鵜林伸也の読書遍歴⑥生まれて初めての投稿

 読書遍歴、と題しながら、この章では少々脱線して、大学時代の創作のこと、賞への投稿のことなどを書いていきたいと思います。
 先述の通り、生まれて初めて小説を書いたのは、高校三年生の終わりごろでした。その最初の創作こそ学園ミステリ風であったものの、純文学にかぶれたようなものや、恋愛もの、(第一章だけ書いて完結させられなかったものの)ファンタジーなど、節操なくあれこれ書き散らしていました。このころ書いた作品は、ある意味、処女作『ミキ』よりさらに恥ずかしい。背伸びをしているさまが、大変ダサい。まあ、誰でも通る道と言ってしまえばそうなのかもしれませんが。
 それが変わったきっかけは、前回触れたとおり、有栖川有栖をはじめとした新本格と出会ったことでした。自分もこういうものを書いてみたい、いや、こういう「本格ミステリ」こそ、自分に合う創作なのではないか、と。
 ここでさらに話は逸れますが、僕は当時、大学の天文部に属していました。関西にはKSSNと言って関西の大学の天文部の交流組織がある(現在でも活動が続いているそうです)のですが、そこで知り合った知人が、伊丹市立こども文化科学館というプラネタリウム施設で、学生たち中心にプラネタリウムの自主制作をしていました。実際にその番組を見てみるととてもおもしろく、自分も参加することにしました。
 そこで、僕が書いたシナリオが『星降る夜にミステリー』という、モロに有栖川有栖の『月光ゲーム』に影響を受けた(なにせ主人公の名前が、長谷川アリスですから)フーダニットミステリだったのです。この作品が、生まれて初めて書いた本格ミステリでした。
 ペルセウス座流星群をネタとした他愛のないミステリでしたが、周りからの評判は上々でした。それに気をよくした僕は、よし、当面本格ミステリを書いていくか、と心に決めたのです。

 そのころ、楽しく創作を続けていく中で、僕の心の中に二つの感情が芽生え始めていました。
「一度でいいから長編を書いてみたい」
「一度でいいから賞に投稿してみたい」
 先述のように、プロ作家になりたくて始めた創作ではありません。しかし、やっていくうちに、腕試しをしたくなったのです。また、それまでは長くても一五〇枚程度のものしか書いていませんでした。自分が長編を書いたらどうなるのか、一度やってみたいと考えたのです。
 そうして、大学三回生の夏、夏休みを丸々使って書き上げたのが『ビリーバー』という長編でした。風変わりな宗教施設で起こる連続殺人事件というありふれたミステリですが、密室あり、足跡トリックありという凝った内容で、それまで書いた中ではもっとも手応えがありました。
 よし、この作品を賞に投稿しよう。しかし僕は、あろうことかそのガチガチの新本格作品を、江戸川乱歩賞に投稿してしまうのです。有栖川有栖も過去に投稿していたから、というのが一番の理由ですが、今から思えば無謀な行動に出たものです。
 そこで僕は、新本格への耽溺と並行して、研究として過去の江戸川乱歩賞作品を読んでみることにしました。手掛かりとしたのは関口苑生『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』です。藤原伊織『テロリストのパラソル』、桐野夏生『顔に降りかかる雨』、東野圭吾『放課後』などは、このときに出会った本です。しかし、一番に取り上げるべきは岡嶋二人でしょう。
 『焦茶色のパステル』で江戸川乱歩賞を受賞した岡嶋二人ですが、『江戸川乱歩賞と日本のミステリー』には、その前年『あした天気にしておくれ』が最終候補に残った際の顛末も書かれています。また、共作作家であり、江戸川乱歩賞をとると決めて傾向と対策を練り、実際に受賞したことでも有名です。
 これは参考になるなあ、と思い手を伸ばしたのが、岡嶋二人解散後、井上夢人が岡嶋二人の結成から解散までを振り返って書いた『おかしな二人 岡嶋二人盛衰記』です。これがもう、めちゃくちゃにおもしろかった。いえ、もちろん参考にもなったんですが(現代の小説家志望の方も読むべき、と思います)それ以上に、夢を持ってのし上がり、夢を叶えたものの疲弊して、離れ離れになってしまうという、作家の半生を描いたドラマとして、大変おもしろかった。大沢在昌の解説の「これは相方へのラブレターである」という指摘は、言い得て妙。忘れられない一冊です。
 小説で言うならやはり『クラインの壷』が一番に挙がります。結末は見え見えであるにも関わらず、そこへ連れて行くまでのストーリーテリングの見事なこと。あんなにおもしろい読書はそうあるものではありません。『99%の誘拐』は、岡嶋二人らしい作品の最高傑作でしょうし、『そして扉は閉ざされた』は、本格ミステリとして高く評価されるべき作品でしょう。
 岡嶋二人のストーリーの転がし方の「計算されつくした上手さ」は、僕の作家人生に大きな影響を与えました。
 いつか、ああいうおもしろい小説を書いてみたい。そう思わせる作家の一人です。

 話を戻しましょう。そういうように傾向と対策を研究したにもかかわらず、僕はまったく日和ることなく、ゴリゴリの新本格風の作品を、翌年1月31日締切の江戸川乱歩賞に投稿します。
 結果はもちろん、スカ。一次選考にも残りませんでした。
 普通なら、それで諦めるものです。だって「一度でいいから投稿してみたい」と書き上げた作品であるはずなのですから。
 しかし、そのとき僕の心にあったのは、正反対の感情でした。
「意外と、いけるんじゃないか。この調子でおもしろい本格ミステリを書き続けられるんじゃないか」
 江戸川乱歩賞に落ちたのは、傾向があまりにちがいすぎたからだろう、と考えました(それはそれでまちがいではありませんが)。賞の傾向さえ合っていれば、いいところまで行くかもしれない。
 そうして選んだのが、鮎川哲也賞でした。僕は、『ビリーバー』を大幅改稿のうえ(といっても、今から思うとたいして変わっていませんが)10月31日締切の鮎川哲也賞に投稿します。ひとつ断っておきますが、応募作の使い回しは推奨しません。そのことは、当時の僕も分かっていました。しかしそれでも、自分が初めて書いた長編本格ミステリのことが、諦め切れなかった。
 結果として、その投稿が――これは大袈裟でもなんでもなく事実として――その後の僕の運命を大きく変えることとなったのです。
 鮎川哲也賞にて、『ビリーバー』は一次選考を通過しました。最終選考には残りませんでしたが、その結果に僕は、手応えを得たのです。初めて書いた作品でここまで残れたのだから、続ければきっと物になる、と。
 そうして僕は、プロ作家を目指すこととしました。それが、夢に向かって進む希望に溢れた道か、まやかしの光を希望と信じているだけの泥濘にまみれた道かは、別として。

 さて、このころもうひとつ、僕の生活に大きな変化がありました。それは、大学生協でノートパソコンを買ったことです。
 当時の大学生は、大学でパソコンの授業はあっても、自分でパソコンを持っている率は低かった。僕は、父親から譲り受けたWindous95を持っていて、それで執筆をしていました。それがノートパソコンに変わったことで、どんな変化があったのか。
 それは、自宅からインターネットに繋ぐ環境が整ったこと、でした。
 というわけで僕は、投稿を続ける傍ら、その修行の場として、インターネットに作品を発表していくこととなるのです――という話は、また次回。


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