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精神のない専門人、心情のない享楽人


どうもです。

前回は、幕末の歴史に埋もれた近代化思想の始祖の1人を紹介しました。
近代化”とは一体何なんでしょうかね?

というわけで、
今回はそんな”近代“というものをキーワードにしたときに出てくる有名人の言葉について少し掘り下げてみたいと思います。


世界がどのような変遷を持って“近代化”したのか、
その変化が一体何をもたらしたのか?
昔の話とはいえ、
それが今の時代にも続き、今後を考えていく上でも十分示唆に富んでいるのではないかと思います。


僕は学者でも何でもないので、
自分やその周りの話にも置き換えつつ、
めちゃくちゃざっくりまとめてみたいと思います。
筋違いなところも多いと思いますがご容赦を。


それでは…


【本日のお言葉】


精神のない専門人、心情のない享楽人。
この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう。

by マックス・ウェーバー


社会学の権威”マックス・ウェーバー”の言葉(予言?)です。
これだけ見ても何のこっちゃか分からないですよね(笑)

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▲マックス・ウェーバー(Wikipediaより)

マックス・ウェーバー”は、
1864年にドイツ(当時プロイセン)に生まれ、若くして大学教授となるも、その後精神疾患を患い、
闘病後も積極的に研究を進め、
第一次世界大戦が終わった直後の1920年に亡くなった社会学者であり、
近代と格闘した思想家”として日本でも有名です。

まずは“近代”とは何なのか、
歴史を振り返りつつ、彼がそれをどう位置付けたかをざっくり記し、
なぜこのような発言に至ったかを見てみたいと思います。


中世から近代へ


近代”とは、
一般的には封建主義時代より後の資本主義社会・市民社会の時代。
と言われています。

ざっくり流れを説明しますと、
近代”以前の、“中世“のヨーロッパ社会は、
国王や君主がいて、“絶対王政“に見られるような王が民を統治しているという“封建主義“の社会でした。

これには当時”キリスト教“が世界で隆盛を誇るとともに、
そこに通じる”騎士道”の精神が、君主の為に仕える“封建主義“を支えたと言われています。

しかし、その肝心の“キリスト教”が、
カトリック“(旧派)と”プロテスタント“(新派)に分裂した“宗教改革”が起こると、
国や君主によって自分の信仰を選べない民衆の不満は溜まり、
次第にキリスト教の宗派を巡っての争いは絶えなくなり、
1618〜1648年には最後にして最大の宗教戦争である『30年戦争』が起こりました。

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▲三十年戦争 白山の戦い(Wikipediaより)


いかに人々の心が神を拠り所にしていたのかがうかがえますよね。
(多くの日本人が共感出来ない感性かもですが、理解する必要はあるのかなと思っています。)


その後、個人の”信仰の自由”が認められるようになり、
イギリスでは1688年の”名誉革命”では“議会政治”が起こり、
1760年代〜1830年代には”産業革命“で“技術革新”が起こります。

これにより、
市民が権利を求める・持つようになり、
また飛躍的に高まった生産力は、人とモノの流通を促し、
総じて人々の生活を豊かにしました。
(もちろん格差もあります。)

これが、
近代”の始まりでした。

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▲産業革命により生まれた蒸気船(Wikipediaより)


脱魔術化


そんな“近代化”が生み出した”資本主義”ですが、
この”資本主義”の目的は、“お金儲け”と言えます。
より良い商品やサービスを提供できる個人・企業の利益が“拡大”するのが特徴ですので。

産業革命”では、
生産方式が家内制手工業から工場制機械工業へと変革したことで、
前述したように生産力が飛躍的に高まったわけですが、
それを可能にしたのは、科学技術の発明と進歩でした。
今までにない知識が技術を生み、技術が知識を深め、
さらなる大量生産/販売を可能とする為に生産方法はどんどん“合理化”していきます。

このように、
知識、技術を基に“合理化“が進んだのが、
資本主義“の世界というわけでした。

このような流れについて、
マックスウェーバー”はこう記しています。

知性主義や合理主義が進展するといっても、ぼくたちがそのもとで暮らしている生活の条件についての知識が増大しているわけではありません。

知りたいとさえ思えばいつでも確かめることができるだろうということ。
したがって、秘密に満ちた、計算不可能な力など原理的に存在しない。
すべてのものを原理的に計算によって支配できるということ。

こうしたことを知っており、また信じている、というのが合理化が進展するということです。
これが意味するのは、世界の魔法が解ける(=『脱魔術化』)ということです。

(『職業としての学問』マックス・ウェーバー より(一部意訳))


どういうことかというと、
それまでは“未知”なものに対しては、
神頼み”をするしかなく、”呪術“に頼ってきたわけですが、
科学“による”技術”と”知識”によって、先の答え(予測)を示せると知ったことで、
科学”の方を信じることとなった“知性化“こそが“合理化”であり、
それを「魔法がとける」と表現したんですね。

言い得て妙ですね☺︎


面白いのは、
決して人間の知識が増大したわけでなく、
物事の仕組みは、
「計算ですべてが分かるだろう」と“信じる”先が転換したという点ですね。
ヒトが何を拠り所としているのかということですよね。

拠り所があるということは、裏を返せば、
「何かに支配されている。」
とも言えるのではないかと自分は感じる時があります。
科学だろうが、神だろうが盲信してる人とは議論が難しかったりしますもんね。
何事もバランスですね。


プロテスタンティズムと資本主義


さて、
そんな感じで”合理主義”や”知性主義”により『脱魔術』が起こったわけですが、
マックス・ウェーバー“は、
なぜ資本主義が発展したのかという部分において面白い考察をしています。

それは、
資本主義“の発展に寄与したのは、
脱魔術』(神秘<科学)を果たし、金銭欲や好奇心の強い商人たちではなく、
逆に信仰心に厚い“プロテスタント”たちの倫理観だったということです。

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▲宗教改革を起こしたルター(Wikipediaより)


当時、
キリスト教の新派である“プロテスタント”の方々には、
「人間は生まれた時に、既に神に救済されるかどうかが決まっている。」
という『予定説』が信じられていました。

もし、こんな説を言われたら、
「どうせ現世で何しても変わらないなら、信仰も善行もしないよ。」
となりそうなものですが、
実際には、
「全能の神に救われるように予め定められた人間は、禁欲的天職(神から与えられた仕事)を務めて成功する人間のはずである」
という思想となり、
自分こそ救済されるべき選ばれた人間であるという証しを得るために、禁欲的職業に励もうとしたそうです!

現世を生きやすくするより、来世に救済されることを強く望む宗教は多いですが、
本当にすごい信仰心ですね。


そうして、
禁欲的“に一生懸命仕事するので、
どんどん生産も増え、利益も増えていきます。
しかし、”プロテスタント”の皆さんは日常的には厳しい規律を守っているので、
贅沢することなく倹約生活を送り、
稼いだお金は、当然次の仕事に向けて使うわけですね。
これがいわゆる投資となるわけです。
そうすると、結果的にさらに合理化して生産は増え、さらに利益も増える。
この連鎖が、資本主義をさらに推し進めることになった。
と、”マックス・ウェーバー“は説いたのです。


そう、資本主義の興(おこ)りというのは、
実は”金”欲ではなく、“禁欲“であり、
脱魔術』といいつつ、誰よりも”“を信じていた人たちによって合理化は進められていたのでした。
すごいパラドックス(逆説、背理)ですね。


アメリカの発展と資本主義の変化


そんな信心深い”プロテスタント“たちによる勤勉精神と、倹約・投資による”資本主義”によって一気に成長したのが、アメリカでした。

アメリカは”中世”の時代にヨーロッパで発見された新大陸であり、
宗教改革“以後、”プロテスタント”信者が多く移民していきます。
その後、長らくはイギリス・フランスのヨーロッパの植民地だったわけでして、
そこから1775〜1783年の『独立戦争』、
1861年の『南北戦争』(前回も少し紹介しました。)を経て、
国としての統一感が高まっていき、
資本主義”による近代化により急激に発展していました。


しかし、
その発展の仕方は徐々にその様相を変えていきます。
1904年、アメリカの急激な発展を現地で目にした”マックス・ウェーバー“は、
アメリカの現状をこう表現しました。

今日では、禁欲の精神はこの『鉄の檻』から抜け出してしまった。
ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。
(中略)
天職義務」の思想はかつての宗教的信仰の亡霊として、われわれの生活の中を徘徊している。
(中略)
営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、
営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、
今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、
その結果、スポ-ツの性格をおびることさえ稀ではない。
(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックスウェーバー より)


やはり富を得てしまうと人間は変わってしまうのでしょうか。
はじめは勤勉質素であり、
そのために財産が増加していた”プロテスタント“たちでしたが、
財産が増えるにつれて次第に現世の欲望や生活の見栄も増えていきました。
また、合理化が進めば進むほど、強者が残り、弱者が淘汰される世界となり、
競争そのものが激化していきます。

このようにして、
来世での神の救済を求めた宗教倫理は、
次第に現世での享楽を求めたり、スポーツのように売り上げの勝ち負けを競うマネーゲームに熱中するなど、
功利主義にとって変わられたというわけですね。

宗教の形は残ったけれども、精神は次第に消えていったと言えるわけです。
どちらが良いとか単純に言うつもりはありませんが。


鉄の檻


ちなみに、
鉄の檻(おり)」という表現がありましたが、
これは”資本主義“の本質といえる”合理化“が、
社会の隅々にまでいきわたると、
どんどんと物事が“システム化“していくことを指しています。

そして、
そのシステムは一度出来上がってしまった以上、
人は生まれながらにしてその中に入り込むことになるし、
人にとっては事実上、その中で生きねばならぬ変革しがたい「鉄の檻」として与えられているもの。
と記されているのです。

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▲「鉄の檻」遊戯王カード ※今回とは無関係です。


組織や企業が発展する為に人が作ったシステムは、
合理的になればなるほど、人をシステムという檻の中に閉じ込め、
人が縛られている様を現しているわけですね。


封建主義の中世から、資本主義の近代となり、
市民“の時代となり、
万人平等“の精神が啓蒙されたにも関わらず、
結局、人は「鉄の檻」に入れられていくという…
これまたパラドックスだなぁと感じるわけです。

この「鉄の檻」にしろ「営利活動のスポーツ化」にしろ、
どちらも現代にまで続いている気がしますよね。
100年以上前からこの状況を予見していた”マックス・ウェーバー“の洞察力、すごいですね。


特に、現代はシステム化がいきすぎた結果、
そこに適応できない人たちが閉塞感を感じてしまっている気がします。
それこそ、「鉄の檻」ですよね。
でも、それって適応できない人がダメな人なんじゃなくて、
社会のシステムがそうなってしまったからなだけだという感覚持っていたいですね。
特に最近は、多様性・ダイバーシティが言われる時代ですし、
システムとっぱらった上で、
人を1人の人間として見ていきたいですね。

今はまさに変革期の可能性がありますね。
前述したように近代化というきっかけも、
非常に厳格化宗教規律から逆説的に生まれているとか、
歴史から鑑みてみると、
また新たな逆説が社会を変革させるのではないかなと考えるわけです。


マックス・ウェーバー“自身は1900年代初頭に、近代化の行く末について、こんな予見をしています。

こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」にとっては、
次の言葉が真理となるのではなかろうか。
精神のない専門人心情のない享楽人
この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう。」
(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ウェーバー より)


ようやく出ました!
本日のお言葉!笑

もうここまで読んでいる人も少ないと思います笑
でも、この言葉も少し考えてみましょう!


精神のない専門人、心情のない享楽人


一体何を予見していたのかと言うと、
資本主義”の精神が変わりつつあったということかと思います。
元々“資本主義“が産声を上げ始めた時は、
プロテスタント“たちは、宗教活動(信仰心)の為の仕事として、
自身の内面を充実させるために自分の仕事を天職(天から与えられた仕事)として勤勉に働いていたわけですが、
1904年、20世紀初頭のアメリカではその動機付けはもう失われていたわけです。


そうなると、どうなるか。

そもそも枯渇したモチベーションを「上げる」こと、つまり自己啓発が求められる。
内面があって外的な仕事がなされるのではなく、外的な仕事の要請に合わせて内面的なモチベーションがでっち上げられる。
(『マックス・ウェーバー 近代と格闘した思想家』野口雅浩より)


この一文が非常にわかりやすいかと思います。

ダンサーに例えてみるなら、
元々ただ音楽や踊りが好きで踊っていた人たちが純粋に努力していたからこそ、上手く、かっこよくなって、
その結果としてバトルやコンテストに勝ったりバックダンサーになったりしたはずなのに、
その世代の純粋さが時を経るごとに薄れて、
いつしかその動機やプロセスが失われて、
バトルやコンテストに勝つこと自体、バックダンサーになること自体が目的や動機になっていく人が増えていき、
新たに始める人にはもう最初から“結果”という外的要因が大きくなっており、
その為にはこうするべき!みたいなダンサー啓発まで起こっていく。
みたいな感じと同じですかね?

実際がどうかは分かりませんが、
僕はそれって時代によって当たり前な面もあるよなぁと思うんですよね。
初めて刺激受けたものが親代わりだったりするので。
だから、時代の変化に良い、悪いをつけるつもりはないんですが。
ただ、どんな分野でも初動の純粋な動機って言うのは世代を超えては続かないものなのかもしれないですね。
続かないというより純粋さが変わるというのか。
うまくいえませんが。

とにかく、
20世紀初頭の資本主義の社会ではそうした変化の中で、
仕事そのものに意義を見出しているのではなく、
仕事によって得られる対価の為に働くようになっていくわけです。
また、ゲームを楽しむようにお金を増やしていく為に仕事をする世界。
これを、『精神のない仕事人

そして、
得られた対価に対して、待ち受けているのはきらびやかな消費社会です。
富が富を生み、その富を贅を尽くして消費する。それを『心情のない享楽人
とそれぞれ表現したのでした。

マックス・ウェーバー“からしたら、
生の意味を喪失しているように見えたのでしょうね。
そんな人々を”無のもの“なのに”自惚れている“と痛烈に批判、そして不安視していました。


人が幸せになる為に、作り上がっていった「鉄の檻」(システム)に閉じ込められ、
没個人化していく人々たちがいて、
そのシステムの中で、人々の興味は仕事の中身より成果に移り、
成果を果たしたところで目的もないから、一時の欲望を満たす為、また消費し続ける。。


これまた現代にも当てはまる気もしますね。
好きでそうしている人はいいと思うんです。
それが目的であり、目標であるならば。
ですが、
そうしないといけない、そうじゃないと負け、そうするしか仕方ないetc..
そのように思っている人たちがいるならば、
まずは「鉄の檻」から出るべきではないかと、
主体性を、個性を取り戻そう、とそう思いますよね。

システムは今後どうなるのか?


社会とか大きな枠組みではなく、
もう少しミクロな視点で考えますと、
ミス“が許されない分野では、システム(合理性)が非常に大切になる部分もあります。

僕は医療者なので、どちらかと言うとミスが許されない部分が多分にあります。
それでも、
ヒューマンエラー”は必ず存在するので、
それをいかに減らすか、影響を小さくするかとすると、
やっぱりシステム化・ルール化するしかないんですよね。
そこに個性はいらないんです。


そこに関しては納得はできますが、
かと言って、すべてがマニュアル化されて、
結局、自分がいてもいなくても業務が変わらず回る。
となると、それはそれで寂しい感じもしちゃいますよね笑

やっぱり、
自分だから出来る仕事がしたいですし、
1人1人を尊重できる組織にしたいですよね。
人間性そのものまで「鉄の檻」に入れちゃいけないと思いますね。

その為に、
知識も技術も身につけていく必要がありますし、
組織として円滑にしていくにはシステムが必要でも、
そのシステムを構築するひとつひとつ、1人1人が輝くにはどうしたらいいか?
今の自分の課題ですね。
そんな組織や環境を作っていきたいですね。


先ほど、
今は変革期だと書きましたが、
実際にシステムを超えて強烈な天才リーダーが大企業を引っ張るカタチが世界的に増えてきていますよね。
GAFAやBATHとかそうですしね。
ただ、リーダー以外はさらにシステムに巻き込まれたり、
AIに代わられたり?
便利よりも幸せになりたいですね。


何にせよ、
どうなるかしっかり考えていきたいですし、
どんな時でも自由でいたいですよね!


というわけで、
まだまだ“マックス・ウェーバー”の発言で掘り下げたい言葉は多いのですが、
今回はこのへんで。

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▲妻マリアンヌとマックス・ウェーバー

またいつか余裕あれば他の発言も考察してみたいと思います。


ではでは。

【参考図書】
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー・著)

『マックス・ウェーバー 近代と格闘した思想家』(野口雅浩・著)

『職業としての学問』(マックス・ウェーバー・著)

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