見出し画像

あいらぶエッセイ①「優しきドラゴン」

 今から十八年前の社会人一年目に、急に白髪が何本も生えだし、原因不明の咳が止まらなくなった。入社した新聞社で、運動部記者として仕事がこなせず、精神的に参っていたのだと思う。現場へ行っても選手や監督から話を引き出しきれず、原稿はまともに書けない。記事を書くときに先輩記者に初めてした質問が、「『づ』は、キーボードでどう打つんですか?」だったから、よっぽどの新人だったのだろう。

 だから当然ミスも連発する。あるスポーツ団体の新役員が就任挨拶で来訪したときには、前会長の退任理由を「体調不良」と彼らがさらりと言い、僕はそのまま記事に盛り込んで、翌朝、掲載紙を読んだ前会長の家族からお叱りの電話を受けた。「うちの者は元気でピンピンしており、気遣いの電話が相次ぎ迷惑している」と。こんなミスが起こり得るのかと愕然とした。
 お詫びと訂正記事の取材のため午前六時にビーチで前会長に会うと、当時八十歳を超えていた彼は砂浜で猛ダッシュを繰り返し、最後は三点倒立まで披露してくれた。近くマスターズ陸上競技大会へ出場予定とも言い、僕は力が抜けてしまった。

 その他にも仕事でミスが相次ぎ、どんよりとした雨雲がどこまでも広がり、僕はそこからいつまでも抜け出せないのではないかと、よく考えていた。

 サッカー日本代表(当時)のドラゴンこと、久保竜彦に会ったのは、そんなときだった。
 二〇〇四年の年明け、久保が沖縄で自主トレを実施しているとの情報が運動部に寄せられた。その前年、久保はJリーグのサンフレッチェ広島から横浜F・マリノスへ移籍し、リーグで、そのシーズンの日本人最多タイの得点を挙げ、チームの優勝に大きく貢献していた。日本年間最優秀選手賞(「フットボーラー・オブ・ザ・イヤー」)を受賞するなど注目度が高まり、国際試合でも、フォワードとして屈強な外国人選手を相手に身体能力の高いプレーを示し、日本代表として欠かせない選手になっていた。その久保に会えるのだ。大のサッカーファンである僕の心は踊った。

 ところが、久保の自主トレ地である本島北部の総合グラウンドへ向かう車中で不安が大きく膨らんだ。確か久保は、マスコミからの取材に対して口数が極めて少なく、「よかったです」「嬉しかったです」ぐらいしか答えなかったのではないか。坊主頭に髭面も、思い浮かべてみたら、何だか怖い人のように思えてきた。

 カメラマンと総合グラウンドへ着くと、広々とした場内に、確かに久保はいた。芝の上でトレーナーと思われる人と二人、準備運動のようなものをしていた。体中に響くほど、僕の心臓は高鳴った。周囲を見回すと、他のマスコミの姿はなく、取材ができれば特ダネとなる。恐る恐る久保に近づいた。
 テレビで見ていたより、実際の体つきはやや細い印象だったが、その肉体から、信じられないほどの爆発力のあるプレーが生み出されるのだと思うと、鳥肌が立った。

「取材、ダメなんです。今日、スポンサーのではないロゴが入った上着を着ていて、写真に写ってはいけないんです」
 地元紙の記者であることを告げ、取材を申し込んだ僕に、久保は申し訳なさそうに言った。それを僕はどのような顔で聞いていただろう。体中からじんわり力が抜け落ちた。丁寧に断る久保の表情を見れば、それ以上、無理には頼めない。目前の大きなニュースが、僕の手からつるりと滑り落ちるのを感じた。部長に何と報告しようか……なぜか僕は、それまでの仕事のミスの数々も思い出していた。

 久保をよく知らない先輩カメラマンが、しょうがないといった、あっさりした態度なのが恨めしかった。僕らが離れたグラウンド中央で、久保はボールを使わない体力トレーニングを始めた。
 僕はため息をついて空を見上げた。爽やかな青空が広がっていることに初めて気づいた。都会の喧騒から離れ、やんばるの大自然が近くにあるそのグラウンドには、ゆったりとした時が流れていた。頬をなでる風はどこまでも優しく、心地よかった。そんなことを感じていたら、よし!せっかくだから、時間の許す限り久保のトレーニングを見て帰ろう、という気になった。記事にできなくてもいい。姿勢を正してまっすぐ立ち、前を向いた。一月の半ばだったが、春の日のように暖かく、しばらくすると頭のてっぺんが日差しで熱くなった。それでも構わず久保を目で追い続けた。

 その時だった。遠くの久保がグラウンド端の僕に近づいてきた。何か言われるのだろうか……。体が固まった。僕の前まで来て、久保は一言言った。
「テープありませんか?ここ、隠したら大丈夫ですよ」
 着ていた袖なしの上着の、右胸に印字されたメーカーのロゴを、久保は指さしていた。一瞬、頭の中が真っ白になった。そして次の瞬間にはグラウンドの事務室へ走り、ガムテープでも何でもいいから貼るものを貸してください、と事務員へ懸命に伝えていた。

 グラウンド脇で新米風の記者が立ち尽くしている姿がかわいそうに思えたのかもしれない。所属クラブと日本代表で死力を尽くして闘う男は、心優しい人物だった。

 あれから十七年たつが、その時に掲載された記事を今も忘れずにいる。グラウンドのトラックで腰を低くして前を見据え、フットワークに励む久保の写真つきの記事だ。右胸には白いガムテープが無造作に長めに貼られている。

 つらいときに優しくしてもらったから印象に残っているのだろう。しかし、あの出来事は、それまでの僕を少し変えてくれた出来事でもある。他にも要因はあるだろうが、あの頃以降、僕は仕事で失敗しても、なぜか以前よりは引きずらないようになった。もちろんミスをすれば毎回かなり落ち込む。しかし最終的には「なんだ、このくらい」と立ち直れるようになったのだ。恐る恐るではあるが、少しずつ積極的に取材へ向かえるようになった。
 別世界に住むと思っていた人物と一瞬でも心を交わしたことで、「あ、みんな同じ人間なんだ」と感じたからなのかもしれない。あの体験を通して、頑張れば自分にもできる、と勝手に解釈した気もする。ほんの少し勇気と自信が芽生えていた。

 サッカーワールドカップの時期になると、目標の舞台に立てなかった久保を決まって思い出す。飾り気のない表情と、優しい言葉とともに。そして、今の選手たちにもどこか身近さを覚え、とてつもない勇気を毎回もらうのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?