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【映画考察】『落下の解剖学』が伝える”真実”と”事実”とは。

★★★★★【必見の傑作】
カンヌ国際映画祭にて最高賞パルム・ドールを獲得した本作は、サスペンス(ミステリー)の様式を借りて、家族、夫婦、あるいはあらゆる人間関係における”真実”と”事実”の断絶を描ききる傑作でした。「カンヌ好きそうだなぁ」というテーマと語り口でもあり、カンヌ映画の入り口としてオススメでもありました!

『落下の解剖学』(原題: Anatomy d'une chute)
監督: ジュスティーヌ・トリエ
出演:ザンドラ・ヒュラー, スワン・アルロー, ミロ・マシャド・グラネール
上映時間:152分
日本公開:2024年2月23日

▶︎あらすじ

これは事故か、自殺か、殺人かー。
人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。
はじめは事故と思われたが、
次第にベストセラー作家である
妻サンドラに殺人容疑が向けられる。
現場に居合わせたのは、
視覚障がいのある11歳の息子だけ。
証人や検事により、夫婦の秘密や嘘が暴露され、
登場人物の数だけ<真実>が現れるが──。

公式サイトより

以下、ネタバレを含みます。

▶︎3つの感想

1.これぞカンヌ映画だ!

シネマトゥデイ(YouTube)より

物語の概略をあらすじで引用したとおり、本作の基本的な理解としては、ある男性の転落死をめぐる調査と裁判で構成されるサスペンスである。「事故か、自殺か、殺人か」キャッチコピーの通り、観客はその逡巡を2時間半にわたって要求され続けている。

と、いうのも、この作品の巧みな脚本力のなせるワザだが、どうしたって”事実”が判然としない。人里離れた雪山の山荘が舞台となっていることも、いわゆる「密室ミステリー」を彷彿とさせるが、極めつけに唯一の目撃者が視覚障害者の息子のみという、どうしたってその瞬間の記録が残らない設計になっている。

なので、基本的に物語は「状況証拠」を積み上げていくことで進む。落下地点の血痕、夫婦の口喧嘩、夫の精神状況に関する診察。どれもが、事故とも自殺とも殺人とも取れる曖昧な”事実”で、それを語る証人によって”真実”が異なる。

観客の多くはおそらく、たとえ無意識的であるにせよ、誰かしらに少なからず感情移入し、あるいは味方となってこの作品を見るだろう。転落死した夫か、殺人を疑われる妻か、あるいはどちらにも批判的な傍観者か、その立場を問われ続ける。

なかなかに嫌などんよりとした鑑賞体験に、これこそが「カンヌ映画」だという印象を受ける。とりわけ終盤の夫婦の口論をどう受け止めるか、そこで「何が正しく」「どの考え方を支持するか」と問いかけられることは、明らかに観客にとってストレスフルな経験に違いない。だがしかし、それこそが傑作の所以か。

ダルデンヌ兄弟、ケン・ローチ、リューベン・オストルンド、など、カンヌの常連は決まって、普段は隠していたいような心の影を抉り出し不条理な現実に曝す。そして観客に問いかける。「君たちはどう生きるか」と。そんな傑作の一つに、この作品は並べられるだろう。

2.現代版の”藪の中”

Les Films Pelléas(YouTube)より

前述のとおり、この映画は「ある転落死と、その裁判」の物語であり、この構成は瞬時に日本映画の傑作『羅生門』(黒澤明)とその原作『藪の中』(芥川龍之介)を彷彿とさせる。そのときあらためて、これらの「やぶのなか方式」と呼ばれる叙述法、「羅生門効果」と呼ばれる”事実”と”真実”をめぐる発明の素晴らしさに驚かざるを得ない。

『落下の解剖学』はこうした”藪の中”を現代版に甦らせた作品と考えることもできるだろう。証言台に立つ証人はそれぞれ、検察側か弁護側か、夫側か妻側か、の目線で”真実”を語り、それは完全に食い違っている。三船敏郎と、森雅之と、京マチ子の演じたキャラクターを思い出す。

そんな比較の中でこそ、僕はこの作品が本当に面白いと思うようになった。それは2つの理由からだ。

1つは”事実“の不確かさである。『羅生門』のなかで提出される証拠はほぼ全て「証言」によっている。各々の立場からの証言だけを拠り所として論を展開するので、食い違うのも仕方がないような気もするし、そもそも”事実“の提示がないのだから、そこには”真実“のみしか露見し得ない。が、本作は違う。

落下現場に残る「血痕」をめぐる科学的な検証、精神科医による通院の記録(本来その事実自体は記録として残っているはず)、そしてなにより録音された会話という、完全にマテリアルな物証が提示されている。にもかかわらず、そこに存在しているはずの”事実“が、どうしたって食い違う。見る人、語る人、聞く人、によって、現代における絶対的な存在とも思える「記録」が「記憶」へと転換されてしまうのだ。

ああ恐ろしい。もはや現代において”事実“などというものが存在していないことの証左ではないか。そこで、2つ目の理由が立ち現れてくる。それは、結末がハッキリしないということだ。『羅生門』では、杣売りという客観的な視点で語られたことが”事実“として取り扱われ、それを持って真相の解明、一応の解決をみる。つまり、そこでは「客観的な事実」というものが信じて疑われておらず、それが現前に示されることで、観客はある種の安心感を覚える。

※あるいは、その「信じて疑われない客観的な事実」ということをも含むメタ構造を芥川や黒澤が仕掛けていた可能性は十二分にあるが。

一方で、『落下の解剖学』では、ついに「客観的な事実」などというものは提示されない。観客がどう見るか、観客がどう折り合いをつけるか、そしてそれもまた「主観的な真実」でしかないということへとたどり着く。静謐でありながらあまりに不穏なラストカットの美しさは言葉にならない。

3.私たちはなにを信じるか。

シネマトゥデイ(YouTube)より

つまり、この映画は「私たちはなにを信じるか」ということをめぐる問いかけではないだろうか。そして、その問いかけに自覚的であれ、”真実“を”事実“だと思い込んでもいけないし、”事実“は”真実“に勝ると信じられる時代も終わったということではないか。

男性弁護士がサンドラにかける「問題は君が人の目にどう映るかだ」という言葉。これが最も端的にこの作品を言い表しているように思う。今の時代に、「君がどうか」という主体的な存在としての人間はもはやなく、「君がどう思われるか」という客体的な存在としてしか人間は同定できないのではないか。少なくとも、社会的な生活を送る中では、そうだと思える瞬間が少なくないのではないか。

テレビや新聞などの公共メディアが「フェイク」「偏向報道」と罵られ、SNSで拡散される真偽不明の情報こそが信じられる時代。トランプ大統領の再選が間近に迫るなかで再び議論にあがる「陰謀論」や、テイラー・スウィフトをはじめとする大スターを信仰する「ファンダム」の関係にも、近いものを感じなくはない。

私たちはなにを信じるのか。
現代社会は、今まで以上にそのことを問いかけられる時代なのかもしれない。

そう考えさせられる紛れもない傑作でした。


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