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内倉陽平のキセキ 〜親友でした。〜

大切な事は後になってようやく分かる。
青春のように。
真っ只中にいる時は分からない。

今年、大学時代の友人が亡くなりました。
舌癌から転移して、気づいた時にはステージ4。1年の闘病を経て、38歳の誕生日を過ぎて、彼は結婚したばかりの奥さんを遺して、その生涯を閉じました。

仕事系の記事を書こうかと思ったのですが、書きたい事を、書き残しておきたい事を書こうと思いました。
これは私、内倉陽平の軌跡でもあります。

内倉陽平。
これは本名ではありません。
私は彼の名前を抱えて、発信者になると決めました。

その友人は、大学1年生の時のクラスメイト。
男女比1:3。圧倒的に男子が少なく、肩身の狭い外語大学。
同じクラスの男子は7名。
(ゴールデンウィーク明けにはパタパタと2名が居なくなっていくのですが…)

その7人、大学デビューもあるでしょうが、生まれ育った場所が違うからか、皆個性的。
金髪のヒップホップ系の格好した奴、いかにも大人しそうなフランス人形のような可愛い奴、田舎から出てきて方言丸出しの奴。

かくいう私も青とか赤、古着で買った原色のパーカーをローテーションで着回し、前髪まで間違えてパーマかけてしまった後悔中の男だったんですけどね。
色黒で、ギャル男に見えていたのかもしれません。
その中で至って普通なのが、その友人でした。

「あ、こいつと仲良くなっておこうかな」

初日。休憩時間、みんなでトイレに行った時、そう思ったんですよね。

でも、いつも一緒だったのは別の友人でした。

彼は塾講師のアルバイトをしていて、就活でもないのにスーツを着て大学に来ていたり、どちらかというと別のクラスの人達と仲が良かったんですね。

1年の冬。彼が仲良くしていたその別のクラスに、ある女の子がいたんです。
5月頃にオリエンテーションっていうのがあって、その時、一瞬しか見なかったんですが、綺麗な目元が印象に残っていた女の子がいたんです。
当時はクラスに彼女もできて
「おっ、誰だ、あの子?」ってくらいだったんですが、半年後、その女の子が彼の隣にいたんです。
サラサラの長い黒髪、印象的な目元。和系の美人。フリーとなっていて、彼女に一目惚れした私は、彼に紹介してもらって、社会人2年目まで6年近く付き合いました。

彼女は私と付き合う前、その友人のことが好きだったんです。
当のそいつはどうかと言うと、それは鈍感な奴で。天然なところもあって。罪な男ですが、本人にそういう感情はなくて、彼のお膳立てもあり、私は見事にチャンスをモノにしたのでした。

7人くらいで、みんな仲良かった。
一人暮らししている奴のところへ泊まりに行ったりして。
撮った写真は、ほとんどが呑みの席のものでした。
大学の時も、社会人になってからも。
素面なのは卒業式くらいかもしれませんね。

社会人になってからは、自然と会う機会が減りました。
彼は自ら社畜と豪語していたくらい、忙殺されていました。連絡が遅いこともあって、一年に一度、会うか会わないかくらいでした。
あまりに連絡が無さすぎて、「時差男」と名付けてあげました。

社会人4年目くらいのこと。
彼は高校時代の友人と一緒にコンパを主宰しまくっていたんです。
何のきっかけだったか、誘われて、恵比寿の4対4のコンパに参加しました。

彼は他の人達をくっつけるのが好きで、楽しんでいました。本人は好意持たれているのにも、全く気づかない、
後に流行ることとなる、鈍感力の非常に優れた人間でした。

そのコンパで、今も覚えているシーンがあります。
大学の同級生だったということで、ある女の子が何気なく質問したんです。
「ふたりはさ、仲良いの?」

私と友人の二人は、何秒間か見つめ合って、

「あ、えーと、うん。仲いいよ、な?」
確認し合うかのように答えたんです。

いつもべったり一緒なわけでもないけど、仲の良いグループの一人。
それに私は彼がいるだけで、ホッとするんですね。
そのコンパはもちろん、大学での飲み会でも。
周囲の人間もそうだったと思います。
周りを穏やかな気持ちにさせる、不思議な男でした。

その10年後。
彼はステージ4の肺癌を宣告され、さらに1年後の今年、若くしてその人生に幕を下ろしました。
3年前に舌癌を見つけて切除したものの、それ以降の転移を病院が見抜けなかった。

ステージ4の宣告を受け大学7月。
彼は大学の友人の結婚式を急遽キャンセルし、大きな病院を探し始めました。

「まったくー、ふざけんなって感じだよー。大学病院はセクショナリズムだから、内科と連携しないんだよ」

根が明るい彼のニュアンスは、不思議と深刻なものには聞こえなかった。
例えるなら「観に行きたかったライブのチケットが売り切れてしまったよー」と言う時くらいのテンションに聞こえました。

彼に伝えました。
「あのさ、縁起でもないんだけどさ、周りに伝えておけよ。俺の電話番号とLINE。奥さんとか、実家に。なんかあったら連絡するようにさ」

大学の友人達に、彼が癌であることを伝え、行ける人間で病院へお見舞いに行きました。

去年は遅めの結婚ラッシュ。
7月から連続3ヶ月、結婚式が行われました。
9月は私の挙式。
彼には署名立ち会いを打診していましたが、抗癌治療が苦しく、7月の式と同じく、こちらも来れなくなりました。

式には遠方、鳥取県から来ている友人もいて、私は彼を連れて、お見舞いに向かいました。

途中で帽子を取って見せてくれた頭は、髪の毛が抜けてツルツルになり、あれだけ細かった男がまんまると太っていて、歩くだけでもはぁはぁと息苦しそうにしていました。

そして彼もまた結婚していた事を知りました。
彼女がいる事は聞いていたのですが、癌の宣告を受けた後、入籍していたとは驚きでした。
若い奥さんか泊まり込みで付き添い、彼の闘病生活を支えていました。

彼と会ったのは、それが最後でした。

忘年会も来れず、今年はコロナの中、LINEで定期的に連絡を取っていました。
連絡。いえ、生存確認ですね。
生きているかどうか。

治療はどうか、FF7にハマっているとか。
少なく、たわいもないやりとりの中で、「仕事の復帰」なんてキーワードもあって。

ステージ4だけど、治るんじゃないか。

「おい、まだ生きてんのかよ〜死ぬかもしれない詐欺だなぁ」

「う、うるせー」

何十年後も、そんな冗談を言い合ってる。
自分の隣にいる、彼の姿を見ることができました。
それが私の期待していた、都合の良い、未来でした。

今年、誕生日の祝いメッセージにも返信がなく、近くを歩いているし、電話してみようか…
いや、奥さんと一緒だろうから、遠慮しておこう。いつも連絡遅い、時差男だからな、と。


その1週間後。
登録していない人からLINEが入っていました。
彼と同じ苗字の男性。

私は分かっていました。
彼のお兄さんでした。

危篤か、死んでしまったのか。
私は怖くて、7月に挙式した地方に住む友人に連絡を入れました。怖かった。

電話をしました。

「すみません、お電話いただいていて…」

「あ、あの〇〇の兄の〇〇と申します。突然のお電話申し訳ありません。実は今朝、弟が亡くなりまして…それで、何かあったときは親友の内倉さんにお伝えするように伝言を預かっていたんです…お手数なのですが、大学のお知り合いの方に伝えてもらえますでしょうか」

分かってたんです。
お兄さんからの連絡の時点で。
慌てたり、取り乱すべきところなのに、私は冷静でした。
驚いたような受け答えを、演技したりして。
ずっと怖れていたこと。
何十回も、覚悟していたんですよね。
だから冷静だったのかもしれない。
その後大学の友人達に連絡したり、供花を手配したり、大学関連の参列者の取りまとめをしていました。
冷静に、スマートに、段取り良くこなせている自分が憎かった。

49日が終わるまでの間、私は耳元で彼の声を聞くことができました。呑気に、平和に話す声。それは他の友人もそうだったようです。

昼を食べながら、病院で撮った写真と向き合っていて、いつも問いかけていました。

「何がしたかったんだろう…なぁ、お前は何がしたくて、何ができないまま死んだんだ?」

ステージ4、余命宣告されている人間とは思えないくらい明るい彼の目を見ながら、毎日
問いかけ続けていました。

どうしても、知りたかった。 
不謹慎だという思いとの葛藤。 
それでも知りたかった私は、奥さんにLINEをして聞いたんです。

こんばんは。
今日、仕事納めでした。

毎日、〇〇の写真を見ています。大学の時と、去年のものを。
ツルツルの頭を見てると、神様のように思えてきました。
こんなんじゃダメだろ!って励まされています。

たまに、泣いています。
他の友達も、同じだと思います。

何がしたかったんだろうって。
何がしたくて、でもできなかったんだろうなぁって。

ずっと聞きたくて…

ひとつだけでも教えてもらえませんか?
〇〇がやりたかったけど、実現できなかったこと。
〇〇は、とにかくとにかく、死にたくなかったですね。。怖いって言ってて、、元気になって仕事がしたい!って。そしたら家を買って、日産のなんとかって車を買って、子供は2人くらいほしいと。したら子供は厳しく躾けると、なんか言ってましたね。(笑)
生前によく、したいことは何?ない?と聞いても特別何か出てこなかったですね。
そこまで欲があるタイプじゃいのかもしれないです。

何回か余命宣告を受けたことを、どうしても〇〇に言えなくて。それが正しかったのかも違ってたのか、〇〇はどうしてほしかったのか、未だにわかりませんけど。。。

なんか回答になってなくて申し訳ないです。

死ぬつもりなんてなかったんですね。
覚悟もなかった。
余命宣告なんか受け入れていなくて、生きることを信じていた、明るさだった。

仕事したい、車欲しい、家欲しい。
子供2人欲しい。子供は厳しくしつける。


それ、同じじゃねーか…

そう。
私の今日は、彼が生きたかった明日なんです。


お兄さんから電話がかかってきた日。
「内倉さんが親友だって聞いていて…何かあったら連絡してくれって弟に頼まれていたんです」

親友。
私は彼が死んだことを聞いてもまだ、この言葉に馴染めなかった。

お通夜が終わって、毎日写真を眺めていると、飲み会ばかりの写真を眺めていると、だいたい、いつも隣にいるんです。
楽しそうに、笑ってる。

あ…

俺達、親友だったんだ。



仕事を始める前、昼の食事。
いつも彼と映っている写真を見ています。
「俺はできる、できる。見とけよ」

私は彼の名前を抱えて、内倉陽平として、発信していく事を決めました。
noteブログは2ヶ月経ちました。

稼ぐことも、幸せに生きることも、自由度の高い生活をする事も、ずっと前から持っている自分の目標。
でも命をかけて、本気で挑戦していなかった。
つまらないことに苛立ち、怒りに囚われ、粗末に生きていました。


今年最後の日。
私は新年の目標を決めました。

19歳の冬、屋形船でやった飲み会。
そこで2人で映っている写真があります。
ソルティドッグやらビールやらで酔っ払った2人の若者は、歯をいーっと出すように笑っていた。

目標を決めた。
この笑顔を超えてみせる。
そういう人生を生きる。
1日1日。
嫌なことがあっても。

誓います。

親友に。


見とけよ。
見たことない景色見せてやるから。
良かったら、天国から、スキ!を入れろよな。

お前の親友より。

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