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『ニュー・アース』省察⑨ ‐ 無意識に演じる役割の裏に潜むエゴ

第四章 エゴはさまざまな顔でいつの間にか私たちのそばにいる (其の1)

ここから第四章です。
この章ではさまざまな種類のエゴについてさらに詳しく見ていきます。

エゴは他者の関心を求めます。
多くの場合、他者からの承認や称賛のように、なんらかのポジティブな形を持った関心からエネルギーを得て、肥え太ります。
ただし内気な人でも、関心が否定や批判というネガティブな形で自分に返ってくるのではないかという恐れの方が大きいだけで、必ずしもエゴの要求から解放されているわけではありません。

観念的な自己意識は、圧倒的にポジティブだろうと(私は偉大だ!)、圧倒的にネガティブだろうと(私はクズだ)、どれもエゴでしかありません。
そしてそれぞれのエゴの裏には ‐ ポジティブな自己意識であれば「これでもまだ充分ではない」という不安が、ネガティブな自己意識については「本当は確実に優越していたい」という強い願望が、隠れているものです。

誰かに対して優越感や劣等感を感じたら?
そう、まずそれらはエゴが感じているのだと気づいて、観察することです。

簡単に称賛や賛美が得られない場合、エゴは別の形での関心を得ようと、そのための役割を演じます。
本書では以下の3種類のパターンについて記述されています。
・【悪人役】悪さをして親の関心を得ようとする子供から、有名になろうとして敢えて悪人になり罪を犯す人まで‐「私は存在している!どうでもいい人間ではない!」と叫ぶエゴ…。
・【被害者役】「私の悲しい物語」の主人公であり続ける人 ‐ その物語によって他者にアピールし、それが叶わなければ自己憐憫にふけることによって、アイデンティティを守り続ける。永久にその悲しい物語を終わらせようとしないのは、エゴの仕業…。
・【恋人役】相手の関心を引き、繋ぎ止めるため、相手の望む役割を演じ、相手にも自分の望む役割を演じてもらいたいという無意識の合意 ‐ もちろん永久に演じ続けることなどできず…その役割が剥がれ落ちた先に存在する本性のエゴ同士の衝突により、満たされなくなった欲望は相手への怒りへ…。

実社会にも、様々な物語の中にも、よく見られるパターンですね。

ここからさらに、話題は社会的な役割とエゴの関係に移ります。
古代から文化が発展するにつれて、社会には様々な機能(支配者、聖職者、戦士、農民、職人など)が発生し、その役割を特定の人に担わせるようになります。
そして、それぞれの機能が割り当てられた自分の役割を、自分と同一化することが普通になっていきます。
「私は○○だ」の○○に職業名や役割名を当てはめて、それによって自分が何者であるか説明できてしまうような気になる、そんな状況が蔓延していくのですね。

それが現代では、社会構造が昔ほど硬直的でなくなった影響で、自分がどこに納まればいいのか分からなくなっている人が増えてきています。
それらの人々は、生きる目的は?自分は何者?と、混乱したりしますが…。

著者のエックハルトさんは、このような混乱を抱えた人に会うと、それはよかったですねと応じるそうです。
混乱するのは自分が何者か知りたい、知る必要がある、と思っているから。
ではその思いを捨てたら?

思いを捨てるとはつまり、『思考』で自分自身に観念的な定義を与えるのを止めること、分からないと降参すること。
そうすれば自動的に混乱も消え、安らかな気持ちになれる。
真の自分に一歩近づくことになるのですね。
だから、よかった、と。

当然ながら、この世界では人々がその特性を踏まえてさまざまな機能を果たしています。
著者が問題としているのは、その機能への同一化が行き過ぎて、人が役割になりきってしまうという状態です。
役割への同一化が過ぎると無意識になり、その役割における行動パターンと自分自身を混同し、硬直化し、自分自身を深刻に受け止めてしまう。
そして自分の役割にに見合った役割を、自分の周りの人にも振っていく。
例えばある医者が自分を「医師」という役割と完全に同一化していると、自分のところに罹ってくる人々は人間というより「患者」あるいは「症例」でしかなくなってしまいます。
既成の役割は本人に心地よいアイデンティティを与えるかもしれませんが、そこには人間らしいつきあいは存在しない、ということです。

これは…なかなかに困った指摘だな、と個人的に感じています。
私はカウンセラー/セラピストという役割でクライアントに接し、その役割に応じた”境界線”を非常に大事と捉えています。
著者の言葉を借りれば、そこを”深刻に受け止めている”と思います。
相手を人間というよりクライアントとして捉えている…う~ん、そうですね…むしろ人間らしいつきあいを排除し役割に徹することが、きちんとした仕事をする上で大切だと指導されているのですけれど…💧
ひとまず、「無意識」に「同一化」することは無いよう、心掛けましょう…。

また、役割について別の切り口として、関わる相手によって微妙に態度を変える自分自身を認識できることがあるかと思います。
相手が自分の会社の社長か、レストランのウェイトレスか、自分の子供か ‐相手によって自分との間に条件づけられたパターンがあり、それが人間関係の性質を決定しがちです。
そして相手もおそらく同じように、相手自身とこちらの間で観念的なイメージを作り上げる。

自分から見た、自分の役割と相手の役割。
相手から見た、相手の役割と自分の役割。
この4種類の観念的、つまりフィクションのアイデンティティが交流するさまを想像してください。
そこに真の人間関係は存在しえず、葛藤が付きまとうのも意外ではない、と著者は記しています。

厳しい…そしてせつない指摘…。
真の自分となって、真の人間関係の中に生きることの難しさを思い知らされます。

そんな今回の最後は、「役割としての幸せと真の幸せ」という話で締めたいと思います。
現在、多くの場合、”幸福”さえ人々が演じる役割になっているけれど、その演じているエゴの裏には隠された多くの苦しみがあり、それが心身の疾患につながるのも珍しくありません。
著者の文章をいくつか引用し、終わります。

あなたの中に不幸が存在するなら、まず自分の中の不幸を認識する必要がある。
「私の中に不幸がある」と言い、それを観察する。
あなたのいまの状況が不幸と関係しているのかもしれない。
状況を変えたり、状況から脱出するには行動が必要かもしれない。
自分にできることが何もなければ、その事実をみつめよう。

不幸の第一原因は状況ではなく、その状況についてのあなたの思考なのだ。
思考と状況を切り離そう。
物語をつくりあげたりせずに、事実とともに留まってみよう。
事実と直面すると、必ず力が湧いてくる。

だいたいは自分の思考が感情を生み出すということに気づこう。

幸せはつかみどころがないが、不幸からの解放なら、物語をつくりあげずに事実と堂々と向き合うことによって、たった今実現できる。

≪巻頭写真:Photo by John Noonan on Unsplash≫

長年の公私に渡る不調和を正面から受け入れ、それを越える決意をし、様々な探究を実践。縁を得て、不調和の原因となる人間のマインドを紐解き解放していく内観法を会得。人がどこで躓くのか、何を勘違いしてしまうのかを共に見出すとともに、叡智に満ちた重要なメッセージを共有する活動をしています。