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発展途上 ゆるし 対話 進化

争いがないことが平和か?

平和 って 戦争がないことでしょうか?

たとえばコロナだと、病気を避けるのは大事だけれど
行き過ぎて
みんなの自由や命が制限され管理されすぎることは、
果たして健康でしょうか?

過剰にリスクを取りすぎることで、各自の自己治癒力や命のポテンシャルが生かされない方が、社会的な病のように思います。

同様に

平和ってなんだろう と思うに
戦争がない とかいうけれど

日本は戦争していないけれど
戦場も世界に輸出されて、遠くになって、見えなくなった
だけかもしれない
世界化した戦場に、まさに格差社会という形の戦時下にいるのかもしれない
ないのではなく 見えないだけ かもしれない

見えない戦争 や 戦時下 ができるのは
戦争を避ける形で平和を考えてるから

そうではなく ~がない ではない形で  ~がある という形で
平和を創るべきではないだろうか?

例えば
戦争がないのはいいことだけれど、どうやってそうするのか?

武器を持たない、暴力的なことをしない 
そういうルールを決めることは大事。

でも多分もっと大事なのは、どうやってそれを決めるのか。

そのためには、異なる異見を、ぶつけあうこと。
非暴力なら 議論 は 大歓迎
とはいえ 理屈ばっかりのではなく
共感しながらの
そして 個 を 認め合いつつも
同じ ひとつの源につながる
いまこの時代にともに生き 
将来にツナガル今を 共に作っている同士として
お互いに意識しあいながらの
そんな場が大事

仲良くね 迷惑をかけちゃだめ 誰かが傷つく
そういう同調圧力が命を息苦しくさせてしまう

いのちがそれぞれの中に閉じ込められるのでなく
風通しよく
個と個の間を通り抜けていくような
そんな場

小さく細かな 争い が たくさん ゆるされる事によって
大きな争いにならない
そんな場・社会・暮らし・教育 

多様な個が共生するゆえに強く・進化する

進化は、多様性を産めるように進んできた
(性もそう 結婚の仕組みもそう 文明の発展経過もそう)

その方が 多様な環境変化に耐えられたり、新しいものを生み出せる可能性が高いから

そしてこれまでは、拡大方向でやってきた
共同体にいられないものは外に出た
町に 都市に 
それでよかった

しかし今、地球🌍の有限性にぶつかって
(空間的にも、資源的にも、循環自浄システムの時間的限界にも)
拡大ではなく、バーチャル化、そして内的深化の方向に向いてきている
つまりは、異なるものが共に生きるということ

そこに新しいものが 生まれつつある
生成対話的コミュニケーションもまたその一つだ

発展途上

過去にも 村が町になり国になり 市場が生まれたころに世界宗教が生まれたり
変化の中で 新しいものが生み出されてきた

今もきっとそうだ
生命史上初めての

生命による気候変動 (酸素過多は過去にあったかな)
飢餓だけでなく飽食による病
メンタルな病多数
捨て場のない核廃棄物
今後も 遺伝子やナノや量子力学的な想定外技術による弊害

産業革命からの
大量生産大量消費
その背後にあるスピード神話と
モノで心の虚ろさを埋められるという幻想とマーケティング
と欠乏を体験させる戦争

それらも人類初体験ならば
インターネットやメタバースといった非身体接触的コミュニケーションも初めて

発展途上なんだから
責めるのではなく 
ゆるす
お互いの成長をこそ信じる
認めて 学んで 成長すればいい
失敗の科学・多様性の科学 だ

それを共通認識にしよう

そして人は、理屈・推論でなく、
体験から学び成長するようにできている
逆に
しっかり体験すれば、成長していける

それには しっかり 体験 することだ

それも 集合的に!
つまり人類として

心理的安全性 多様性 ゆるし ゆえ 挑戦

それには 体験を共有できる 場が必要だ
「心理的安全性」が大事だ。
そこに いること いるだけで 存在を肯定される場
弱さも出せる 守られた場
そこで 想いや 不満や 怒りや 恐れや 不安や 希望や ニーズを
共有できるなら
そこから お互いにできることが 化学反応的に現れるだろう
個を超えた生成がそこに生まれるだろう
人は そういうふうにできているから
社会的な生物であり 
そもそも源は一つ
大いなる命が それぞれを通して多様に生きているのが私たちだから

人類も 私も 個から

気候変動も個から始まる

暑いからエアコンを使う
生ゴミを燃えるゴミとして捨てる
見栄えの良い野菜を選ぶ
牛肉を好んで食べる
消費でメンタルを埋めようとする
時間に追われ 余裕がない 
・・・
メーカーが企業が多く排出している
それを知らない 感じられない
フィードバックが弱い 回っていない・・・

そんな個々が
想っていること
感じていること
願っていること
などを
告白し、共有し、そこからツナガリ的な何かを感じること
そこにこそ可能性がある

多様な仕事場で
多様な子育ての場で
多様な老後の場で
多様な生き方の場で
生きている多様なそれぞれが
それぞれ知らないことだらけのそれぞれだと知ること
わかりあえないところも盛りだくさんの
それゆえに折り合えないところもありありの
かけがえのないお互いを
知り、認めること
そこから
しかし 今いっしょに生きていること

対話

表層的な 理屈的な 何が正しい違う的な ディベート的な 対話 
共感的な 自分ごとのように聴く対話 NVCとかも
生成的な 誰であるかを超えた何かとして語り聴くような対話 ゲーテ的な

U理論でも出てくる、さまざまな深さの対話 が始まっている
哲学カフェ 哲学風カフェ そもそもカフェ・・・

そういう対話、深い対話を通して、多様な個がひとつの命または場を生きていくこと。それこそが「平和」ではないだろうか?
そういう学びの機会に満ちた今。

和をもって尊しとなす とは
異なるものどうしが多様性をもって創発しながらいきていくという「和」を尊しとすることでしょう

和の道 和道 とかってありうるかも それこそが「平和道」かな。

そういうコミュニケーションの文化・テクノロジーを活かすことで
市場主義や今の不完全な民主主義を超えていけるでしょう。
(AIとかも使っていい)
面白いですね!

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