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本を読むことの「弱さ」

読み返す自由、読みかけの許容

昨日の出張ついでに今日は有給をもらって実家に帰省。
最近の読書熱もあって、実家の蔵書を再確認していた。

転勤の際に多くの本を実家に残して出てきたのだが、その本の大半が読みかけである。
決して面白くないとか興味がなくなったりしたとかではない。
「読みかけ積読」がマイルールになっているので、中途半端に読みかけであっても罪悪感はない。ただ、やはり一冊一冊の内容はあやふやである。どちらかというとテーマやジャンルが近接している書籍を読んでいるので、自分の頭の中でのつながりやひらめきという体験を重視している。

GWの読書旅行、現在住んでいる部屋のライブラリー化を進めるためにそれら読みかけの本、加えて読了した本もまとめて宅配便に出してきた。
読書旅行に持ち出す本の選定がいよいよ楽しみになってきた。
ライブラリー紹介も気が向いたタイミングで進めていこう。そのためのnoteの投稿でもある。
積極的なアウトプット。訓練としての文章作成、推敲、投稿。

さて、読み掛けの本に対する抵抗がなくなったのは30歳を超えてからだ。正規雇用が遅かった私にとって、書籍に自由に投資できるというのはかなり画期的な出来事であったように思える。
読書自体は幼い頃から好きだった。本格的な文体に触れたのは、小学生の頃に父親の読み終えた「陰陽師(夢枕獏著)」が原体験として記憶に残っている。
親に買ってもらうシステムである以上、本も含めてある程度楽しんでから新しいものをねだる必要性があり、おそらく多くの親子がそういうルーチンなのではないだろうか。
本に関しては買ってもらったからには途中で読むのを諦めて、ましてや飽きてしまって、断念することはお子様ランチを残すことに等しい。
親の寛容さにもよるが、自分で選択したものを途中で放棄することに対して「だから言ったでしょ」「自分で食べるって言ったんでしょ」と、責任というものの教育の機会となる。

読書も途中でやめることは「諦め」に近い感情を持っていたように思う。忍耐がない。諦めが早い。ネガティブな要素である。一気に通読できないことは「弱い」ということなのだ。

大人になって、まとまった時間もなかなか取れず、それでも興味のある書籍は山ほどあり、それをある程度自分の意思で買うことができる今になって、子供の頃に覚えた読書にまつわる「弱さ」は幻想だったのではないだろうかと振り返る。
確かに子供の頃の読書は「義務」の要素が強い。読書感想文。教科書。参考書。

大人になるにつれて読書の「自由化」に気づくと本で得られる内容に対する知識と同時に、これまでの読書経験を横断した広がりのある思考の深さを感じることができる。

ライフステージによって読書観は変化するだろうし、感じ方は人それぞれである。
私は今こう考えているということを再認識しておくこと。何かに残すこと。本は読み返せるが、記憶は酷く曖昧なものだから文章化しておく。
この投稿を読み返すことも自由なのだから、いつかの自分が読み返したときに、今はこう考えているよとコメントしてくれたら面白い。
むしろ誰かのいいねやコメントより、自分からのレスポンスの方を期待してみるのも悪くないかも。

それにしてもタイピングが苦手。読書よりも向き合うべき課題。

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