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優秀さ、とは

試験のはじまりとことばの力

友人が、自動車運転免許教習所に通い始めたそうだ。
私自身は、学生の時に京都で免許取得して以来、立派にペーパードライバーをしている。助手席に乗せてもらって、おしゃべりするのが、気楽で大好き。

さて、その友人が言うに、学科の時間の大変さは、日本語にあるという。
運転をしたことのある方なら、どなたもわかると思うけれど、免許取得の本質である「運転」に関しては、体の感覚をメインに使って、車を自分の体のように操作していく、ということだと思う。
それに付随して、いろいろなシチュエーションが考えられて、他の車や歩行者、自転車が来た場合に、どのように対処していくか、を共通認識として学んでいく。

学科の教科書は、その体の感覚に基づいて判断していくこと、立体的な事象について、二次元の紙と、文章を使って「説明」している。
そこに無理がある、というのが、彼の話だった。
そもそも、試験っていうのは、官僚になるためのものが始まりだったのだ、と続けた彼。「だから官僚になるために、東大の入学試験というものがあって、そこから派生して、果ては幼稚園の入学試験まであるのだ。」

なるほど。幼稚園の入学試験なぞ、受けたことも、受けさせたこともないけれど、ドラマなどで見る限り、「ことばで、きちんと説明できる力」が試されているように思う。

東大が創設されたのが明治時代、そこから始まった試験文化、があるとすれば、約一世紀半もの間、人の優秀さを測る尺度というものが、「試験」の大枠において変化していない、ということになる。

それだけ、読み書きができる、ということが、一世紀半前の日本において、国の仕組みを整えていく人間にとって、必須なことであり、逆にそのプロセスに関わらない民にとっては、なくても困らないことだったのだろうと思う。

対話が深まりと発見に満ちるとき

さて、話は変わり、昨日の朝は、私が主催の「エ○チなお話会」だった。
様々な形、ベクトルで、性に関心を持ち、探求を深め、また発信活動もしているメンバーが集まってくださり、すごく、すごく密度の濃い時間で、そのあと一日中、からだ中を熱量が巡り続けていた。

その内容についてのレビューは、次回に譲るとして、「対話に対するあり方」と、「優秀さとは何か」という各自の捉え方はリンクするところがありそうだな、と思ったので、書きたくなったのだ。

「間」の重要性

対話、話すこと、聴くこと、その人を感じること、その存在がそこにあることを認めること。それに関する取り組みは、私なりに、もう20年以上深めてきたつもり。(ええ、父が入院してからね。)

そこでたどり着いた答えは、「聴く」側の方が、圧倒的に会話において、その場において、パワフルな影響力を発する、ということ。

そもそも、なぜ私が、父の入院を期に、一般的に言う「コミュニケーション」について、探求を始めたかというと、それまでの自分のコミュニケーションの「あり方」に疑問を持ったから。それが違えば、父は死ななかったのではないか、と本気で考えたから。

我が家はある程度学歴のある一家だ。父母ともに大学を出て、教員だし、姉も兄も、それぞれに偏差値の高い大学を卒業している。だから全員、弁がたつ。もちろん、その環境で生まれ育った私の弁もご立派。ええ、お読みの通りにね。笑

しかし、人の心の中には、「言葉にならない感覚、違和感、疑問、希望・・・」というものが存在し、それらこそ、実は、一番フレッシュで、柔らかくて、ほんとうなのだ。

それらが、姿を現して「発露」するには、それが「出てきてもいいんだ〜」と思わせてくれる「間」が必要だ。「間」とは、つまり、何もない空間、余白、時間、空白、場所・・・そして、受け止めてくれる「ひと」。

「なんか・・」「えっと・・・」「で・・・」「うーん」「まあ・・・」そうやった、ふんわりしたことばの次に出てくるのは、比較的に新しい感覚だったり、発見だったりする。しかし、「聴く側」が、自分自身が「聴いている」ことの価値を知らないと、その「間」に対して、「価値」を見出せずに、すぐに言葉を挟んでしまう。だいたい、おしゃべりが得意、だと思っている人、好きな人、というのは、「沈黙」が苦手な場合も多い。(うちのお母さんの話です。あ、私もか。笑)

そうなると、今出てこようとしていた、何ものかわらないけれど、一番新鮮で、柔らかい感覚が言葉になる機会、というのは、失われていく。

そうすると、スルスルと出てくる言葉たちで、その空間はいっぱいになってしまうのだ。スルスルと出てくる言葉たち、例えば、今私が書いているこの文章も、もう20年も前から思索している内容なので、20年前には、「だって・・・・」くらいしか出なかった実体なのだけど、こんなに簡単に言語化できる。つまり、スルスルと出てくる文章、言葉たち、というのは、もうその人にとって、「古い」ものなのだ。化石を手にして、ジャグリングしている、というのは、言い過ぎだけれど・・・、既知のことは話しやすい。

では、対話の場面において、既知のことを話しすることの価値とはなんだろうか。もちろん、すごく刺激的だし、新しい発見があって、本当に面白い。まるでシンポジウムみたいな意見交換や、ディベート的なテンポの良さって、しびれるほど、興奮して大好き。

そして、既知のことを話しながら、それぞれの化学反応で、新しい何かが見えてきたりもするから、ますます目が離せない。

そして、、、人間が、人間であることの価値を、有機的で、常に変化していて、ぐにゃぐにゃとしていて・・・ということに価値を置いて「対話」するのであれば、「知っていることを話す」ことの先に、「間」を重視して、「頭ではなくて、心やお腹のあたりから出てくることを出してみる」をやると、やっぱり面白いのではないかなあと思う。

例え、それが耳に届くまでは出てこなくても、その空間があるだけで、本人の体の中から、少しずつ、その実体は口や頭の方に向かってニョキニョキと疼いていく。

頭の中にあるものを、全部、話切る。
出して、出して、しゃべって、しゃべって。
それは、うんちをするのと同じ(この文章も、私のうんちです。読んでくれてありがとう!あなたの肥やしにしてね!笑)。
それをやりきった後に、「今、ここにある、いのちのすがた」が現れていくのではないかな。

「話をする」「話を聴く」


「裸のこころで、そこにいる」「人を聴く」みたいな感覚で、人と対話、いや、対峙、または、寄り添えたら、どんな話でもできてしまう気がするし、何にも解決されなくても、すべてが癒されていくような気がする。

この成果主義の社会において、「言葉にできる力」はとても効果的だけど、だからこそ「まだ言葉にならない何か」に、未来への宝物が眠っていることを知って、それを温め合えるような関わりを育んでいきたいな。

優秀さ、の優のの字にある、人を憂いる力、を磨いて、人間の存在、全体的な「優秀さ」へと変容させていきたい。

ってね、毎日、毎日、旦那さんに話しかけ続けている私なのだけど、一応そうゆう風に思っているってことなんだよ〜。

まだまだ場を開き続けるよ

え○ちなお話会は、また開催します。
ポップに、オープンに、え○ちについて、トークを楽しんでみたい、意見交換したい、そんな方は、ご連絡くださいね。
それとは、別に「家庭のエロス」「官能生活のすすめ」「となりのご飯とお布団事情」なども開催予定です。
性、といっても、本当に守備範囲が広くてね。
私にとっての、ど真ん中は、性の中のどの部分なんだろう?っていう問いが、やっと昨日はっきり見えたところ。

家庭のエロス、は家庭の医学より。
官能生活は、気持ち良い、五感を満たす生き方、暮らし方のこと

となりのご飯とお布団事情は、もちろん、となりのご夫婦が何を食べていて、どんな夫婦生活していて、みたいな食と性の関係性についてのケーススタディ的な会。

私もね、最近、秋鮭の白子なんかが、安く売っていると、つい手が出ちゃうんだけど、それ食べた後って、本当にムラムラしちゃうんだよね。

どんな会でも良いけれど、性について、パートナーシップについて、一緒に考えてみたい!話したい!って方は、1on1の対話ももちろん歓迎しますので、ぜひ連絡くださいねー♡モヤモヤしたまま、この文章読んだりしていると、そのモヤモヤが私に届くので、逆に私から声かけちゃうかもしれません。その時は、知らんぷりしないで、受け取ってもらえると嬉しいな♡


では、また。



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