スピードを手放すことで味わう「1」であり「多」としての「いのち」
「時間を微分するみたいな味わい深さは
客観的スピードについていけない
内的なスピードを加速するでなく
スピードを手放すことで
味わえる」
というインスピレーション。
人生やいのちや宇宙を、この体験を味わうときって
せかされたりしないで、ちゃんと時間をとって 味わいたいと思いますよね
そして味わうとき
ちょうどスローモーションのときのように、一瞬一瞬を、
味わおうと思えば味わえますよね。
意識のモード次第で。
ゼノンの「矢は止まっている」パラドックスみたいに
時間を短くしていくと
あれ? 矢は動いてないぞ と。
とはいえ、未熟者的には、今にとどまることには困難さもあって
ボールが止まってみえるのは一瞬あるかないかで、
実際には 認識限界時間(0.1secくらい?)みたいなものがあるように思います。
これが主観的な時間感覚が、客観的なスピードについていけない。
というところで。
では、どうするかってところで
上記のボールみたいに
サイボーグ009的な加速装置をインストールするという発想もありますが
それもまたキリの無い話で。
やはりそこは、速くなることではなく、時間じゃないよね ってことで
感覚としては映画のマトリックスに近くて
速くなるのではなく
味わいに没入することで、時間がうまれるところにシンクロすること
それによって客観的な時間に対して受動的に流されるのではなく
能動的というよりは中動態な時間にシンクロし創発するイマココにノることができるだろう
ゼノン的には 時間をゼロにする
翻って
現代は、加速主義で、加速して生産性を増して、どんどん速く進化して、物理実体を超えるシンギュラリティへ
ってやってるけれども
実際は 自然界(物質~精神までを含む)にアンバランスを生み出して循環から逸脱しているわけですよね。
加速ではなく、やるべきことは
意識をスローにスローに今を味わうところに覚めつつ
シンクロしていくとワンネスに至り
(たぶん シンクロとは 時間をゼロにするということなんだろう)
ここ(ゼロスピード)において「1」であり「多」としての私が、
「いのち」として創発的に踊ることができる
「中今」(過去・現在・未来 が畳み込まれてある時間を超えた”今”)も近いかも。
つまり 外面的物理的な「テクノロジー」ではなく
(それは反面教師として、またはメタファーとして私達のポテンシャルを見せてはくれるけれど
たとえばインターネットやクラウドや Web3 が私たち自体の インナーネットを想い出させてくれるように)
内面的・集合的な「技」だろう。
そういえば、身体は常に 今 にいる。「中今」にいる。セルフ2。
古武術の深い智慧は からだ こころ いしき が 創発する いのち からのものなんだろう。
からだ こころ いしき が いのち を 創発してる
いや いのち が からだ こころ いしき を創発している のか
からだ は 生態系としての大きなからだ でもあり
時を紡ぐ 中今 としての 時間生態系のからだ でもある
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