巨人は両チームとも四対四の同点で、試合は後半戦に突入していた。拮抗しているこの熱い試合を、中断するわけにはいかない。

 それでも女子たちによる幽霊の話が気になる俺は、試合に集中する一方で会話を盗み聞きすることにした。
 後ろで、隣の席同士の、中村尚美なかむらなおみ引田志保ひきたしほの女子二人が話している。
「どこ? どこで見たの?」
 中村の声だ。
 相変わらず声量が馬鹿にでかい。わざわざ盗み聞きしようなんて意識しなくても、こちらの耳に無理矢理飛び込んでくる。
「藤が谷公園。あたしの家、境川の近くにあんじゃん? だから塾から帰る時は公園のそばを通るんだけど、そこにいんのよ」
 引田は見た目は可愛いのだが、ギャルみたいな少し馬鹿っぽい喋り方をする。実際、その喋り方に符号するように成績はあまり良くない。

「公園で? 具体的にはどんな感じだったの?」
 中村の口調は、いかにも興奮を隠しきれない感じだ。
「公園の真ん中に、髪の長い女性が一人で立ってるの。何もせず、ただ突っ立ってるだけ。それがあまりにも異様な雰囲気だから、うち、興味本位で自転車から降りてしばらく眺めてたんだけどね、その女性ピクリともしないの。
 五分くらい観察してても、マジで全然っ動かないから、なんだか急に怖くなってきて、その場から急いで離れたわけ。で、それを初めて見たのが先々週のこと。それ以来、塾帰りの夜は、藤が谷公園にその女性が絶対にいるんだよね」
「え、やばいねそれ。志保が塾の日は必ず見るわけ?」
「そう、必ず。だから最近、あれ幽霊なんじゃないかって思い始めて」
「やばあい。夜の公園にいっつも1人で立ってるわけでしょ? それ絶対幽霊だよ」
 ただの変質者の可能性もある。幽霊だと断定するには早いんじゃないのかな、と僕は心の中で突っ込みを入れた。

「やばいっしょ? でね、何がやばいかって、その幽霊赤いコート着てんのよ」
 引田がそう言った時、「この時期に?」と隣の緒方が振り向いて訊いた。
「え、何? 聞いてたの?」
 一瞬の沈黙の後、引田が少し驚いた様子で訊き返した。
「そりゃ、聞こえるでしょ。真後ろだし、お前ら2人とも声でかいんだもん」
 僕は緒方の机を見た。
 スマホが置かれている。緒方のやつ、何の断りも入れずに勝手に試合を棄権して後ろの会話に参入するつもりらしい。勝手なやつ。

「あ、そう。ゲームに熱中してるから、うちらの会話聞いてないかと思った」
「それよりそのコートの女だよ。今六月だぜ? 本当にコート着てんのかよ」
「だから着てるの」
 引田は少し語気を荒げた。「あれ、百パー幽霊なんだから」
「なあ、清水はどう思うよ」
 隣の緒方から訊かれて、俺はスマホから顔を上げる。「俺?」
「うん。聞いてたろ? お前の意見はどうなんだ?」
「えっと、そうだな」
 そう言って、体の角度をやや後ろに向ける。

 一人の男子と二人の女子が僕の方を見ている。
 スポーツ刈りで日に焼けた緒方と、ショートボブで体の大きい中村と、ポニーテールで二重の大きな瞳の引田。
 学校終わりだから、俺たちは全員制服を着ている。それぞれクラスは違うがみんな同じ近隣にある片瀬中の生徒のため、着ている制服のデザインも同じだ。

「引田」
 俺は真後ろの引田に目線をやった。「今って梅雨の時期だからさ、その人が着てたのはレインコートじゃないのか?」
 今は六月後半で、関東は二週間以上前から梅雨入りしている。
「違うわよ。レインコートじゃなかった。あれはもう完全に冬物のコートだった」
「ふうん」
「あと、清水。その『人』じゃなくて、その『幽霊』ね」
 右後ろの席から、中村がすかさず訂正した。
 俺は無言で苦笑した。あくまでも、その女性は生きている人間ではないという見解らしい。

 窓の向こうから、江ノ電の走行音が聞こえてくる。
 この塾は沿線に位置していて、真横には鵠沼くげぬま駅がある。
「でも、確かに気になるな」
 緒方は腕を組んだ。「同じ時間帯、同じ場所で、いつもその女がいるわけだろ? それも全く動かずに。理由は何なんだろうな」
「それがいくら考えてもわかんないの。うちさあ、なんだか怖くなってさあ、今日は別のルートで帰ろうと思ってんだよね」
「うん、絶対そうした方がいいよ。志保このままじゃ呪われちゃうかもよ?」
「ちょっとやだっ。怖いこと言わないでよ」
 引田は中村の肩を叩いた。
 二人は笑い合った。女子の笑い声って抑制が全くないというか、本当に周囲に響き渡る感じだ。

「なあ、塾が終わった後さ、その公園に行ってみないか?」
 急に、緒方が提案する。「やっぱりその女が幽霊なのかどうか気になるし、確かめに行ってみようぜ」
「えっ、いいね。面白そう。行きたい、行きたい」
 中村は意気揚々と賛成した。「もちろん志保も行くでしょ? てか、帰り道だもんね」
「まあ、みんなと一緒なら安心、かな」
「清水も行くだろ?」
 緒方に訊かれ、俺は即答する。「俺はパス。帰って観たいアニメがあるんだ」
「だめ、清水も来るの」
 中村はびしっとこっちを指差した。「これはバレー部の部長命令よ」
「俺、バレー部じゃないし、そもそも同級生だろうが」
「あ、わかったあ」
 引田は悪戯っぽい笑みを浮かべる。「清水さ、怖いんだ?」
「はあ? 怖いわけないだろ。俺はただ撮り溜めたアニメを……」
「清水、うちら女子がこれから幽霊調査に行くっつってんのに、男のあんたは行けないっていうわけ? ああ情けない。清水わたるって男は本当に情けないわ」
 中村の挑戦的な発言に、お前はどちらかと言えば体格的に男寄りだろ、と変えそうとして俺は口をつぐんだ。
 こんなことを発言すれば、多分、中村から殺されてしまう。

「わかったよ」
 俺は降参した。「そこまで言われたら、行かないわけにはいかないよな。一応、『男』だしな」
 最後の方は、中村を見て言ったつもりだった。
「よしっ、決まりな。塾が終わり次第、俺たち四人で幽霊調査開始だ」
 引田と中村は笑顔だった。一方で、俺はとても笑う気にはなれなかった。
 やっぱり、ちょっと怖いのだ。

 およそ一時間が経ち、英語の授業が終わると、俺たちはやっと塾から解放される。
 午後八時半。外は真っ暗で、夜空には三日月が浮かんでいる。
 日中と比べれば湿った暑さは少し緩和されたものの、それでも夏本番が徐々に迫りつつあることを伺わせる気温だった。

 駐輪場で自転車を出し、俺たちは出発した。
 赤いコートを着た女の幽霊がいるという問題の藤が谷公園は、塾から直線距離にして二百メートルしかない。
 踏切を渡り、境川沿いの遊歩道をしばらく走っていくと、すぐに目的地の前に到着した。

 ブランコに滑り台、屋根付きのベンチがあり、多くの木々が乱立する比較的広い公園内で、女は確かにいた。
 辺りは暗いが、街灯が僅かに女の姿を照らし出している。
 引田の証言通りだった。
 ここからおよそ十五メートル先、公園の中央付近で、赤いコートを着た髪の長い女が立っている。
 しかも、背はかなり高い。概算して百八十センチ以上はありそうだ。

 公園内は他に人の姿は確認できず、その女だけがぽつんとそこに存在している。
 そして自分たちがいる川沿いからは後ろ姿になっているので顔は見えないが、恐ろしいくらい微動だにしていない。
 その位置に固定されているかのようだ。

「ほら、やっぱりいるでしょ」
 引田は声を潜めて言った。「やばいって、あれ。絶対幽霊だって」
「本当だ……やだ、実際に見てみるとすごい不気味かも」
 普段は声の大きい中村も、この時ばかりは小声になっている。
「マジかよ……あれ、本当に幽霊なのかよ」
 基本的に能天気な性格の緒方の口ぶりにも、どこか緊張感が感じられた。
 そして僕自身も、正面に立っている赤いコートの女を、口を引き結んでじっと見つめていた。

 五分ほど女の様子を観察していたのだが、彼女は一向に動く気配がない。
 引田と中村は女の写真をパシャパシャとスマホで撮ったりしていたが、特に何の変化も見受けられない。風も吹かないので、彼女の髪がなびくこともない。
 もちろん、声も発していない。ケラやキリギリスの鳴き声が公園内に響くだけだ。
 ただただ、完全に直立不動の状態が維持されている。

「おい、もうちょっと近づいてみようぜ」
 俺たちは緒方の提案に賛同し、自転車を押してスロープを下り、公園沿いの住宅街の道を歩いた。
 公園の入り口、車止めのポールの傍に自転車を停め、その位置からまた女の観察を再開する。

 女との距離が二、三メートル縮んだものの、やはりこれといった変化は見つけられない。
 角度が変わっても、女の横顔は長い髪に遮られ、表情を伺うことはできなかった。
 でも、なんとなくそれは無表情なのではないかと、俺は想像した。

「本当に全然動かないね。何あれ? 何で動かないわけ?」
 中村は少し苛ついている。
「なあ中村、お前呼びかけてみろよ。すみませーん、って」
 対照的に、緒方はどこか楽しそうだ。
「はあ? 何であたしが? あんたが言いなさいよ」
「だって、お前この中で一番声でかいじゃん。よく通るし」
「いやっ。絶対いや。私に取り憑いたらどう責任取ってくれんのよ」
「ねえ、あんたたち」
 引田が冷静な顔で言った。「もう十分大きな声発してる」

 あ、と緒方も中村も口を塞いだ。数秒間、僕らの間に沈黙が流れた。
「しかし変だな」
 僕はつぶやいた。「向こうにも聞こえるくらいの声量で話したのに、あの女、こっちを一度も振り向かなかった。と言うより、一切動きという動きが見えない」
「ね、おかしいよね」
 引田は怪訝な表情で頷いた。「動かないことに、何か理由でもあるのかな」
「わかった。金縛りに遭ってるんだ。幽霊なのに金縛り。面白いだろ?」
「全然面白くない」
 緒方のくだらない発言を、中村は一蹴する。
「おおいっ、幽霊さあんっ」
 引田は口元に手を当てて、大声で言った。「こっち振り向いてくれませんかあっ」

 引田の突然の行動に、三人とも驚く。
「びっくりしたあ。志保って意外と肝が据わってんのね」
「うん。何かやりたくなっちゃって」
 引田は照れ笑いを浮かべた。「でもほら、意味なかったみたい」
 引田の指摘通り、女はやはり一切動く素振りを見せず、当然こちらを振り向くこともしなかった。
「本当に何なんだろな、あれ。マジで人形みたいにピクリともしねえじゃん」

『人形』という緒方の言葉によって、直感的にある考えが閃いた。
 あれは人間でもなければ幽霊でもない。だとすれば……。
 三人を入り口に残し、公園を直進して女の方へと近づいていく。

「え、ちょ、清水っ? どうしたのよ、急に?」
 背後から中村の慌てた声が聞こえたが、俺はそれを無視してどんどん一直線に進んでいく。あの女に向かって。
「おい、清水。お前命が惜しくないのかよっ。今ならまだ間に合うっ。戻ってこいって」
 俺は緒方のその言葉に苦笑しながらも、振り向かなかった。少し、三人をからかいたくなったのだ。振り向かなくても、三人が俺の行動を「奇行」と捉えていることはわかる。

 女のすぐ傍まで近づいた俺は、彼女の正面に回り込んだ。
「やっぱり」
 俺はそれを見上げてつぶやいた。
 予想通り、それはマネキンだった。ショッピングモールにある服屋なんかでよく展示されているあの女性のマネキンが、ここ藤が谷公園に設置されているのだ。

 赤いコートは本物だが、髪はカツラで、人形だからは肌は真っ白だった。表情のない、よくある典型的なマネキンだ。
 入り口からこちらを心配そうに見ている三人に向かって、手招きした。
 すぐにこちらに駆け寄ってきては、赤いコートの女の正体を理解する。

「何これ、マネキンじゃん」
 中村の呆れた声が、夜の公園に響いた。
「何だよ、幽霊じゃなかったのかよ」
 緒方はいかにも残念そうだ。
「あ、だから一切動かなかったわけね。マネキンだから」
 僕は中村に向かって頷いた。「そういうこと」
「え、ちょっと待って。でもさ、何で公園にマネキンがあんのよ」
 引田は顔をしかめる。「そんなの絶対おかしくない?」
「ああ、俺が気になるのはそこだよ」
 俺は肯定して、引田に質問する。「このマネキン、今日塾に向かう時ここにいたか?」
「ううん。見なかった」
 引田は首を横に振った。「ていうか、もしいるんだとしたら小学生たちが騒いでるよ」
「だよな。つまり、夕方から夜にかけて、わざわざここにマネキンを置いてる人間がいるってことだよ。それも引田はこのマネキンを複数回目撃してるわけだから、そいつはマネキンを置く行為を何度も繰り返してることになる」
「え、誰が? 何のために?」
「わからない。わからないけど、異常者の仕業には間違いないだろうな」

 しばらく、僕らの間に沈黙が流れ込んだ。
「何かうち、別の意味で怖くなってきたんだけど」
 引田がつぶやく。
「あたしも」
「考えてみれば、幽霊なんかよりもよっぽど生きてる人間の方が怖いんだよな」
 俺はマネキンを見上げた。「人間を幽霊に変えてしまうのは、いつだって人間の方だからさ」
「清水ってさ、たまに哲学的なこと言うよな」
 緒方は乾いた笑い声を発する。「まあ、でも清水の言う通りだよな。ほら、今この瞬間にも、このマネキン置いたやつが俺らのこと監視してるんじゃ……」
「ちょっとお、怖いこと言わないでよっ」
 中村は緒方に向かって怒鳴った。

 気が済んだ俺たちは、入り口まで引き返し、各自停めてあった自転車に乗り込み出発した。
 帰り道は、心なしかみんな口数が少なかった。
 公園にマネキンを定期的に設置する異常者が僕らの町に存在していると、判明したからかもしれない。

 一週間後の木曜日、俺たちは塾の教室で向かい合っていた。
 窓の外はまだ明るく、先生が教室に入ってくるまでにまだ五分ほど猶予がある。

「それで、どうだったの? あのマネキン、あれから見た?」
 中村は引田の方を見た。
「それがさあ、見てないのよ。一昨日の火曜の夜にさ、意を決してあの川沿いを通ったわけ。そしたら、マネキンなんて一体もいなくて、人っ子一人いなかった」
「あれがマネキンだってわかった途端に、見なくなったわけか」
 緒方が腕組みしながら言った。
「そう。だから、なんかそれもそれで気味悪くって」
「やっぱり、あの時わ誰かが俺たちのこと監視してたのかな」
 俺はシャーペンを回しながら想像を口にする。「中坊に見つかったから、マネキン置くのはやめることにしたとかさ」
 そう言った瞬間、中村に頭を引っ叩かれた。
 反動で、シャーペンは俺の右手から床に落下した。

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