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今から800年前に、抹茶を鎌倉から全国に広めた栄西は、究極のインフルエンサー!?   『喫茶養生記』から読み取れるビジョナリー・シティ鎌倉

本noteでは、過去から現在、そして未来に持続する鎌倉発のアート・カルチャー・都市文化を発信していきます。

■800年前に薬としての抹茶の効能と養生を記した『喫茶養生記』

 鎌倉には寿福寺の開山栄西(1141-1215年)によって記された抹茶に関する日本最古の書『喫茶養生記』(1211年)が、重要文化財として今も残されています (鎌倉国宝館寄託)。この『喫茶養生記』の冒頭は「茶は末代の養生の仙薬にして」と始まります。「末代」は道義のない不安定な末世を意味し、「養生」には心身ともに健康に生活し「生命を養う」という意味があります。先行きが不透明な戦乱の続く世の中で、心にも身体にも良いという抹茶が、日本全国に広まるきっかけをつくった日本で最初の書物が鎌倉で発刊されました。

鎌倉時代に最先端のアートとテックが鎌倉に集まってきていた

 鎌倉時代、三方山に囲まれ、南は海に面した鎌倉には、最先端の港湾技術で湊「和賀江島」が建設されました。当時の日本は、宋との海洋交易が盛んであり、海外の最先端のアート・工芸などの「芸術文化」、さらに建築・造園などの「技術」が鎌倉に集まってきていたのです。薬として抹茶を飲む文化もその重要な要素で、『喫茶養生記』には、中国で飲まれていた抹茶の採取・製法や身体的効能について、抹茶が心臓をはじめとする五臓のバランスをとる仙薬であると書かれています。そして、鎌倉の歴史書『吾妻鏡』には、将軍源実朝が二日酔いに苦しんだ際、栄西が良薬として茶を勧め「茶徳を誉むる所の書」として献じたことが記されています。「茶徳」というのは、茶の効能や、有用、それを嗜む人間の精神性など総合的な側面を表していたのではないでしょうか。

参考)「掘り出された鎌倉の名品-Master piece Collection 2020-」https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/mpc2020.html

今、米国西海岸始め、世界から注目される抹茶

 近年、抹茶の多様な効能が研究され、グローバル市場において将来性有望な輸出品としての可能性が伺えます。カテキンによる抗ウイルス効果や、テアニンによる免疫力の増強、豊富なビタミン、リラックス効果なども専門家によって発表されています。国内煎茶の売り上げ下落の一方で、抹茶味のお菓子などにも使用される抹茶関連市場は、5年間で約2倍に拡大し、2018年には200億円を突破。特に「飲用以外」の活用方法が五割を超える状況となっています。輸出も年々拡大(年六・一%増)し、抹茶は米国を中心に、その健康性の高さからスーパー・フードとしても注目されています。

  和食は世界無形文化遺産として、世界中の人にその価値が認められました。その理由は、健康や環境に配慮し、外国の食文化も取り入れて変化してきたからだという、つまりは、伝統技術として、古いまま日本国内にとどまっていたのではなく、その味や効能を世界中の人々が体験し、新たな手法を取り入れて、社会との多様な接点を持つことで認められたからなのです。伝統の精神性を文化として伝えながら、現代の都市で生きる人々の価値観にあった革新性を取り入れていくことで、グローバルな価値が生まれていくのですね。

栄西は究極のインフルエンサー

 栄西は、海外に行くことが難しかった時代に、二度も中国に留学、鎌倉幕府に迎えられ、寿福寺を開山。その後、京都に建仁寺を建立し、鎌倉と京都を往復しながら、東大寺や法勝寺の再建を担うなど、禅僧という職業を超えて活動しました。当時の有力者をインフルエンサーとして評判を得てブランディングする能力にも長けた栄西は、書き上げた『喫茶養生記』を将軍に献上、中国から渡り鎌倉で評判を得た茶は、栄西自身が茶種を九州背振山、洛北高山寺に植え(現在の八女の抹茶の起源)、速やかに全国に広まり茶の産業も発展することとなりました。茶の種が宇治や静岡、名古屋に広まっていったのは、その後の出来事なのです。まさに当時の栄西は、エリートビジネスパーソンであり、究極のインフルエンサー、そして社会を動かす改革者=ビジョナリーとも言えるのではないでしょうか。

 鎌倉の山と川に面する奥座敷「浄明寺エリア」に位置するUrban Cabin Instituteから、今後「ビジョナリーシティ・鎌倉」を目指し、抹茶の歴史・精神性・身体観などを感じながら、現代の多彩なビジョナリーが集い未来を創造する場をつくり出し、アート・カルチャー・歴史・建築などをテーマに、持続可能な鎌倉のあり方を発信していく予定です。


文:墨屋宏明



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