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2024.3.20 春分 ウトナイ湖 日の出 渡り鳥 タウマゼイン(存在驚愕/存在神秘)

3/20(水) は春分でした。

毎日新聞から

「地球の真中心、赤道付近にまっすぐ光が当たり、
 北半球と南半球に、同量の光が当たり、
 陰と陽がきれいに分かれ、昼と夜の長さが同じ。

 春分の日、世界中どこからでも、
 朝の日の出の御来光は、
 真東から昇ってきて、真西へと沈んでいく。」

(地球暦)2024年3月20日 12時06分 春分@太陽黄経0゜
https://note.com/helio_compass/n/n044555563bc1

春分こそ、元旦という方々もいらっしゃるほど、
大切な日です。

ウトナイ湖

私は、家族とともに、渡り鳥の聖地と呼ばれる、
北海道苫小牧市のウトナイ湖に、2時10分起きで行ってきました。

(ウトナイは、アイヌ語の「小さな川の流れの集まるところ」が由来。) 多くの清流が注ぐ湖の周辺では湿原や原野などの多様な自然が形成され、動植物の宝庫、野鳥の楽園といわれ、四季を通じて野鳥とふれあえます。 特に鳥類は、多くの種が確認され、ガン、カモ、ハクチョウ等の渡り鳥類の国際的にも重要な中継地、越冬地となっています。~ wikipedia)

夜明けは約 5:37(山のおかげで少し遅れました)。
湖に接した道の駅に到着したのは 5:15くらい。
日の出前の光や雲や水面の美しさ、そして湖に映ったそれは空前の美しさでした。
刻々と変わる一瞬一瞬がそれぞれの美しさをもってあらわれます。

その景色を織り成す一部としての、鳥たち、鳴き声、時おりの数羽の飛び立ち

そしてそこに共存させていただいている私、家族、写真家のみなさん、
星たち、草たち、動物たち、虫たち、眠っている遠くの街、山々、空、湖、ゴミを拾う娘、iPhoneを操作する手は冷たく…

と、

夜明けの陽が射し、
鳴き声は祝福するかのような歓びの讃歌のごとく
飛び立つ群れも ちらほらと

陽光はすべてを照らし射し通り
私(多次元の身体)にも通っていく

太陽は、夜明けは、地球を周っていく めぐっていく

存在驚愕/存在神秘

私たちは
生かされていて
生きていて
同じ一つとして生きながらそれぞれでもある
神秘・ワンダー・驚愕

夜明けだけではない。
あらゆる一瞬一瞬が
あらゆる場所が あらゆる空間が
あらゆる世界の営みやカラダの働きや暮らしや生死が
協働創造生成生滅であり、ゆえに聖なる祝福感謝なのですね
全き生きることによって滅されて感謝。新たな生が生きられる祝福。

すべて必要なものは 私の内にある 
 私として外にある 宇宙という身体関係 間にある 関係にある
ただ 感じればよい 感じていることに気づけばよい
存在を 生成生滅する存在 Being に
耳をすませばよい 沈黙に

今ここで常に 変容が起こっている
驚け!(無限に小さく無限に大きな)いのちが あなたを生きている

ありがたいことです 

あけましておめでとうございます


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Inspired by「沈黙を生きる哲学」by 古東哲明

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たいせつなことは みな 沈黙のなかで起きる

僕らの経験世界の成り立ちの二重構造、B位相は可視的位相、五感的現実。膨大な存在者(モノゴト)がおりなす色彩ある意識野です。これに対し、たえず不可思の位相となって伏在するのが、静寂の存在次元(A位相=実在世界)。ほんとうの自分(生命の息吹)の生息圏です。

非知に触れる

全宇宙の96%は、もの(thing)ではない、何やら得体の知れない物質(no-thingness)。色も形も何もかも不分明なわけのわからないXエックスです。ロゴス空間に繰りこめるものは、原理的に最大で宇宙の4%だけ。後は非ロゴス空間のままと言うことになります(雑誌newton 2015.8.)。とすれば、宇宙のほぼ全てが深い沈黙のひろがりということになりましょう。

真の現実-自然と言っていいかもしれない-とは収拾のつかない無秩序な修羅場〜「狩の思考法」角幡唯介

存在驚愕/存在神秘 タウマゼイン

真空無相から真空妙有へ

A位相からB位相へ

色即是空から空即是色へ
還り、存在自体の奇跡的神秘に驚愕する

一期一会への驚きと気づきと感謝

十牛図

今この瞬間 自由 

意味と本質は、どこか物の背後にあるのではなく、その中に、一切のものの中にあった。(シッダールタ ヘッセ)

マインドフルネスは、対象を物理的にじっと見つめる Gaze ではなく、KindlyでケCarefullyな態度で見つめること。

「ぼくは「無音(音の無い世界)」の音を聴くために、ハーバード大学の無響室に入った。ところが無音だと思っていた世界なのに、「自分の神経系が働いている音」と「自分の血液が流れている音」を聞いた。(ナイマン)

娑婆即寂光土

存在は無根拠、おまけに無常。ゆえに、理論上は在りえないし、在っても在り続けないはず。にもかかわらず、こうして理論上ありえないことが実現し続けていること(神秘・奇蹟)として、この世この生の存在を目撃すれば、人間の心情としては、驚嘆や畏怖しかない。

その存在驚愕(存在神秘感)をベースにすれば、森羅万象が在ること、ましてや在り続けていることは、それがなんであれ、どこであれ、いつであれ、無条件に例外なく凄い。その存在神秘の感慨から、この世この生の厳かさ・畏怖の想いがはっきり湧き出てきます。

しかもさらに、会う必然性どころか、そもそもこの世に存在する必然もない膨大なモノゴトや人や動植物たちと、少なくとも今ここで「共に在ること」の根本偶然(仏教なら「縁起」)が、了解されもする。つまり、在るはずのないもの同士が、奇しくも今ここで座を時を<共にして在る>ことの奇跡・厳かさの想いが湧出します。(p254)

死滅を〈滅亡〉とか〈有限〉と言うなら、今ここのこの僕にひき起こる瞬間は、滅亡からも有限性からも、免れています。つまり、不滅で無限です。そんな意味で、〈今、ここのこの僕だけにひき起こる瞬間のせい〉を、「永遠」と形容する事はゆるされましょう。

死に滅ぼされる存在者(thing)のはかなさや有限性と対照的に、存在(Being)の事実は、死による撤回不可能性、つまり不壊不滅性を、際立たせます。(p268)

死ぬこと=不帰(二度と今生に帰れないこと) が悲しいのは、「生き足りない」からです。生きること自体を忘れていたからです。人生列車に乗り込んで、終着駅や下車後のことばかり考えていただけでなく、今列車に乗って、こうして人生の旅をしている、その旅自体を味わうことを忘れていたからです。沈黙を生きることの意義もここにあります。この世この生の旅のリアリティーを、直接この肌身で存分に味わう態度。それが「深い沈黙」だからです。(p270)

海容倫理の可能性(とてつもなく大きな器みたいな)

あなたが木を育てようと思ったら…、葉っぱに水をやっても、あまりたすけにはなりません。その根元に水をやらなければなりません。戦争の根元の多くは、ここ、あなたの国アメリカにあります。だから私はここアメリカに来たのです。
(ティク・ナット・ハン)

もし、僕たちが空想化のようだとおっしゃるならば、救いがたい理想主義者だとおっしゃるのならば、できもしないことを考えていると言われるならば、何回でも答えよ。
「その通りだ」と。(チェ・ゲバラ)

春分の夕陽 有珠山へ


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