見出し画像

『父に伝える』 上田焚火

(あらすじ)仕事がうまくいかない男は、彼女に結婚を切り出せない。だが、父の危篤の知らせを受けて、男の心に微妙な変化が生まれる。父と息子それに彼女。3人の間に小さな奇跡が起こる。


『父に伝える』 上田焚火

「お父さん、あなたが来るのを待ってるみたいなの......」
 母からの電話だった。

 腕時計を見ると六時十七分だった。

「今、そっちは何時?」と私は母に訊ねた。
「今?今は......深夜零時十七分」
「そうか、時差は六時間か......」
「時差って、あなた、今どこにいるの?」
「飛行機の乗り換えなんだ。日本へ帰る途中。今はバンコクにいる」
「バンコクって、どこ?日本までどのくらいかかるの?」

 海外旅行どころか、飛行機にさえ乗ったことのない母は、世界の地理に疎い。
「タイだよ。タイ。日本まで六時間かかる」
「遠いわね。お父さん、待っていられるかしら......」

 成田に着くのが、午前七時半。そこから東京駅に移動して新幹線に乗れるのは、早くても十時過ぎだろう。名古屋までは二時間ほどだが、さらに父が入院している病院までは一時間以上かかる。

「早くても、明日の昼過ぎになるかな.....」

 到着する頃には、父の命は尽きているかもしれない。もう会えないかもしれない、ということが信じられなかった。

「とにかく日本へ着いたら、一度連絡を入れるから」

 電話を切った後、しばらく呆然として窓の外に見える飛行機を眺めていた。白地に紫色の模様が施されたタイ航空のボーイングだ。こんなことなら直行便で帰るべきだった。イタリアへ行くのに一番やすいチケットが、バンコク経由だったのだ。直行便なら、すでに成田に到着しているはずだ。こんな事態になるとわかっていなかったとはいえ、たかだか数万円を惜しんだために、父の死に目にも会えないかもしれない。

「どうしたの?日本で何かあったの?」と隣に座っていた彼女が、しびれを切らして訊ねてきた。

「親父の具合がよくないんだ」と言ったあと、私は絞り出すように付け加えた。「危篤らしい」

 そう自分で口に出して、初めて父が死ぬんだと実感した。それは子供の頃、遊びで自分の指をカッターナイフで切ったときに似ていた。ポタポタと溢れる血を見て、切ると本当に血が出るんだと実感したように。

「そんな......」
 彼女は、呆然としている私の右手を両手で包みこむように握った。彼女を父に会わせたことはなかったが、父が去年から入院していることは伝えていた。

「親父にはもう会えないかもしれないな」
「大丈夫。お父さん、待っていてくれるわよ」
「そうかな......」
「きっと大丈夫。待ってくれるわよ。そんな気がする」

 彼女は励ますように言った。なんの確信もなかったが、彼女にそう言われると、父は私が来るまで待っていてくれるような気がした。

 彼女とはつき合って五年になる。通っていたスポーツクラブで知り合ったのだ。

 彼女と知り合った当時、私は仕事がなく、スポーツクラブで昼間のほとんどの時間を過ごしていた。私は稼ぎの悪いフリーライターで、風呂なしのアパートに住んでいたために、スポーツクラブを銭湯代わりにしていたのだ。一方、彼女の方もちょうど勤めた会社を退職し、転職を考えている時期だった。だから私たちは毎日のようにジムやプールで顔を合わせた。昼間のスポーツクラブというのは、定年退職した人たちの溜まり場で、私たちのような二十代の若者などいなかったから、自然と話をするようになったのだ。

 彼女はつき合いだすとすぐに私を旅行に誘った。彼女は本当に旅が好きだった。学生の頃から、暇があるとハワイやニューヨークへ年に何回となく行っていたのだ。私はというと、もっぱら家の中で本を読んでいることの方が好きで、今までに海外どころか国内でさえ旅行したことがなかった。環境の変化に弱いというのもあったが、わざわざお金を使って遠くまで行く気がしなかったのだ。

 正直に言うと、私は彼女に嫌われるのが怖くてパスポートを取ったのだ。

 はじめての海外は台湾だった。それがよかったのかもしれない。台湾の人々のやさしさや食べ物や文化など、すべてが気に入った。それに彼女がほとんど面倒な交渉をしてくれたこともある。旅の間中、ずっと喧嘩もせずやってこられたことも大きい。それからは暇とお金があれば、年に何回でも彼女と一緒に旅行へ行くようになった。

 今回のイタリア旅行は、つき合って五周年を記念するための初のヨーロッパ旅行だった。ローマ、フィレンツェ、ベネチアの三つの街を私たちは列車で巡ってきた。

 驚いたのは、どの街にいっても日本人の観光客が多いことだった。ほとんどが定年退職した裕福な大人たちで、私たちのような若いカップルはまれだった。

 だからだろうか、どこへ行っても、「ハネムーンですか?」と訊ねられた。そして、まだ結婚していないと答えるたびに苦い思いをした。私たちはもう五年もつき合っているので、結婚という話題にはデリケートになっていた。もちろん彼女とはずっと一緒にいたいという気持ちはあった。だが、稼ぎが少なく不安定な仕事をしている手前、彼女と結婚することに躊躇していたのだ。

 こちらの不幸に彼女をつき合わせてしまうのが不憫に感じたし、彼女を養っていく力も勇気もなかった。それに何か大事なものが一つ失ってしまうのではないかという恐怖心もあったことは確かだ。だから、うまくいっている間はずっとこのままでいようと考えていた。それはその場しのぎの対処療法でしかないことはわかっていたのだが、今の私には、どうしようもなかったのだ。

 だから彼女の両親と会うことを避けてきた。もちろん私の両親に会わせることもだ。だが、父は私に恋人がいることは知っていた。だから今回、父の危篤を知らされたとき、彼女を連れてくるのを、父が待っているのではないかと、ふと思ったのだ。

 どうすべきだろうか。搭乗する飛行機を待つ彼女をそっと見た。もし一緒に病院へ行こう、と誘ったら彼女は了解してくれるのだろうか。

 だが、こんな場所で彼女に「結婚してほしい」と言うことが正解のようには思えなかった。それどころか、結婚を決めていいものかどうかさえも、まだ迷っていたのだ。
 
    2

 狭くて堅いシートの上で何度も体の位置を変えた。飛行機の中で一睡もできなかったのだ。やることもなく、トイレに立って戻ってくると、隣の席の彼女が目を覚ました。

「眠れないの?」と彼女が私に訊いた。
「うん。まあぁ、でもさ、もともと飛行機ではよく眠れないから」
「もしよかったら、私にお父さんの話をしてくれない」

 どうしてそんな話を彼女が聞きたがったのか、わからなかった。だが、私の中で、父親について話したいという思いは確かにあった。そのとき、ふと思いついたのは、不思議な話だった。

「そうだな.....子供のときなんだけど、たぶん小学生低学年ぐらいだったかなぁ......父とふたりっきりで動物園に行ったんだ」
「動物園に二人で?」
「そう。どうして、父と二人っきりだったのかは覚えてないんだけど、二人だけで動物園に行ったことは確かなんだ。珍しく姉も母もいなかった。そんなことは今までになかったけど、なぜ動物園へ行ったかという理由は明確に覚えてる」

 彼女が興味深そうにこちらをうかがっているので、私は安心して話をつづけた。

「そのとき、近所の動物園に新しくパンダが来た、という話を父が聞きつけてきたからなんだ。あの白と黒のパンダを実際に見たことがなかったものだから、ぜひ見たくて、二人で喜び勇んで動物園に行ったんだ。季節は桜の咲いた頃だったと思う。動物園は花見名所としても有名だったから、みんなレジャーシートの上で、持参したお弁当を広げていたのを覚えてる。一方こっちは桜どころか、大好きな象やライオンにも目もくれずパンダのいる場所へと一直線に進んだんだ。山の斜面の階段を登り、二十分ほどの距離だった。四月だというのに、そこに到着したとき、ふたりとも汗でぐっしょり濡れていた。そうしてやっとたどり着いて檻をのぞき込んで、二人は固まってしまったんだ」

「そんなにパンダが可愛かったの?」彼女がほほえむ。
「まぁ、可愛かったことは可愛かったんだけど、そこに自分たちが想像するパンダがいなかったんだ」
「どういうこと」

 私は、そのときのことを思い出して、笑ってしまった。

「パンダって、ずっと白黒のあのパンダを想像してたんだけど、実はその動物園に来たパンダはレッサーパンダだったんだ。どうしてそんな名前をつけているのか知らないけど、レッサーパンダって、パンダと言うよりもどちらかというとタヌキみたいだろう。だから、その姿を見て、がっかりしてしまったんだ」

 私は、そのときのことを鮮明に覚えていた。息をきらしてやってきた父と私は、そのタヌキにしか見えないレッサーパンダを見て、パンダの檻を間違えのではないかと思った。そこで父が近くにいた飼育員に確認した。パンダの檻はどこですか、と。すると、パンダはいないが、そこにレッサーパンダならいると教えてくれた。確かに檻のそばの看板にもそう書いてある。私たちはもう一度じっくりとレッサーパンダを見た。どこかにあの白と黒のパンダとの共通点を見出そうとしたのだ。だが、どこをどう見てもレッサーパンダはタヌキのようにしか見えない。

 これは、パンダじゃない、と私は父に不平を述べた。すると父は悲しそうな顔をして私に言った。そうだよな、あれはパンダじゃないよな、と。

 私がその話を終えると、彼女は声を出して笑った。

「それが、お父さんとの一番の思い出なの?」
「うん。そうなんだけど、どうしてそのことを覚えているかと言うとさ、最近、テレビで話題になってたろ。レッサーパンダの風太くん」
「ああ、あの、どこかの動物園の立ち上がることのできるレッサーパンダね」
「そう。風太くんを見たとき、思い出したんだ。そのとき二人でがっかりしたことをね。そうしたら、同じように親父もそのことを覚えていたらしくて、わざわざ電話をかけてきたんだ」

 どうして二人とも、レッサーパンダのことを覚えていたのかわからなかった。それほど大きな出来事ではなかったはずだ。だが、父も私もそのがっかりしたレッサーパンダのことだけは忘れなかったのだ。

「おかしいだろう。何でそんなことだけ覚えていたんだろう」
「おかしいね…」

 そのとき、笑っていた彼女の眼から大粒の涙がひとつ、ゆっくりと落ちてきた。私は、泣く必要はないよ、というつもりで、指で彼女の涙をぬぐった。そして、「ねぇ、一緒に病院へ行ってくれないか、親父に君を紹介したんだ」
 と言った。

    3
 
 だが、彼女を連れて行ったにも関わらず、私たちが病院に到着したときには、すでに父は亡くなっていた。

 場違いな大きなスーツケースを引きずって病室に入ると、父はベッドの上に横たわっていた。傍らにはすでに落ち着きを取り戻した母と姉が待っていた。

「せっかく彼女を連れてきたのに......親父に紹介しようと思ってさ......」
 私がそう言うと、彼女は母と姉に挨拶をした。

「ありがとうね。お父さんも喜ぶわ」と母が彼女に言った。
 すでに父が亡くなってから二時間ほど経過していた。母と姉に付き添われて、父は天国へ行ったのだ。最後まで、私のことを心配していたらしい。

 父の死に目に会えなかった以上に、彼女を父に紹介できなかったことが悔やまれた。いつでも彼女を紹介する機会はあったというのに、そうしようとしなかったのだ。

「あんたさ、いろいろ出来なかったことを後悔していると思うけど、そんなの無駄だからね」と姉が私に忠告した。姉の顔を見ると、泣きはらしたのか、眼が真っ赤に充血し、まぶたが腫れていた。だが、口振りから、この二時間で落ち着きを取り戻しているようだ。

「姉ちゃんは、後悔することはないの?」
「あるに決まってるでしょ」
 姉は平然と言ってのける。
「じゃあ、どうして?」
「みんな後悔があるの。だから、後悔なんかしても無駄なの。ここまでやってきたことがすべて、それでいいの」

 姉は自分に言い聞かせるように言った。私は父の最期がどうだったのか、母と姉に聞きたかったが、やっと悲しみが落ち着いた二人を動揺させてはいけないと思ってやめることにした。

 しばらくすると母と姉は、私と彼女を残して、病室から出て行った。私は改めて、父の顔を見つめた。いつものように腫れぼったい父の目は、完璧に閉じることなく、うっすらと開いている。その代わりに口を食いしばるようにして、きっちりと閉じていた。何度か見たことがある父の眠っているときの顔だ。亡くなっているなんて思えなかった。

 彼女も父の顔をのぞき込んだ。
「お父さん、はじめまして」
 それ以上、彼女は言葉にすることができなかった。涙が次から次に溢れてきたからだ。私は左手で彼女の背をそっと抱いてやり、右手で父親の頬をさわった。

 父親の頬はザラザラしいて、氷のように冷たかった。不思議なことに、遺体を前にしても私の眼からは一粒の涙も出てこなかった。

「なんでだろう…すげ~え悲しいのになぁ」と私は呟いた。

 一方、一度も父親に会ったこともない彼女は涙が止まらないようだった。

    4

 父が亡くなってから半年後に私たちは結婚した。喪中ということもあって、結婚式は挙げず、籍を入れただけだった。

 式を挙げないことに彼女も異存はなかった。それよりも彼女は、新婚旅行を豪華にしたかったのだ。新婚旅行の定番であるイタリアはすでに行ってしまったので、私は彼女にどこへ行きたいのかを訊ねた。すると彼女の答えは意外なものだった。てっきりモルジブやフィジーなど南国のリゾートへ行きたいのかと思っていたら、そうではなかったのだ。

「実は私、新婚旅行はイスタンブールって決めてたの」
「イスタンブールって、トルコの?」
「そう。東洋と西洋が出会う場所に行きたいの」

 なるほど、話を聞いていて納得するところはあった。イスタンブールは海を挟んで、ヨーロッパサイドとアジアサイドに分かれている街だ。ふたつの異なる文化が出会う街は、きっと心躍らせる場所に違いない。そして、同じように結婚というのも、ふたつの違う価値観が出会うことのように思えたからだ。

「うん。いいじゃない。俺もイスタンブールに行ってみたいな」

 誰もが新婚旅行に選ぶ場所ではなかったが、旅なれている彼女にはちょうどいい場所のように感じた。

 そして、実際にイスタンブールに来てみて、本当によかったと思う。その理由は、美しいモスクや、おいしいトルコ料理ばかりではなかった。

 それは、ベリーダンスを観るためにナイトクラブを訪れたときの出来事だ。

 旧市街にあるナイトクラブは、様々な国の観光客でごったがえしていた。本命のベリーダンスが行われるまで、余興として、ナイトクラブの歌手が、観光客の国の歌をうたってくれた。テーブルにはそれぞれの国旗が飾られ、歌手がその国の歌をうたうと、一緒に合唱するかたちになる。

 その日は、イタリアとフランスの観光客が多く、ふたつの国の歌がうたわれると、大いに会場は盛り上がった。

 とくにイタリアのテーブルでは、歌が始まるとみんな立ち上がって踊り出すほどだった。イタリアの観光客のほとんどが老人だった。だが、私たちよりも元気があるようで、彼らは陽気に踊り続けた。

 そして、その中の一人を見て、私は眼を疑った。その老人は紛れもなくイタリア人なのだが、私の父親にそっくりだったのだ。もちろんよく見れば、日本人とイタリア人の違いがあるのだが、立ち振る舞いや顔つきがまさしく父親そのものなのだ。

 その老人が、私たちに気がついて、こちらにやってきた。

 イタリア語だから、何を言っているのか正確にはわからなかったが、どうやら、彼女と踊りたい、と言っているのは理解できた。

 彼女は、自分は踊れない、と言って拒んだが、老人はぜひとも踊りたいと言って譲らない。そこで私は彼女にこう言った。

「この人、親父にそっくりだと思わないか」
 すると彼女は、老人をまじまじと見つめてほほえんだ。
「確かに、お父さんに似てるわね…わかった。ちょっとだけつき合ってくる」

 彼女は、差し出された老人の手を握った。
 喜んだ老人は、ホールの真ん中に彼女を連れて行ってゆっくりと踊り出した。彼女は踊れないなりにも、老人のサポートで楽しそうだ。
 私は、ふたりの姿を、なんだか不思議な気持ちで見つめることしか出来なかった。
 歌が終わると、老人は彼女の手にキスをして別れた。

 戻ってきた彼女はとても幸せそうだった。
「今まで内緒にしてたけど、私、お父さんと会ったことがあるの」と彼女が突然きりだした。「お父さんが出張で東京に来たとき、たまたまあなたのアパートに一人でいたの」
「そうなのか、どうして何も言わなかったの?」
「お父さんが内緒にしておいてほしいって言ったから」
「そうか......」
「あんな息子だけど、末永くよろしくお願いします、てお父さんに言われたのよ」

 私はしばらく呆然として、父に似たイタリア人の老人を見つめていた。そのとき、どうしてもやっておくべきことがあるように思えた。

「ちょっと一緒に来てくれ」
 私は立ち上がると、彼女の手を引いて老人の前までいった。彼女も老人も何が起こるのかと驚いている。

「俺たち結婚したんです」
 突然私は老人にそう言った。もちろん日本語で言っているので、老人はなんのことだかわからない。

「本当は、もっと早く紹介したかったけど、俺は駄目な男で、ぜんぜん決められなくて。だから今紹介するよ。この人が俺の妻です」

 私は立て続けにそう言った。すると、老人は私の手と彼女の手をとってつなぐように交わらせた。老人は私たち二人を見てほほえむと「ビューティフル。ビューティフル。ユーアーラッキー」と、たどたどしい英語で言った。

 私は老人の眼を見つめた。はれぼったい眼は父のそれと同じだった。

 その瞬間、私の眼からは涙が溢れてきた。病院でも葬儀でも泣けなかった私が泣いていた。すると老人が、私を慰めるように肩をそっと抱いてくれた。
 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?