見出し画像

実験の民主主義-トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ by 宇野重規 聞き手 若林恵

承認から行使へ、議会から行政府へ、リテラシーからコンピテンシーへ、ゴールありきからやってみるプロセス学び協働へ

聞き手とのコラボならではの素晴らしさ❣️

ミュニシパリズムとのシナジー*\(^o^)/*


行政府を民主化する(立法府一辺倒でなく)
DXとは「ユーザー中心」のこと。これまで供給サイド中心に作られたシステムを、ユーザ中心に180度転換するということ。

行政職員はファシリテーターになっていく。

ファンダム(ファン・コミュニティ)の、共創アソシエーションとしての実績と可能性。

「参加型テクノロジーによって、私たちはメディアのリテラシー(受動的な読むチカラ)だけでなく、コンピテンシー(実行力。能動的)を手にした。「コンヴァージェンス・カルチャー」は、このことを全世代に知らしめた。私たち自身のメディアと物語を社会的に作り出すことが集団的な覚醒へとつながるのだ。」オードリー・タン

プラグマティズムは、人が何かを「信じようとする権利」を最大限に擁護することを、思想の基盤に置いた。真理かどうかはわからないゆえにそれは実践されて検証され、社会化、生成される。

実験の民主主義
日々の様々な実践を通じて、多様な習慣に基づく理念・思想の生成を前提に、私は「単一の意思の優越」に基づく民主主義ではない「実験の民主主義」を提案しました。
人々の間で理念が共有されるだけでは不十分で、より重要なのは、人々がともに行為し、経験を共有することだ。デューイ

w: DIY〜DIWO = Do it with Others(2006〜Furtherfield)へ これがアートのようなハイカルチャーでなく、ゲームやアイドルのようなサブカルチャーで盛んになる。ファンダムにも!
(インターネットの初期の頃に、人々が見たい。夢が全く予期しないところで、現実になっているじゃん!)

これまでの私たちが当たり前に考えてきた民主主義と言うのは、投票に行くかデモするくらいしかなかった。しかし、民主主義と言うのは本来、自分も参加して決定を行い、だからこそ責任を取るというものだった。参加と責任の間の距離がもっと短くて、いろいろなことをたちで「する」というDoの部分にこそ実感があった。

「あなたは何を知っているのか?」と聞くのではなく、「あなたに何ができるのか?」と聞いて、「こういうことできるよ」と応答して、みんなで力を合わせる経験が日常的にできる。そういった参加のチャンネルをどう開発できるのか。

w:「何ができる?」と言う問いから始めて、その場にいる人たちが「できること」をどう紡ぎ合わせていくのか。それこそが、コンピテンシーに基づくデジタル民主主義の考え方だと思います。さらに重要なのは、そうした考えに立つと「何もできない人はいない」と考えられるようになると言う点です。
先のファンダムの話で言えば、応援していることも立派な参加・貢献になる、と。

w: Doの交換として「参加」.を捉え直すと、「人の話を聞くこと」といった受動的な行為も、アクションとして価値となり、貢献になる。「インクルージョン」と言う概念は、本来こうした視点に立たないと成立しないはずです。

あらかじめ存在している「民意」なんていうものは存在しない。革命なんかやらなくても「面白いね」の連鎖から社会の仕組みが変わっていく。

「終わりをデザインする」のでなく、「始まりをデザインする」。完成形をデザインする「建築家」ではなく、育ってきた植物に応答的に反応するしかない「庭師のように考えよ」。ブライアン・イーノ。

しかし、行政や企業は、終わり=完成形 を手放せない。(パブリックコメントも終わりありきでやってしまう)

w:集合的知性は、リテラシーではなく諸能力の動員されたコンピテンシー、対話より無数の小さな「やり取り=トランザクション」が大切。それは互いの個体間の交渉を意味するインタラクションでなく、互いの境界を超えていくコミュニケーションのありよう。一般意志というより、生成され続ける集合的知性。

代議制への不信に比例して、直接性と言う考え方が強まるわけです。もちろん政党のあり方を改革して、政党と市民の距離を近づけるのも大切ですが、同時にその直接性を選挙ではなく、第4章で見てきたように、強すぎる執行権、行政権への民主的コントロールにシフトさせることが現在において重要ではないかと思います。

- 政治家は政策を掲げ、政党マニフェストを提示します。有権者からすると、おそらくどんな政治家や政党に対しても、賛成する点と反対する点がありますので、1票を1人の政治家あるいは1つの政党に託すのはどう考えても無理があります。例えばイシューごとに投票すると言った可能性を思い浮かべたりもします。

分人民主主義で一票を分けて投票とか、多彩に。
くじ引き民主主義も。

選挙制度の再デザインの話は結局のところ、現行制度のもとで選ばれた議員にその制度を変えることのインセンティブを与えられないという問題に帰着してしまいます。〜それを突破する1つの道筋は革命ですが、一発勝負の革命モデルではなく、もっと分散的に、局所的にどんどんルール変更していき、その結果として全体最適を図れるようなシステムの作り方ができないか。革命ではなく、プラグマティズムのモデルですね。

ファンダムの可能性は、選挙戦のようなコンペティションにおいてではなく、むしろその外にある協創活動にあるのだと個人的には考えたいです。本書を通じて承認ではなく行使、議会ではなく行政府、リテラシーではなく、コンピテンシー、に目を向けたいと言っているのは、こうした観点からです。
ファン投票のところだけ見ると、確かにこれは新たな総動員体制と言えるかもしれません。そうではなく誰に頼まれたわけでもないのに、めいめいが自分なりに行動してみて、その行動の成果がファン同士で交換されていく。その無償の貢献のプロセスにファンダムの可能性がある。

w:地産地消という話で言うと、ある知り合いが循環経済というのは、所有者と利用者を近づけることなんだと言っていました。例えば地域で再生可能エネルギーの電力会社を小さく作りましょうと言った時に大事なのは、その電気を利用する人たちが、その会社の所有に関わることで、そうすることによって、自分たちが利用した分が自分たちに戻ってくる仕組みになる。それが循環経済なんだと。

所有と使用の距離を近くしていって、自分なりに責任や主体性を感じられるようにすることが大切だと思います。プラグマティズムの思想も結局のところ鍵は距離感だと思います。自分でやってみて、その結果が自分で見えて、責任も取る。そのフィードバックをすぐに活かすことも可能です。

プラグマティズムは〜答えがわからない時代にどうしたらいいかを考え続ける、非常に懐疑的な哲学です。一人一人が実験していくと、社会は必ず良い方向に行くはずだという信念というか、信仰のようなものがありますが、そういったものとセットになって懐疑主義を乗り越えていこうと言う哲学だと捉えると輝く素地があります。
w:そこでは行動することがすごく重要だというのが大きなポイントですよね。

手の民主主義
一般意志の前提には「人間は意志があって初めて行動ができる」という考え方があります。他方でプラグマティズムによれば、行動の後に「自分はこういうことを意志していたのだな。このことを自分したかったのだ」と、事後的に自分の意志がわかることもある。意志は絶対ではなく、むしろプラグマ=実践、行動の後に意志がついてくるという考え方です。

少なくとも既存のやり方のままだと、新しい課題も解決も発見されない。そこにゆらぎを入れるためには、それぞれの人が「勝手に始める」。プラグマティズムのすごく大切な部分は、「勝手に始める」ところですね。
また大事なのは、プラグマティズムの「習慣論」の部分です。良い実践は人が真似していく。それが連鎖していくと、多くの人々に伝播して、やがて習慣として定着する。現代的で多様で分散的な習慣の伝播というもののデザインが重要ですね

w: youtubeやtiktokは「やってみた」動画であふれています。インターネットは、その意味で本質的にプラグマティックなツールだと思うのですが、私たちはどうもまだそれをルソー的な空間、あるいは20世紀型のマスメディア的なものとして使おうとしているような気がします。

今、イデオロギーがなくなったとは言わないまでも、全てを見渡せるような特権的視座がなくなり、非常に見通しが悪い時代となった。見通しが悪い時代だからこそ、直接性や距離の近さ、即応性、自分のやったことに手触りを求めるようになる。それは悪くすれば、みんなで単にバラバラにやっているだけになりますが、「習慣」というミームの力でつないでいくことを通じて、社会を変えていくことにもつながる。このモデルの方が今後の社会を動かしていくことになると私も思います。

w:「頭」ではなく、「手」の方へいったん比重を動かしてみると、イデオロギーが違っていても協働できる事はたくさんあるのではないかというのが私の楽観的な見通しです。

w:ソーシャルメディアの功績の1つは、頭の良いとされている人でも、あらゆることについて正しかったり頭が良かったりするわけではないということを可視化したところだと思います。〜インテリが万能な知性の持ち主だと言う設定は、テレビや新聞のような管理の行き届いた空間が成立していただけなんだと言うことを痛感させられます。

人間誰しも間違えるし、完全無欠な「意志」なんてものはない。であればこそ、臆せずにやってみる。〜「やってみた」を見て、「自分もやってみよう」と思う人が出てくるのが、まさにプラグマティズム的ですよね。

行政が主体となって決定する「正しい」環境政策はまずもってうまくいかないと言う議論から始まります。科学主義に基づく「正しさ」と住民が考える。「正しさ」にズレが生じてしまうと。そこから「市民参加」「合意形成」が重要だという話になるのですが、これが言うは易しで実際にはなかなかうまくいかない。そこで順応的ガバナンスと言うアイディアが提出されるのですが、これは「正しいやり方」を求めるのではなく、現場における試行錯誤から学んでいくアプローチを取ります。〜 その際に重要なポイントが3つ挙げられています。「試行錯誤とダイナミズムを保証すること」「多元的な価値を大事にし、複数のゴールを考えること」「多様な市民による学びを軸としつつ、「大きな物語」を飼い慣らして、地域の中で再文脈化を図ること」この3つです。〜宮内泰介 

日本の学生運動での逸話。「革命だ。」「国家打倒だ」と男性運動家が息巻いていましたが、立てこもりをしたり、ピケを張ったりした際に、みんなのためにおにぎりを作っていたのは女性たちだった。と言うエピソード。国家権力をいかに脱するかと言う時にも足元の平等は全く考慮されず、男女の役割分業の構造が温存され続けてしまう。革命家だっておにぎりを食べなければ生きていけない。それでは誰がおにぎりを作るのか?革命とおにぎりを作って食べることを別の世界のこととして考えてしまっていた。おにぎりなんていうのはコンビニ行ったらいいじゃないかと言う革命家がいるとすれば、あまりに現在の消費資本主義に無自覚なことになる。

w:都市における市民参加型の空間を構想するにあたって「キッチン」「台所」というアナロジーが使われていた。そこが「生産の場」でもあり、同時に「消費の場」でもあるから。

あるイギリスの政治家が「政治家にとって何が大切か」と聞かれて、「自分と敵対している人と一緒にご飯を食べることだ」と答えたことがあります。政治と食事は実は深くつながっています。

自分の感情を素直に表出することがむしろ大切で、感情を積極的に熟議の場に持ち込むべきだという議論も出てきています。

セガートさん「ドメスティックなものをパブリックな言葉に翻訳すること」を否定して、代わりに「ドメスティックなものを再政治化すること」を提案し、こう言います。「武力であれ選挙であれ、歴史を方向転換するために国家権力を握ると言う戦略が常に失敗してきたことは、それが答えになり得ないことを示している。なぜなら、国家権力は結局のところ、権力を行使する者の理性を押し付けるものだからだ。」これは統治や行政府の問題とも関わるところですが、結局は統治する側の理性によって抑圧されてしまうのであれば、いくら市民や国民の感情をすいあげたところで意味を失ってしまいます。〜
まさに宇野さんが「民主主義の作り方」の中でケアと言う論点を挿入し、人間が脆弱な存在であるという前提のもとに民主主義を考えることはできないのかと提起されたのと近い問題なのかもしれません。

トランプ的な現象の問題は、孤立した個人の焼き場がなくなり、国家と言う「大きな物語」に自らを委ねて依存してしまうところです。もちろん、財政的な行き詰まりを抱えた現在の政府は、彼らを経済的に救済することができません。それでもトランプは、極めて大衆的な感度の高い人ですから、そうした「大きな物語」の希求を「make america great again 」というキャッチコピーによって満たし、多くの人の感情を回収していった。本来であれば、そうした感情は「大きな物語」をうまく飼い馴らしながら、ドメスティック/ローカルな文化の中で、再文脈化される必要があったのかもしれません。

「ケアの倫理学」これまでの政治は「人が脆弱なものであるという事実と、自らが他者によって育まれてきた過去を忘れさせ、自律的な主体を社会の出発点に据えることで、政治的共同体にふさわしいとされるつながりを構想してきた。と岡野八代さんは語ります。
これは依存をめぐる話で、これまでの政治ではとにかく「依存」は悪いものだと考えられてきました。
w:依存しない自立した個人であると。

人は依存しながら生きているし、逆に言えば、自分もどこかで人に頼られている。そういう関係によって、個々の人間も社会も成り立っているのに、その根幹が抜け落ちる。それ抜きで「合意形成しよう」と言っても、一体何を合意するのかと言う話になってしまいます。
w:自立と言うのは依存先を増やすこと。熊谷晋一郎。〜 自由と依存は、対立的な関係にあるのではなく、現実的にはむしろ補完的な関係ですよね

前近代社会は誰が誰にどう依存しているかがわかりやすく可視化されていて、だから「お前俺のことを聞け」と言う連続関係が生まれやすく、ルソーはそのことをひどく嫌ったわけです。しかしながら、近代社会が隷属関係から自由になると言うのは建前で、実際は依存を見えなくしただけだと思います。〜厳しく言えば、自分が何に頼っているのか分からなくするのが、現代人の自立だったわけです。

w:シェアと言うと、多くの人が歩決まった資源を分配することだと思ってしまうけれど、そうではなく「シェアと言うのはみんなで持ち寄ることなんだ」 R65 山本遼

近代的な都市計画は、全て通勤する男性の視点だった。そう思えば、女性の側から都市を構想するいう事はもっとされてはずですし、それこそジェーン・ジェイコブスが構想したような「路地的」な都市のイメージは今後ますます重要です。

w:ケアには他者をケアすることで、自分がケアされると言う構造がある by REN  何かをとても大事に思い、それをケアしていく事は、実は自分自身を気やすくすることになると。ファンダムを動かしているのがある種のケアの感覚だというのは実感としてはあるんですね。ちょっと不思議な感覚なのですが。

ファンダムを始めとするオンラインコミュニティーが面白いと思うのは、人々が体験してきた時間の蓄積があることです。コミュニティーで問題が起きたときに、それをみんなでどう乗り越えてきたかといったことが共有知となり、そこから新たな習慣や規範が生まれていく。

インターネットによって規定された社会に、最も適合的な社会モデルは、その都度アセンブル(組み立て)し直しながら自己生成することができる社会なのかもしれません。プラグマティズムをみんなが絶えず実験をしながら問いを探していく社会と読み替える、逆に短期的な答えが与えられていくことで、みんなが思考放棄に陥り、安易に最終解決を求めるような社会はやはり嫌なのです。

本書自体が実験であり、プロセスであり、生成の場でもある。答えではなく、問いを探す。民主主義とは、何かを実験的に考察する本書この対話自体が民主主義の実験であってほしいですね。

ミュニシパリズム
https://morinohito.net/hashtag/municipalism/

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?