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『ただ行ってみたくて』ポーランド編①

飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、知らない場所には行ってみたい。冒険などではない、旅と呼ぶのもおこがましい、理由などない、ただ行ってみたい。

 今回は、馴染みの薄いポーランドへ。美人に浮かれ、ビールを飲みまくり、料理に舌鼓をうち、アウシュビッツでは考え込む、ひたすら自由でテキトーな8日間の旅行記。


ポーランド旅行① 揺れる心と揺れる飛行機

 飛行機は、大きく揺れていた。窓から外を覗くと雲でほとんど視界がない。梅雨空が覆っているのだ。

 跳ね上がったかと思うと、今度はガクンと下へと揺れる。体中がふわっと浮かびあがった。

 離陸してから三十分以上経っていた。すでに安定飛行に移って、シートベルトの着用サインが消えてもおかしくない時間だ。

「これは当分、揺れるかもね」
 座席の隣で妻が言う。目の前のモニターを見ると、まだ日本上空だ。茨城か群馬か、よくわからないが、まだ日本海に出る前の内陸であることは確かだ。

 飛行機が苦手は僕は、鞄から酔い止めの薬を取り出して飲んだ。手のひらは冷えきっていたがビッショリと濡れていた。心臓の動機が止まらない。

 トラウマが蘇る。以前、羽田で着陸を三回試みたが失敗し、成田に向かい、そこでも二回着陸を試みるも降りることができなかった経験がある。あのときは二時間ばかりずっとジェットコースターに乗っているような感じだった。あれ以来、飛行機に乗るのが怖くて仕方がない。

 だが、それでも海外に行くためには、飛行機に乗らなければならない。怖い、でも行きたいのだ。未知の国を見てみたい、未知の人々と出会いたい、未だ一度も通ったことのない場所を歩いてみたい。

 旅行には、安くないお金と、たくさんの時間が必要だ。どこにそれほどの魅力があるのだろうか。自分でもよくわからない。やることと言えば、ふらふらと歩き回り、どこかの街角でビールを飲むだけだ。特に世界遺産に興味があるわけでも、歴史や料理に通じているわけでもない。やることと言えば、散歩とビールだ。

 何かを達成するわけではない。もちろん使命もない。海外へ行くといっても辺境へ行くわけではない。どこにでもある都会だ。それこそ誰でもできる。冒険などではない。旅と呼ぶのも恥ずかしくなるような観光旅行だ。誰かに自慢できるものでもない。

 そんなに飛行機が怖いならやめればいいのに・・・・・・。

 ガックン、と飛行機が揺れる。機内のどこかから赤ちゃんの鳴き声が聞こえる。機長のアナウンスがあるが、ポーランド語なので何を言っているのかわからない。余計に怖くなる。

 僕は落ち着きなく、キョロキョロと窓の外と機内を見比べる。さっき飲んだばかりで酔い止めの薬は効いていない。胸がむかむかする。

 いつまで揺れは続くのだろうか。終わりが分からないだけに不安は一層深くなっていく。

 隣の席を見ると、妻は目を閉じてじっとしていた。眠ってしまったのだろうか。とにかく僕のようにはジタバタはしていない。妻がいいところは、僕が守るなんてことをしなくても大丈夫なところだ。兎に角、強靱で意志が強く、もちろん喧嘩も強い。うらやましい限りだ。一方の僕は環境の変化に弱く、繊細ですぐにお腹を壊すひ弱な男だ。妻には面倒をかけて、いつも怒られている。

 僕は大きく深呼吸をしながら目を閉じた。これくらいの揺れで飛行機が落ちることはない。大丈夫だ。世界で飛行機が落ちる確率は、宝くじで三億円が二回当たるのと同じだと、妻が以前に言っていた。二度もジャンボが当たった人など聞いたことがない。大丈夫だ。年末ジャンボ二回分。そう念じながら心を落ち着かせようとした。

 だが、揺れはなかなか収まらない。日本海を抜けシベリア上空にさしかかっているにもかかわらずだ。

 しかし、ああ、もう駄目だと思った瞬間に、飛行機の揺れが突然おさまり、シートベルトの着用サインが消えた。まるで何もなかったかのように、乗務員たちが立ち上がり、飲み物を配り始めた。

「あれ?」
 なんだか深刻になっていた自分が馬鹿らしくなる。

 自分たちの番がやってきたので、僕はそっと妻を起こして訊いた。
「何を飲む?」

 妻は目を開けると、ビールにしようか、それともワインにしようかとつぶやく。そしてお腹がすいた、と言う。

 一方、あまりにも揺れていたので、僕は何も飲む気にはなれなかった。だが、少し心を落ち着けるためにもアルコールを飲んだ方がいいと思い直して、赤ワインを頼んだ。

 一口飲むと、ほっとため息が漏れた。やれやれ、今回の旅行はどうなることだろうか。これからまだ八時間ほど飛行機に乗らなければならない。ポーランドまでの飛行時間はトータルで十一時間ほど。しばらくアジアへの旅行しかしてこなかった僕らにとっては、ひさしぶりのヨーロッパ旅行だった。

「それでも乗り換えがないだけいいじゃない」

 妻が言う。確かにそうだ。直行便でポーランドのワルシャワまで行けるのだ。

 しかし、なぜポーランドへ。
 旅行に出る前に、友人たちに何度も訊かれたことだ。僕らにもそれはわからなかった。パリやイタリアそれにスペインへも行ったことがあるとはいえ、わざわざポーランドに行く理由などないだろう。

 ポーランドは中欧と言われ、三十年ほど前までは共産主義だった国だ。日本人にとっては馴染みの薄い、観光する場所があるとは思えない場所だ。

 もちろん僕だって、旅行を決めるまでポーランドに何があるのかまったく知らなかった。だが、知らないことが逆に行きたいという思いを後押ししたことも確かだ。

 半年前、妻がそろそろヨーロッパへ行きたいと言い出したのだ。ここ四年ばかり、ベトナムやバリ島、タイやマレーシア、シンガポールなど東南アジアばかりを巡ってきた。とくにベトナムは二年間に四度も行くほどはまっていた。現地で友人もでき、旅に広がりだけではない深さが出てきたのも確かだった。

 だが、旅に慣れきってしまったこともある。知らない土地に降り立つ興奮が薄れてしまっていた。

 僕はヨーロッパへ行く安い航空券を探すことにした。だが、どのチケットも中東経由で二十時間以上かかる。

 もうそんなに若くない僕らにとっては過酷な旅だ。さてどうするか、諦めかけていたときに、ポーランド航空のことを知ったのだ。去年就航したばかりで、燃料サーチャージ込みで十万以内で行けるらしい。

 これはいいかもしれない。僕はすぐに妻に訊ねた。

「ポーランドって、どうかな?」
 すると思っていた通りの返答が返ってきた。

「何があるの?」
 その通りだった。僕も同じように思ってネットを検索していたからだ。

「ポーランドには、アウシュビッツがある」
「アウシュビッツって、あのアウシュビッツのこと、ドイツにあるんじゃないの?」
「違うんだ。アウシュビッツはポーランドにある。首都ワルシャワから、クラクフという古都の近くにあるんだ」
「へぇ~凄いの見つけてきたのね」
「怖いよな、でも興味がある。それにクラクフは日本の京都みたいな存在で、日本人には馴染みはないけど、ヨーロッパでは有名は観光地らしい。写真で見たけどいい街だよ」
「う~ん。どうかな」
「兎に角、航空券は破格に安い。それも直行便だ」
「わかった。行こうよ。ポーランド。まさか私がアウシュビッツに行くとは思わなかった」

 妻の言う通りだった。アウシュビッツは負の世界遺産と言われ、行ったところで、決して良い景色があるわけでもないし、いい気分がする場所でもなかった。だが、行く価値は十分にあった。

 それでもホテルを決める時には、まだ別の場所に行けるのではないかと迷っていた。実際にクラクフに行くのをやめれば、隣の国であるドイツの首都ベルリンまで同じくらいの時間で行けるのだ。

 ベルリンに行ける。調べると確かに魅力的な街だ。東西冷戦時代の象徴であるベルリンの壁を見ることができるし、何よりも初夏のドイツへ行って本場のビールを飲めることが大きかった。

 迷いに迷ったが、妻の一言で決まった。

「ドイツならいつでも行けるけど、ポーランドには二度と行かないかもしれない。特にアウシュビッツに行きたいという気持ちもないけど、それでもこれを逃したら行くことはないかも」

 確かにそうだった。これも何かの縁かもしれない。そう考えるとポーランドの古都クラクフがよく見えてきた。ポーランドでは唯一戦争での破壊を逃れた中世の街だ。この街にももう行く機会はないのかもしれない。
 もう決意は決まった。行こうじゃないか、ポーランドへ。

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