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「ただ行ってみたくて」ポーランド編⑩

ポーランド旅行記⑩
「ホテルのオーナーがやって来ない!」

飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、知らない場所には行ってみたい。冒険などではない、旅と呼ぶのもおこがましい、理由などない、ただ行ってみたいだけだ。

今回は、馴染みの薄いポーランドへ。美人に浮かれ、ビールを飲みまくり、料理に舌鼓をうち、アウシュビッツでは考え込む、ひたすら自由でテキトーな8日間の旅行記。

ポーランド旅行記⑩

「なんだか暖かい、ここ」と妻が言った。

クラクフの駅に到着すると、すぐにワルシャワとの違いに気がついた。天気がいいのもあるが、とても暖かいのだ。

僕はすぐに着ているフリースを脱いだ。ワルシャワから三百キロあまり南に下ってきただけで、こんなにも気候が違うのだろうか。きっと二十五度以上はあるだろう。

上着を脱いだこともあって、一気に解放された気分になった。ここでならTシャツ一枚で過ごすことができる。

「いいじゃない、クラクフ!」

駅に到着したばかりなのに、妻はもう気に入ったみたいだ。

その気持ちはわかる。それは気候がいいばかりではない。この街はワルシャワと違って共産主義の匂いがしないからだ。

ワルシャワにある共産主義の匂いとは何か。それは計画性と言えるかもしれない。ワルシャワでは道路は異常に広く、区画はきっちりと決められている。

しかし、ここクラクフは戦火を逃れた中世の街だけあって、道路も入り組んでいるし、建物もまちまちだ。そこには住む人たちの匂いがある。

ワルシャワとクラクフを比べるだけで、いったい共産主義は何を残したんだと疑問を感じる。ワルシャワの街は、上からの指示で作られたに違いない。政府にとっては都合がいい街だが、そこには人の温もりを感じない。

だいたい共産主義は、労働者の味方と言って平等を唱えているが、いつもどこか上から目線なのが鼻につく。ワルシャワの街がどうも好きになれないのは、この上からの目線を感じるからだろう。どうだ、広いだろうこの道路!どうだ、この建物、大きいだろう!凄いだろ、共産主義!

考えてみればわかるが、凄いだろう、俺って、と自分で言っている男に、凄い人物がいたためしはない。

それとは反対に、クラクフの街は自分たちの主義主張を正当化するためには作られていない。そこには人々の生活があるだけだ。

まぁ素敵!その飾らない雰囲気が素敵よね!と女の子たちにモテている男の子ようだ。

実に不公平だが、致し方ない。

気持ちが盛り上がる。今日から四日間、ここクラクフに滞在することになる。旅行前はワルシャワ滞在を増やそうかと考えていたが、そうしなくてよかった。

妻も機嫌がよくて何よりだ。

「ところでホテルはどっちなの?」

と妻が言う。そう、ここからがまた問題だ。今回クラクフでは普通のホテルではなく、アパートメントホテルを予約していたのだ。

その名の通り、アパートの部屋を貸し出してホテルにしているのだ。値段も安い上に、部屋は広く、キッチンも付いているので、生活するように滞在できるのが売りだ。

ただし問題は、立地がいいわけではなく、管理するスタッフも常駐しているわけではなかった。

「どのくらい歩くの?」

と妻が尋ねる。十五分だろうか、それとも二十分だろうか、スーツケースを引っ張っているので、もっとかかるのかもしれない。

駅の近くにホテルアイビスがある。一泊一万円くらいだったから、予約しようかと思っていたホテルだ。やっぱり駅のそばが良かったかなぁ。

今更、弱気になるのも何だが、アパートメントホテルは、部屋のオーナーと鍵の受け渡しをしなければならないのが面倒だった。午後二時に建物の前に来てもらう約束だ。昨夜も念押しでメールを送っておいた。

現在は午後一時十五分。どんなに迷っても四十五分はかからないだろう。できれば少しでも早くホテルの前にたどり着きたかった。

僕は地図を見ながら、慎重にホテルまでの道を進んでいく。ホテルまでの道のりは長かったが、気分はいい。

街自体が華やかで、歩いていても退屈しないのだ。僕らは、その古い建物や緑の街路樹、それにスーツケースのタイヤを痛めつける石畳でさえ楽しく感じた。

とにかく真っ直ぐ進み、突き当たりを左に曲がるのだ。二十分以上歩いてやっと目的地のそばまで、やって来た。

今回は住所もちゃんと調べている。アパートの外観の写真もある。

「あ、これじゃないの!」

妻がアパートを見つけた。扉のわきに小さな看板がある。しかし、注意していないと見逃してしまう大きさだ。危ない、危ない。

時刻は午後一時四十五分。約束の時間よりも早く着いたが、駅からは三十分も歩いたことになる。

建物の扉はオートロックになっているようで開かない。試しに呼び鈴も鳴らしたが反応はなかった。どうやらオーナーはまだ来ていないようだ。

しばらく待っていると、スーツケースを引っ張った一団がやってきた。中年の男たち四人組だ。

「お前たちは、ここのオーナーか?」

髭の男が僕に尋ねた。まさか、そんなわけはないでしょ。

「僕らはここに泊まる予定で、オーナーを待っているんだ」と言った。

男たちは、シー、シー、そうかそうかと頷いている。どうやらスペイン人のようだ。彼らも二時にオーナーと待ち合わせらしい。

もう二時を過ぎていたが、まだオーナーは現れない。

すると中から若い女性が階段を降りてきて、扉を開けた。

オーナーだろうか。みんな、ホッとして彼女を見つめる。僕はホテルの名を言う。だが、女性は別のアパートメントホテルのオーナーのようだ。

スペイン人の男たちが、その女性に話しかける。どうやら僕らのホテルのオーナーに電話をしてくれているようだ。

だが、女性は首を横に振った。練絡が取れないようだ。すでに約束の時間から二十分が経っていた。

そのとき、若い女性の二人組がやってきた。今度こそオーナーだろう。スペイン人が駆け寄る。早口の英語のやり取りがつづく。どうやら彼女たちは、僕らとは違うアパートメントホテルの客らしい。

オーナーが来ないまま三十分が経過した。妻は呆れて、ぼんやりとしている。もしこのままだと、別のホテルを探さなくてはならない。どうしよう。

「やっぱりこういうホテルはダメね」

妻は疲れたのか、階段に座り込んだ。

一方で途方に暮れている僕らをよそに、スペイン人の男たちは、どこまでもマイペースだ。後に来た女の子と話をしたり、タバコを吸いにいったりと忙しい。四人とも、こんな事態に慣れているのか、どこにも深刻な感じがなかった。

流石はラテン系の人々である。僕ら夫婦も彼らにつられて、なるようにしかならない、ちょっと遅れてるだけだよ、と思うようになっていた。

そうだった。ヨーロッパでは列車は定刻に来ないし、約束の時間はいつもルーズだ。三十分の遅れなど、遅刻のうちに入らないのだろう。

ただし、僕らは日本人だ。きっとこのアパートメントホテルにも、これから日本人は来るだろ。そのためにも、叱言の一つでも言ってやらねば。

トゥーレイトだ。アングリーだ。テリブルだ。

そう思っていると、一人の女性が慌ててやってきた。

ポーランド語なのでわからないが、たぶん、ごめんなさい、待ったよね、と言っているのだろう。なんか、とっても感じのいい女性で、入って来た瞬間、この場がパッと明るくなった。

遅れて来たけど、彼女、大丈夫かな、何かトラブルでもあったんじゃないの、とこちらが心配になるほどだ。

先程までの叱言は、どこかへ行ってしまった。そう、男は美人で感じのいい女性には弱いもんなんです。

僕らは、鍵を受け取り、部屋に案内される。

ああ、なんて素敵な部屋なんだ。ワンルームだが、10畳以上あるだろうか、天井は高く。二つある窓を開けると、爽やかな風が入ってくる。外に見えるのはクラッシックな建物と街路樹の緑だ。これで三泊一万五千円だった。

オーナーの女性が、どう?といった顔でこちらを見る。僕らはもう、彼女の遅刻をすっかり忘れていた。

「グッド!気に入ったよ」

そう僕がいうと、彼女も満足そうな笑顔をした。

彼女が去ろうとしたので、ちょっと待って、と止めた。ところで、チェックアウトは、どうするのか聞きたかったのだ。

ワルシャワに帰る列車は早朝で、今日みたいに遅れて来ては困る。すると、オーナーの女性は、扉の外にあるポストを指差して、ここに鍵を入れてね、と言った。

実に簡単だ。

部屋で妻と二人っきりになると、ベッドに転がった。なんだか一気に疲れが出てきた。

やれやれ、である。

「ご苦労さまでした。英語も完璧だし、部屋も最高ね」

妻から労いの言葉をもらうと、ほんの少しだが、自分を誇らしく思う。まぁホテルに到着しただけですが。

「さぁ、出かけようよ、まだ午後三時だし、たっぷり楽しめるよ」

僕は起き上がると、出かける準備を始めた。

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