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『二番目の女について』(短編小説)

(あらすじ)
 彼女のつき合う男たちには、いつも本命の女たちがいた。今度こそは本命の女になれる、と思った矢先......二番目の女がもたらす奇跡とは。



    『二番目の女について』 上田焚火 

「実は結婚しているんだ」
 と男に言われたとき、やっぱりそうか、と彼女は思った。男はベッドから起きあがると、ベッドサイドの照明をつけようとした。
「やめて」と彼女は小さく言った。
「タバコが吸いたいんだ」と言ってそれでもなお、男は灯を求めたので、彼女は、
「女が一旦、やめて、と言ったらそれ以上はしないで、強引にやっていいのは、ダメよ、と言われたときだけ」とぴしゃりと言った。

 男は女の扱いに慣れていないようだった。数分前の行為がそれを如実に物語っていた。愛撫はぎこちなく、セックスは淡泊で勝手だった。きっと初めての浮気に違いない。

 男はなんとか暗闇の中で、タバコとライターを探り当てると、火をつけて一服した。ホテルの部屋の暗がりの中で、タバコの火が蛍のように小さく淡い光を放って揺れていた。男は落ち着きなくタバコを吸って、ため息のような煙を吐いた。

 彼女はこの瞬間が一番嫌いだった。男は精を放った前と後では、まるで違う人間になってしまうのだ。あれほどやさしくご機嫌伺いをしていた男が、自分のことしか考えなくなる。まるで二つの人格があるかのようだ。
「あなたに妻がいても、私にはどうでもいいことだけど、私の前で、浮気を後悔することはやめてくれない」

 いつ頃から、抱かれた男にこんな口をきくようになってしまったのだろうか。彼女はひどく落ち込んでいる自分に気がついた。だが、彼女が妻子持ちとセックスをするのはもちろんこれが初めてではない。というよりも、彼女にいいよってくる男たちは、すべてと言っていいほどに妻子持ちか、結婚していなくても本命の女がいる男たちだった。

 彼女は生まれながらの愛人気質を持っていた。絶対に一番になれない、二番目の女だったのだ。

 それは初めて男とつきあった高校生のときから変わらなかった。
 高校に入学するとすぐに、彼女をデートへ誘ったのは、一つ上の先輩でサッカー部のゴールキーパーだった。身長が百八十八センチの長身で、涼しげな眼をした男の子だった。学校でも人気者の彼には、追っかけと言うか、練習をじっとグランドの隅で見続ける女子たちがいたほどだ。つきあってみてわかったことは、彼のまっすぐな思いだった。まるで子供のようにサッカーを愛し、それと同じように彼女のことも愛してくれた。もちろん初めての相手は彼だった。

 文化祭の準備に追われ、生徒たちが学校に泊まり込みを唯一許される日があった。その夜、彼に屋上に誘われ、毛布にくるまりながら夜空を一緒に見た。
 そのとき急に彼が彼女を押し倒してきたのだ。いつもは優しい彼であったが、セックスのときだけは乱暴で勝手だった。彼女は黙ったままひたすら痛みに耐えていた。でも、彼に抱かれることに嫌悪感も後悔もなかった。むしろ一つになれた喜びで何もかも手につかなくなったほどだ。

 だが、そんなのぼせ上がった気持ちも長くは続かなかった。彼が浮気をしているのを見つけてしまったからだ。

 ある日曜日の午後に、渋谷で友人と買い物をしていると、彼が派手なメイクをした年上の女性と腕を組んで歩いているのを見てしまったのだ。そのとき彼女は動揺して、彼につめよるどころか、物陰に隠れてしまうほど突然の出来事だった。覚えているのは、一緒にいた女性が、ミニスカートのよく似合うほっそりと長い足をしていたことだけだった。

 その後、彼女は食事がノドを通らないほどに考え込んでしまい、つに彼に問いただした。そして、一時の浮気なら仕方がないが、すぐにその女性と別れてほしい、と泣いてお願いした。

 だが、彼の言葉は予想外のものだった。実は年上の女性の方が本命で、自分の方が浮気だと言うのだ。さらに驚いたことに、浮気相手は他にもたくさんいて、彼女はそのひとりにすぎなかった。彼の中には、女たちのランキングのようなものがあって、彼女は現在四番目とのこと。彼には嫌なら別れてもいいという態度がありありと見えた。

 だが、彼女は彼のことがあまりに好き過ぎて、離れられなくなっていた。それに彼のセックスから逃れられない体にもなっていた。彼女は、なんとか本命の女になろと努力するという、今考えれば、呆れてしまうほど馬鹿げた夢を持ってしまったのだ。

 彼女は彼のためなら、何でもしようと思った。呼び出されれば、すぐに駆けつけ、毎日お弁当を作り、おこぼれのようなセックスにありついた。容姿や服装にも気をつかった。彼が好きなミニスカートをはくためにダイエットもした。下着も彼の好きなセクシーなものをいつも身につけていた。いつ彼に抱かれても大丈夫なようにしていたのだ。

 その甲斐もあって、彼女のランキングは一年で二番目までに上がっていた。本命の彼女まであと一歩というところまで迫っていた。ボクシングで例えるなら、チャンピオン戦を戦えるまでに、女として磨きがかかっていたのだ。

 だが彼は、高校卒業後すぐに、自動車事故であっけなく亡くなってしまった。彼が免許をとった後の初めてのドライブだった。その助手席に座っていたのは、本命である足の美しい年上の女性だった。二人とも即死だったらしい。年上の女性は彼の一番の席を永遠に守り抜いたのだ。

 彼女はその席を獲得するためにあらゆる努力をしてきたことが、急にばかばかしく思えた。もう二度と二番目の女になんかならない、そう自分に言いきかせた。

 大学に入り、心の底から愛せる男を必死で探したが、彼女が愛する男たちには、すべて本命の女がいた。それは社会人になっても同じで、今度は妻子持ちの男たちに言い寄られることに変わっただけだった。
 彼女は、事故で亡くなった二人の怨念ではないかと思うようになっていた。彼女は今年で三十八になるが、その呪縛からは逃れることができないでいた。だから男が、結婚しているのだ、と言ったとき、やはりそうか、と思ったのだ。

 彼女は、男に帰ってもらおうと、テレビのスイッチをつけた。偶然うつったのは、古い洋画だった。今は亡くなってしまったロビン・ウイリアムスが医者の役で出ている。患者はロバート・デニーロだ。確か題名は『レナードの朝』だったはずだ。男もしばらく黙って映画を見ていた。
「また会ってくれませんか?」
 突然、男がそう言ったとき、彼女はどうでもいいような気がしていた。暇なら会ってもいい、そんな気持ちだった。

 連絡先を教えると、男は次の日も連絡してきた。ちょうどその日は、誰とも夕食をともにする予定もなかったので、とびきり高いホテルのレストランのフレンチを男におごらせることにした。だが、男は文句一つ言うことなく彼女に従った。

 その夜もホテルに行った。彼女はセックスが下手なこの男に、女を喜ばせる方法を体で教えた。男が必死になって奉仕する姿は、珍しく彼女を熱く湿らせた。

 彼女は男の姿に自分の高校時代の姿を重ね合わせた。男は彼女を喜ばせる奴隷だった。男は区役所で働く役人で、仕事は九時から五時だったので、それ以外の時間は彼女が呼べばすぐにでも現れた。もちろん、彼女が会社を休んだ時には、彼にも休みを取らせた。

 一つ不思議だったのは、彼がそのように時間を使っても、奥さんに浮気がばれないことだった。
 だが、そんなことは考えないようにしようと思った。もしかして、もう奥さんとはうまくいっていないのかもしれない。自分は、男の二番目の存在ではなく、すでに一番目になっているのかもしれない、と彼女は思った。
 他のボーイフレンドと遊ぶこともなくなり、彼と一緒に過ごすことが多くなった。彼の方も彼女なしでは生きていけないようだった。

 ふたりは一週間の休暇を取り、タイのバンコクへと向かった。ハワイと違い、バンコクに新婚旅行へ行くカップルなどいないからだ。不倫の旅行だと、自分に言い聞かせるには、ハワイのからりとした気候よりも、バンコクのねっとりとした後ろめたい暑さの方が合っているように思えたからだ。

 だが、泊まるホテルだけは、一流がいい、それもバンコクの一番のホテルがいいと、彼にねだった。彼は彼女のためにチャオプラヤ川沿いにあるオリエンタルホテルに宿をとってくれた。さすが、超一流のホテルだけあって、すべてのサービスが行き届いていた。すべての部屋がスイートで、呼べばすぐに部屋専属のバトラーが駆けつけて、彼女のわがままを聞いてくれた。

 だが、そんなバトラーは彼女には必要なく、彼という個人的なバトラーが彼女にはいた。部屋のベッドで彼に抱かれるのは幸せだった。彼は、彼女の体の好みを嫌というほどに熟知していた。彼女はもう彼なしでは生きてはいけなかった。
 一週間という間、夜は彼に抱かれ、昼間はプールで昼寝をするという怠惰な日々を送った。

 バンコク最後の夜、彼女はホテルのバーからチャオプラヤ川を眺めながら、シンハービールを飲んでいた。これで当分、こんな休暇はとれないと思うと、何か淋しい思いにかられて、隣にいる彼にしがみついた。

 すると、彼がそっと彼女の体から離れた。
「ちょっと話がしたいんだ」
 彼の言葉を聞いて、来るときが来たのだと彼女は悟った。だが、彼女には自信があった。彼はきっと奥さんと別れて自分と一緒になるのだと思った。

「なに?」
 だから、彼女は甘い声で彼に訊ねた。だが次の彼の言葉で凍りついた。
「別れて欲しいんだ」
 彼の言葉を疑った。彼は、彼女から離れることなどできないはずだった。それは彼女も同じだ。
「私と別れることなんてできるの?」
「できないよ。でも、別れなくちゃならないんだ」
「奥さんとうまくいっていないんでしょ」
 そのことを今まで聞いたことはなかったが、この一年、いつ呼んでもすぐに現れる彼にはきっとなにか事情があるのだと察していた。
「別居してるんでしょ。奥さんとは?」
「そうだよ。今でも一緒に住んでいない」
「それなのに、私と別れたいの?」
「ごめん・・・・・・」

 そう言うと、彼は涙を流した。それを見ていたら、彼女は自分が二番目の女であることを今更ながら思い出した。
「わかったわ。奥さんとは寄りが戻ったのね。綺麗に別れてあげる」
 別れるのはつらかった。だが彼女は二番目の女だった。呪縛は解かれていなかったのだ。

 彼とはバンコクで別れた。帰りの便も彼が別々に用意してくれていた。彼はこの旅行を最後に別れることをずっと考えていたことが、彼女を悲しくさせた。そう思うと急に涙があふれてきた。不思議だった。今まで一度も男と別れるときに泣いたことはなかったのに、次から次へとあふれてくる涙を止めることができなかった。さびしかった。彼に会いたかった。だが、彼はもうそばにはいなかった。

 もう誰も愛さず、愛されずに生きていこう、そして彼とは二度と会うまい、と帰りの飛行機の中でひとり決心した。
 だが、帰国後すぐに、彼と偶然出会ってしまったのだ。

 それは入院した母を見舞いに行った病院でのことだった。離れて暮らしていた母が、体の不調を訴えて検査入院していたのだ。検査の結果幸いどこにも異常はなく、彼女がお見舞いに行った日がちょうど退院する日になってしまった。
 彼女は、大学病院の待合い室のベンチに腰掛けて、入院費などの会計を済ませた母がやって来るのを待っていた。

 そのとき、病院の入口であいさつをしている夫婦がいるのに気がついた。妻の方は車いすに座っていた。ほっそりとして肌の色が透けるように白い美しい女性だった。彼女はその車いすを押す男を見て驚いた。それは、別れたあの男だったからだ。バンコクで別れて以来、男とは会っていなかった。奥さんは別居していたのではなく、入院していたのだ。

「あら、あの人知ってるの?」
 背後から彼女に、母が声を掛けてきた。
 彼女は、動揺しながら、病院に知り合いなどいないと首を大きく振った。
「あの奥さん、事故にあって三年ほど意識がなかったそうよ。もう医学的には絶対に意識を取り戻す可能性などなかったのに、突然、意識を取り戻したんですって」と母が教えてくれた。

 彼女がじっと見ていると、車椅子を押す手を止めて、男がこちらに気がついた。
 母がお辞儀をすると、男も頭を下げた。私がそこにいることを無視しているように。
「しかし、人間ってのは、わからないものね。奇跡ってあるのね」と母は言った。
 彼女は男が車椅子の奥さんを押して、病院を出ていくのをずっと眺めていた。
 きっと私とつきあっている間に、奥さんは意識を取り戻したのだろう。だから、男は私の元から去っていったのだ。彼女はそう理解した。

 翌日、彼から電話がかかってきた。
「奥さん、意識が戻ったのね。よかったじゃない」
 彼女はそう言った。彼は無言だった。
「それじゃあ」
 と言って彼女は電話を切ろうとした。そのとき、彼が、
「話したいことがあるんだ」と言った。
 寄りを戻すなんてことはごめんだった。もう彼と不倫する気などなかったのだ。
「最後に聞いて欲しいんだ」
「絶対に最後にして」
「ああ、最後にする」
 自分で、最後と言っておきながら、彼にそのようにきっぱり言われると、傷ついている自分に気が付いた。

「これは君と知り合う前の話なんだ。僕の妻は事故にあい、意識を失って、もう二度と回復しない、つまり目を覚ますことはないって医師からも言われていた。でも、僕は絶対に諦めたくないと思っていたんだ。彼女が意識を取り戻すなら、どんなことでもする。それほど妻のことを愛していたんだ」
「・・・・・・浮気のいい訳なら、奥さんにすれば」

「いや、違う。ちょっとだけ聞いて。ある日、僕は夢を見たんだ。それは僕が他の女の人とセックスをしている夢だった。僕は高校時代に知り合って以来、ずっと妻一筋だったから他の女の人は知らない。だから、僕は夢であっても他の人とそんなことをするなんて信じられなかった」

「それで、奥さん以外の人とやりたくなったの?」
「違うんだ。この夢にはまだ続きがあってね。僕が女の人の中で果てると、隣のベッドで眠っていた妻が目を覚ますんだ。そんな夢を僕は毎日のように何回も何回も見た。もしかして僕が他の人を本気で好きになってセックスをすれば、妻は嫉妬心で目を覚ますかもしれないと思ったんだ」

「・・・・・・」
「僕にとって、君は妻以外の初めて好きになった人だ。僕は妻がもう目を覚まさないなら、君と一緒にずっといたいと思ったほどだ」
「・・・それで、夢が現実になったのね」
「・・・・・・そうなんだ。そう思った日、それはあのバンコク旅行中なんだけど、妻が目を覚ましたって連絡が病院からあったんだ」 
「・・・・・・私のおかげってわけ・・・・・・」
「わからない。だけど、夢見たとおりになったんだ」
「・・・・・・」
「本当にありがとう・・・・・・僕は今でも君を・・・・・・」
「それ以上言わないで!」
「ごめん」
「謝らないで、私はあなたの被害者じゃないわ」と彼女は、自分のプライドを保とうと必死になった。
「・・・・・・僕はずっと怒られてばっかりだったね」

 彼はそう言って電話を切った。男は嘘をついているのだろうか、彼女にはそう思えなかった。不思議な気持ちに包まれていた。彼女は何か大切な物をなくし、変わりに何かを得たのかもしれない。でも、それはいったい何なのか、彼女には言葉にすることが、まだできなかった。

 彼女は冷蔵庫から冷たいビールを取り出して、ほてった額につけた。ひんやりとした冷気が缶ビールから伝わった。
 彼女には、唯一わかったことがあった。
 もし男が奥さんを捨てて彼女のところへ来たのならば、きっと男を捨てていたに違いないということだ。そのとき彼女は、なぜあの男を好きになったのか、やっと理解できた。

(イラスト 三嶋さつき)

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