見出し画像

ようた(起業準備中)とはなにものなのか?プロフィール(自己紹介)

こんにちは。ようた@英語コーチ&フィンテック(Fintech)アドバイザー& FP (Financial Planner)です。

2021年の8月にふとnoteで文章を書いてみたいと思って始めたブログも(この記事を書いている2022年5月時点で)約20記事になりましたので、改めてプロフィール(自己紹介)記事を作っておきたいと思います。

ようたとはなにものなのか?

改めまして。ようた@英語コーチ&フィンテック(Fintech)アドバイザー& FP (Financial Planner)です。Twitterも同名で行なっています。

現在(2022年5月)

外資系企業に勤めるサラリーマン。強みは、「英語(特にTOEIC)関連のコーチ」、「フィンテックやカード業界関連の知見」、「FP(ファイナンシャルプランナー)領域の知見」です。2021年に仙台に移住。現在は、近い将来の起業を実現するため準備中です。

高校卒業まで

東京都生まれ石川県金沢市育ちの日本人です。東京には3歳くらいまでいたのですが、父の仕事の関係で金沢市に引っ越し、子供時代のほぼ全て記憶は金沢市での経験です。
このくらいの歳で生まれた街から別の街に引っ越すと「ふるさと」という概念がなくなります。また自分の「出身地というアイデンティティ」もどう考えればいいか戸惑った記憶があります。生まれた場所を言えばいいの?育った場所を言えばいいの?となるのです。生まれた場所=育った場所=親戚などもいる場所=ふるさと、というような方程式は私にはありませんでした。
子供時代は本当に平凡な(普通な)学生だったと思います。小学校は私立のミッション系の一学年20名くらいの小さな学校に行っていたのですが、いじめられる側にもいじめる側にもなったような記憶があります。めちゃくちゃ悪い思い出もありませんがとてもいい思い出もないような小学校生活でした。まだまだ先生からの体罰みたいなもの(もちろんこちらが悪いことをしたから)もあり、担任の先生から思いっきり平手打ちをされた記憶もあります。何事にも自信を持てず、おとなしい子供だったと思います。
中学校は小学校とはうって変わって、金沢市立の一学年13組もあるようなマンモス中学校に入りました。校下の3つの小学校からきている同級生が大半であったこと、おとなしい校風の小さな小学校から転入してきたことなどからこちらでもかなり気後れしていたかと思います。環境のせいだけではなく、勉強もほとんどしない、特段興味を持つスポーツなどの課外活動も文化活動もなかった学生でした。中学1年生の冬に学校の行事で訪れたスキー授業では、同級生に雪山から突き落とされて膝の靭帯損傷の大怪我を負い、2ヶ月ほど入院していた経験もあります。(今から考えると相手方に慰謝料を請求するというような事件だと思いますが「ふざけていて怪我した」という感じでなんか曖昧に処理してしまったことを今では後悔しています)生徒会活動などは少し積極的に参加したりしており、その時の同級生とはその後もしばらくは交流がありました。
中学時代は、定期試験の結果が返ってきても、一切復習しない、テスト時期から次のテスト時期まで結局ほとんど勉強しないという学習習慣でした。その割に難関高校に行きたいというプライドみたいなものはあり県内で(国立以外では)二番目に難易度の高い高校を受けて見事撃沈しました。当然ですね。。
それでも滑り止めで入学した高校生活はとても楽しいものでした。私の学生生活の中でもいい先生、いい友達に恵まれた時代でした。当初勉強は相変わらずできず1年生1学期の期末テストでもクラス約40人中25番とかそのレベルだっと思います。期末テスト後、三者面談があり父親が参加してくれました。それまで勉強についてほとんど口うるさく言わなかった父が帰り際にこう言いました。「そろそろ本気でやってみたら?」それまで毎日の宿題程度しかしていなかった勉強をそれからはちょっと時間をかけてやってみたのです。すると2学期の中間テストでクラスで2番、期末テストでは1番を取ることができたのです。他人より努力すれば結果はでるのだとわかった経験でした。一度1番をとると、追いつかれる、追い越される怖さというものを感じます。落ちたくないと思うともっと勉強するようになり、結果的に文系クラスの中でもほぼほぼ1番のまま卒業まで突っ走ることができました。
高校時代にはもう一つ人生のなかでターニングポイントとなる出来事がありました。それは2年生の夏にアメリカのオレゴン州にホームステイをしたことです。文化の違い、言葉の違いはもちろん、家族そろってご飯を食べるホストファミリーから受けた影響(価値観のようなものの)はとても大きいものでした。ホストファミリーと別れる時は、生まれて初めて涙が止まらない経験をしました。この時の経験は間違いなく僕の若年期の原体験となり、その後の留学などにつながっていると思います。

大学時代

高校受験の時と同じくなぜかプライドは高く、大学受験は慶應大学や早稲田大学を第一志望として目指したのですが合格できませんでした。(高校受験の時も同じですし、今でも思うのですが、「まぐれでこれうまくいくといいな」くらいの気持ちではまぐれは起きないということです)国立大の前期で東北大学経済学部を受験しこちらも不合格になります。親には浪人することを伝え、それなら「親元から離れ東京の予備校」にいくように言われて手続きをとりました。その後、ダメもとで後期でも同じく東北大学経済学部を受験しました。センター試験の点数ももちろん参考にされますが、後期の試験は英語と数学のみでした。この英語と数学、特に数学についてはなにか神がかったように問題が解けたの今でも鮮明に覚えています。わかる、わかる、、でも一問ずつ慎重にというようなゾーンに入ったような印象です。結果、東北大学から合格をもらい、高校の先生からも「東北大学を蹴って、一浪して慶應いくのはもったいない」というようなコメントをもらい仙台での生活をスタートするのです。
大学4年生の時にはカリフォルニア大学に国費で1年間交換留学させてもらいました。東大にも慶應にも上智にも同じプログラムがあったのですが、東北大は当時はまだまだこのようなプログラムへの人気が他の大学ほど高くなく選抜されるハードルは比較的低いものでした。帰国前、帰国後と英語サークルの運営などもし、英語が大学時代の一つのキーワードであったと思います。一方で、大学時代の友達で今でも、分け隔てなく話ができる友達はそれほど多くないかもしれません。
アメリカの大学は5月末ごろにおわるので、就職活動は2回目の大学4年生の6月ごろにはじめました。とはいうものの多くの企業は選考が概ね進んでいますので実質的には(当時では珍しい)「通年採用」を行なっている企業のなかで内定をいただいた会社に就職しました。

社会人時代(第1期)

総合金融サービス会社に就職した私は営業部門に配属され、さらに外資系企業に常駐するように命じられます。私より数年年上の方々が私より数倍多い給料をもらっている、30代半ばの方々が、英語でバリバリ仕事をしているというような光景をみて非常に刺激をうけて、入社してすぐにMBAをとりにアメリカにいくという計画を立てていました。

新入社員時代について以下の記事にもまとめています。

結局、外資系企業に常駐する営業を5年間したのちに、社長室に異動しました。より経営にちかい部署にいきたいという希望を叶えてくれた異動でした。社長室では投資家向け広報(IR)を担当し、アナリストや個人投資家とのコミュニケーションをおこなっていました。営業から管理部門への異動で畑違いな仕事の進め方に戸惑うことは多くありましたがこの部門での最大の学びは「価値をつくることの対価が報酬」という本当に当たり前のことでした。経営は価値を作ることであり、価値を作っていないのであれば世の中に存在価値はない、、ということを頭と体で勉強しました。このような経験から、「サラリーマンのまま終わりたくない」と強く考え、MBA受験をおこなっていたのですが、TOEFL、GMATと出願に必要なテストスコアを取得するのに3年以上かかってしまったのです。TOEFLは通算40回以上受けたかと思いますが、勉強の仕方がよくわからず、本当に苦労しました。結局、社長室には2.5年ほど在籍し、通算7.5年でこの会社を退職し、MBA Candidateとなります。

MBA留学時代

これまでのキャリアで学んできたキーワードは、「金融」、「ファイナンス」、「営業」、「投資家向け広報(IR)」、「英語」という感じでしょうか。ここに「経営」や「リーダーシップ」という視点を追加して、「ビッグになりたい」、「お金を稼ぎたい」、「サラリーマンという普通のキャリアや人生はいやだ。人と違う生き方をしたい」というのがMBA留学の動機でした。金銭面で言うと、MBA受験に400万円を使い、私費留学としての渡米も2年間で2000万円近くかかりますので(ちょうどリーマンショックの時期で円高傾向で比較的助かりました)、2400万円の投資です。Business School is a business.(ビジネススクールもビジネスをしている)と言われる所以です。MBA留学前の年収は850万円くらいでしたので、これを短期間で増やしたいと考えていたのも否定できません。
留学生活自体は非常に有意義で楽しくかけがえのない経験になりました。いまでもつながっている友達が多くできましたし、個人的には日本人が米国MBAを取得する価値は、「経営」や「ファイナンス」の勉強だけではなく、彼らとの「ネットワーキング」や「リーダーシップ」の習得にある(+「英語力の向上」にある)のではないかと今では考えています。

社会人時代(第2期)

MBA後の就職活動では少し苦労したのですが、大手通信会社の決済事業子会社に就職します。ここから私のキャリアに「テクノロジー」のキーワードが追加されるようになります。これまでは王道としての「金融(フィナンス)」が、より個人間決済などにフォーカスした「Fintech(フィンテック)」領域のキャリアが始まったわけですが、まさかその後10年間以上同じ業界にいるとはその時は思いもよりませんでした。ちなみにこの大手通信会社に入社した時の当初は給与はMBA留学前よりも150万円ほど減ってしまいました。(結果的にはボーナスなど同水準をなんとか維持できましたがMBA留学前に思い描いていた給与大幅増とはなりませんでした)

給与水準が大きく増えたのは約4年の勤務後に外資系企業に転職したことでした。

(最終更新 2022年5月)

(ここから先は不定期で更新していきます)


よろしければこちらの記事もご覧ください。


よろしければお気持ちだけでもサポートいただけると記事作成の励みになります。 You can support me and my articles by tipping from here. I really appreciate your support.