「銭湯の行動学」論文から考えたこと

 昨年、京都に集中講義に行った時、大学の前に銭湯があった。旅人でも気軽によれ、地元のおっちゃんや学生らと同じ湯につかった。その時以来、大学(の近く)に銭湯があったらなあと考える。

 ある方の論文を読みたくて、手にとったテキストにたまたま載っていた以下の佐藤さんの論文がとっても印象に残ったので、以下メモ。

「公共浴場では、身体それ自体が究極的ななわばりとなる。ここではほかの人びとと居あわせながら、まるっきり裸という無防備な姿で自分の身体に関与するという、もっとも私的な活動に従事しなくてはいけない。こういう場で、ほかの人の入浴行為をじろじろ見て、その人の身体的なわばりを視線で侵害することは、深刻な違反となる。(佐藤 2006: 280)」

■佐藤せり佳、2006、「銭湯の行動学」菅原和孝編『フィールドワークへの挑戦――〈実践〉人類学入門』世界思想社、259-282.

 おもろい調査論文は、その世界を書くことでその世界の外部を照射する力がある。 

・公共空間でのぶつかり
 たまたますれ違いざまにぶつかった体で、女性にねらいを定めてぶつかる男性たちがいる。捕まえられても、急いでいてたまたまぶつかったのだと言い逃れをする。加害者の意図を立証することが難しい点を悪用しての卑劣な行為である。これは加害者自身が言い逃れができる非対称な関係で、一方的に他者の身体への浸食行為である。ぶつかり行為は、公共空間における匿名性や非対称性、そして支配的関係に守られた状況で、他者との身体的な距離感を詰める(痴漢も同様)。

・阻止できない暴行
 また電車内で喫煙する男性を高校生が注意し、その高校生が喫煙した男性に暴行されるという事件があった。注意した高校生は、この社会に、またその場で自身の行為の後にその場で社会が立ち現れることに賭けた行為であったと思う。私たちは彼の期待を裏切ってしまった。その場にいた通行人たちは、おそらく各自が交番や職員に知らせたり、SNSでつぶやいたり、録画したりといった行為に出たのだと思うが、暴行を直接に止めることはできなかった。もちろん、直接阻止しようとすることは怖いし勇気がいることだが、知らない他者との身体的な距離感の詰め方を私たちは下手くそになってしまったように感じる。

・SNSでさらす身体

・近所の踏切

 銭湯論文を読むと、私たちは身体的な距離感を習得し損ねていることに気付く。私たちは、「丸裸」で他者と出会えなくなったのかもしれないと不安になる。年収や容姿などをもとに、私と「見合った」人とのみ出会う。他者との多様な社会的、身体的な距離感を維持、修正、創造することへの実践知を習得する機会を失いかけている。

 佐藤さんの描いた銭湯では、名前も住所も知らない人と、世間話をし、背中を流し、人の子どもの世話をする。そんなことは、いま銭湯ぐらいでしかできないのかもしれない。そこは常連メンバーで過ごすいつもの場所なんだけど、あの人がいつなん時来なくなったりもする。それは居心地が悪くなったからか、個人的な事情かわからないままだけど、その匿名性の心地よさがあり、また匿名的関係であるにもかかわらず、信頼関係が立ち上がる。匿名の人間を信じ距離感をつめることは怖いことなのだが、それをしないと既存の社会や関係でしか人びとは生きられなくなる。他者との距離感を詰めたり、維持したり、新たに開拓するために、銭湯はちょうどいい。

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