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さよならあかね(sky_highest)2020 かってに50首(冬木ゆふ選)

(タイトルは敬称を略しています。)
(タイトルに「かってに」と付けていますが、本人の許可は得ております)

さよならあかねさんは主にツイッターで短歌をやっている方であり、note上でも、「あかねの(ための)一首評」であったり、「短歌レーティングバトル」であったり、短歌に関して色々面白いことをなさっている方である。

私はさよならあかねさんが色々考えていたり、色々試んでいたりする様子を見るのが好きだが、一方でさよならあかねさん自身の短歌にはあんまり向き合ってこなかったので、さよならあかねさんが2020年に発表した(と思しき)短歌から、勝手に50首選んでみることにした。最後の一首を除いて出典はさよならあかねさんのTwitterアカウントである。

まず、50首を先んじて提示する。続いて、感想として、50首に私の感想を付していく。(向き合うことを目的としているので、言葉にする必要がある。)さよならあかねさんの短歌を純粋に読む(見る)のが目的で、私の感想を見たくない方は、前半のみ読んでください。
また、最後に、中でも私が気に入っている5首を提示する。

また、私自身は短歌について不勉強な人間であり、感想のみならず、選定そのものも良い水準のものとは呼べないと思う。
更に、さよならあかねさんは「理解されることを拒む」といったキーワードを口にすることがあるし、実際そういう部分についての言及も受けている。一方で、私は理解できそうな短歌を選んでしまいがちだと思う。そう考えたとき、私はさよならあかねさんの短歌を50首選ぶにふさわしい人間では多分ない。

50首を提示する順番は、私が選んだ順番であり必ずしも発表順とは限らないが、これはツイログの表示の仕様にも依存している。


水銀灯 星の墓場は無風にてただ影のみがわずかに揺れる

はんぶんこプリンの甘いほうを君にプリンの苦いほうを僕に

ツベルクリン反応上昇する気球腫れ物にさわるように太陽

とめどなく虚言こつみつどより軽く雪印メグミルクのトクホ

楡の木が散開 地上絵のごとく空から見れば初恋だった

にせものの人形劇として人生(降りしきる雪の中で幕劇)

結婚をあきらめた日のカルピスがうんと薄くてぼくは疲れた

あの人は枯れ葉を見てる包帯の奥に脈づく春の気配を

頭痛とは星の数だけ悩むこと きらきらひかるおそらのほしよ

殉教者鈴カステラの名の下にあまいにおいの記憶を焼いて

ボンベからきみが好きだのときの空気流れ込んでぼくは沈んだね

ふんわりとふたりの恋は着地するじゃあこの星は二足歩行で

下の句をひとつ選んで恋をせよ
a)明くる日藍の朝顔に飽く
b)美少女、微笑、美人薄命
c)せんせいせいかいはしーですか
d)デシリットルの大好きでした

ぼくたちは希望と書いてうららかと読む春の日の不良債権

麦わらを編むのは機械麦わらを解くのは夏、機械仕掛けの

なくしてもいい螺子だけを集めたらなくしてもいい世界ができた

ハッピーがエンドに変わる生きていてよかったのです死んじゃうけれど

「好きですをカギカッコの外に出すきみに聞こえないように」好きです

無知なのでボトルシップをつくるための海が足りない(泣けばいいのに)

ポリゴンが少しバグって積乱雲ぼくは泣いてるわけじゃないんだ

伝書鳩いまから話すすべてのことを空の彼方になくしたいのだ

太陽はまだあるらしい退化した目には優美な深海魚だな

語り継ぐ人がいなくて外宇宙円周率は数え終わった

ア/ロット/オブ/鳥になりたい小説の言葉は飛んでゆくには重い

ぼくたちをアウフヘーベンする雨に傘を投げ捨てて 走り出す

欲しがれば星は無限のひかりだな断頭台は手をこまねいて

にごり酒(ほんとは見る人のこころ反映してるなんて言えない)

平凡な家庭に育つ可能性ごろごろ野菜の満足カレー

時計塔ふたりのそらはえいえんにあかいけいとできりさかれるの

カルネアデス嗚呼生きることは奪うことまづひとつぶの角砂糖から

まほうつかいなのでレジから2万円消せるし2日くらいは逃げる

八重桜たくさんあったお守りもこの一撃でお仕舞いになる

三月は廃止されました永遠に卒業式を待つ冬桜

鯨幕きみがいなけりゃ色のない世界なんだよ空気読め空

プシュケーをガチャ果てるまで引く人のエポケーとして光るガラケー

着拒されごめんできない夜もあるサフランライスすごくきいろい

髪の毛が月に届くほど伸びるならかぐや姫さま帰ってこれる

わたしたち生き残ったらガラクタになる地球で最後のがらくた

カフェオレがカフェ・オ・レになる放課後があったんだろうメープ・ル・シロップ

無線LANえっちするときだって飛ぶ暗号鍵の因数分解

ほしぞらにモールス信号飛ばしましょ💥💥💥🚀🚀🚀💥💥💥

囲われた世界で壊れたぼくたちの16bit HAPPY END

颯爽と消えたつもりのかたつむり拍手喝采まだ鳴り止まず

人生が題詠『愛』の人ですか?『悲哀』のぼくと連歌しますか?

電池だよ 目覚まし時計が鳴らない理由探してたでしょ眠り姫さん

著作権フリーの空をコピーしてペーストしない 膝を擦りむく

ほろびゆく(夕焼けにプラスドライバー/朝焼けにマイナスドライバー)

恋しぐれ 最接近の木星と土星の0.1°の齟齬が

眼球の外にも華があることのヴァイオレットはすみれの総称

あとはもう繰り返される文字列の三十一時あさがくるのだ


感想

注意:たくさん感想があればあるほど良いと思っているとは限らず、良いと思っているけど感想が書けないということはよくあること。

水銀灯 星の墓場は無風にてただ影のみがわずかに揺れる
かっこいいと思った。
星の墓場というのはなんなのか。星がない夜空がそれなのか。はたまた自然の光に対する人工の光である水銀灯がそれなのか。よくわからない。
星に宇宙を連想する。宇宙にも太陽風というものがあって、地上にある風と同じかはともかくとして無風ではない。だけど、宇宙が無風というイメージはあって、その無風のイメージと水銀灯の影が揺れるイメージが連想としてきれいにつながっていると思う。
よくわからない部分もあるけど、イメージの繋がりはわかるし、かっこいいと感じることができる。

はんぶんこプリンの甘いほうを君にプリンの苦いほうを僕に
苦いほうがカラメルだとすれば、明らかにはんぶんこにはならない。
そういうツッコミどころも用意されているけど、結局これはプリンというものを短歌としてあらわす上でそうしているだけで、全体としては「僕」とか「君」ではなくプリンの歌なんじゃないかと思った。

ツベルクリン反応上昇する気球腫れ物にさわるように太陽
「腫れ物にさわるように太陽」がいい。
腫れ物どころの騒ぎではないはずなのに、一応さわれるものであるかのように扱っているのが面白い。
「ツベルクリン反応」自体の語感のよさ、「上昇する気球」の音の組み合わせのよさは言うまでもなく。

とめどなく虚言こつみつどより軽く雪印メグミルクのトクホ
「こつみつど」をひらがなにすると「とめどなく」になんとなく似ているという話だと思う。
(どのように似ているのか。「と」と「つ」は形が似ていて、それが二回ずつ出てくる。「ど」がある。「み」と「め」、「く」と「こ」は音が近い。)

楡の木が散開 地上絵のごとく空から見れば初恋だった
楡の木が散開した様子を空から見ても人間が言うような「初恋」にはならない。地上絵のごとく、ということは、そのような図形になっていた可能性もあるが、「恋」と「初恋」は地上絵のような解像度の絵で区別できるだろうか。
でも、見たこともない地上絵や図形を「初恋」と名付けてみたら、案外しっくりくるということはあるかもしれない。そういうことかもしれない。

にせものの人形劇として人生(降りしきる雪の中で幕劇)
人間を模したもの(人形)の偽物が人間。
作中作が作中現実を侵食するミステリ小説を読んだことがあるけど、そういう構造の内側にあるものが構造の外側を侵食する味わいがある。

結婚をあきらめた日のカルピスがうんと薄くてぼくは疲れた
結婚をあきらめた日になんとなく飲んだカルピスが、それを象徴するかのように感じ取れて、そのことが印象に残っている。なんとなく現実にありそうな話、あってもよさそうは話、共感しやすそうな話だ。
「うんと」は「うんとたくさん」に比べて「うんと少ない」がちょっと引っかかり、「うんと大きい」に比べて「うんと小さい」がちょっと変だ。そういう意味で「うんと」はむしろ数字が大きい方向に相性が良さそうな副詞だが、ここでは「薄い」と共起している。これは、「う」という音を起点にした繋がりでもあり、また「うんと疲れた」を連想させる「疲れた」の前フリとして「うんと」が出現している面もある。「カルピスの味」と「ぼくが疲れた様子」をつなげる要素として、「うんと薄くて」が効果的なのではないかと思う。

あの人は枯れ葉を見てる包帯の奥に脈づく春の気配を
枯れ木は怪我をしているというよりは老いているとか病んでいると考えた方がしっくりくる気もするけれど、枯れ葉を包帯と見立てて、「包帯の奥に脈づく春の気配」と言われるとなんとなく納得してしまう。脈拍(鼓動?)を導入するための包帯なのかもしれない。

頭痛とは星の数だけ悩むこと きらきらひかるおそらのほしよ
「星の数」を嫌なイメージで引っ張ってきて、その上で「きらきら」「おそらのほし」という(絵本のようにかわいらしいイメージの)きらきらぼしの歌詞に嫌なイメージを重ねている。

殉教者鈴カステラの名の下にあまいにおいの記憶を焼いて
言われてみれば、カステラとキリストは日本語では子音が似ている。
「鈴カステラの名の下に」と仰々しく言って何がくるのかと思えば、「あまいにおい」がくる。それはそうだと思う。

ボンベからきみが好きだのときの空気流れ込んでぼくは沈んだね
「きみが好きだのときの空気」、「『きみが好きだ』のとき」のようにカッコをつけてノにつなげるのではなく、区切らずに「きみが好きだのとき」としているのがいい。「きみが好きだ」という直球で(あるいはつたない)表現と「きみが好きだのとき」という文構成の舌ったらずな面が噛み合っている。

ふんわりとふたりの恋は着地するじゃあこの星は二足歩行で
「ふんわり」「ふたり」という響きが似たものを「着地」によって回収して、恋愛の着地と月面歩行のような重力の小さい着地のイメージに発展させているのが面白い。

下の句をひとつ選んで恋をせよ
a)明くる日藍の朝顔に飽く
b)美少女、微笑、美人薄命
c)せんせいせいかいはしーですか
d)デシリットルの大好きでした
Twitterの投票機能を利用した短歌。実際には(d)が勝っていた。
a,b,c,dに音を合わせた下の句となっている。

ぼくたちは希望と書いてうららかと読む春の日の不良債権
「希望」とか「うららか」とか言っておきながら、不良債権で締めるというギャップが骨子になっているが、にもかかわらず春が強すぎて不良債権も全然爽やかな感じで聞き流せてしまう。そこが面白い。

麦わらを編むのは機械麦わらを解くのは夏、機械仕掛けの
機会が麦わらを編むのは、普段意識はされなくても現代において普通にあることだろう。そして、「麦わらを解くのは夏」というのも、(普通かどうかはわからないが、)詩的な表現としては割とすんなり納得ができる気がする。夏は麦わらのイメージが帰っていく場所ではある。
一方で、夏が機械仕掛けというと、一気に不条理になっていくが、「編むのが機械であるならば解くのも機械である」とすれば左右対称になり、美しい構造ではある。
つまり、この歌は「意識はされないが普通の事実」、「普遍的にありそうなイメージ」、「左右対称の構造」という着実なステップを踏みことによって「機械仕掛けの夏」という一見不条理な文字列を召喚している。

なくしてもいい螺子だけを集めたらなくしてもいい世界ができた
理屈や筋は通っている。でも、なくしてもいい螺子だけを集めて世界をつくる過程において、もはやその世界はなくしてもいいものではなくなっているんじゃないか。そんな気持ちになる。

ハッピーがエンドに変わる生きていてよかったのです死んじゃうけれど
ハッピーエンドを解体することで、ハッピーエンドを「ハッピー(しあわせな時間)のエンド(終了)」と解釈している。物語の終わりは死ではないように、人も物語が終わるように人生を終えることはできないのかもしれない。
(人の短歌に対して雑に人生論めいたことを書いて終わらせるのはよくない)

「好きですをカギカッコの外に出すきみに聞こえないように」好きです
「好きです」も「きみに聞こえないように」もカギカッコの中に入ってしまっているのが明らかにツッコミ待ちに見えるのに、カギカッコの外にある「好きです」を見るとなんとなくいい感じに思えてしまう。

無知なのでボトルシップをつくるための海が足りない(泣けばいいのに)
「(泣けばいいのに)」、当然のことのように謎の提案をしている。ボトルシップをつくるために必要な海は感性の海なのだ、というような解釈もできる。そういう解釈をすれば「泣けばいい」というのも感性の海を得るための行為として解釈できる。しかし、そういう解釈をする必要があるかはわからない。
いや、ボトルシップをつくるために必要な海は感性の海なのだという解釈をした上で、「(泣けばいいのに)」は感性の海を導くための涙というわけではなく、単なるオチと捉えるくらいがちょうどいいかもしれない。

ポリゴンが少しバグって積乱雲ぼくは泣いてるわけじゃないんだ
現実の景色をバーチャルな景色のように解釈する表現なのかなと思って最後までたどり着くと、景色そのものではなく「ぼく」の涙でにじんだ視界の話なのかという感じになる。

伝書鳩いまから話すすべてのことを空の彼方になくしたいのだ
なくしたいはずなのに伝書鳩に話すのは、不合理な行動にも見える。
隠し事について「墓場まで持って行く」という言葉があるが、その場合、隠し事と一緒に埋葬される感じがある。解放感はない。
一方、伝書鳩に話すのであれば、それは本人の元から去っていくような気がする。誰かに伝えるわけでもなく伝書鳩に話すという行為は、届かないものに投げかける行為に似ている。まさしく空の彼方に託す行為なんじゃないか。

太陽はまだあるらしい退化した目には優美な深海魚だな
スケール感が良い。そのくらいの規模で生きている長老という意味では、深海魚というかシーラカンスを連想する。

語り継ぐ人がいなくて外宇宙円周率は数え終わった
「語り継ぐ人がいなくて外宇宙」に放り投げられた気持ちになる。
人類の営みというのはなんとなく尊ばれるけど、地球が終わったり太陽が終わったりするときを想定されているような印象もなく、その後も人類が続いていく目星が立っているのかは怪しい。
「さよならあかね」でツイート検索すると、名歌・秀歌botというbotが以下のような歌を何度も繰り返しているものが検索にひっかかる。

こういうものを見ると、「人間がいなくなった荒野でツイートを続けるbot」のような古びたSFにありそうな情景を思い浮かべてしまう。実際には人間よりロボットの方が寿命が短い、なんて話もあるけど。
語り継ぐべきものがこの世にあるのかはよくわからないが、私は自分が良いと感じた色々なものについて、100年後に誰も語っていないであろうことが悲しいと思ったりもする。(100年後ともなると、ドラゴンボールや鬼滅の刃の話をしている人だってきっと少ないだろう)だから、私の文章に意味があるかはわからないが、反応を残すことで「それに対して反応があった」という事実をつくっていきたいという気持ちがある。
Twitterもnoteもいつ終わるかわからないサービス群なのですが。

ア/ロット/オブ/鳥になりたい小説の言葉は飛んでゆくには重い
小説の言葉は多すぎて重いらしい。では、短歌なら鳥になって飛んでいけるのだろうか。小説よりは短歌の方が、口伝えで語り継がれやすいものだろう。短歌が伝聞や口頭で伝わっていく様は、鳥が空を飛ぶように軽やかであるかもしれない。
しかし、人間を媒介して飛んでゆく短歌は、人間の記憶から記憶へ飛ぶ渡り鳥になる必要がある。覚えられるか、伝えられるか。短歌であっても、鳥になるのは難しいように思う。でも鳥になり得る余地があるのは、どちらかといえば短歌であるというのも確かだ。

ぼくたちをアウフヘーベンする雨に傘を投げ捨てて 走り出す
雨の中は、全部が全部ぐちゃぐちゃで混ざり合うようなイメージがあり、アウフヘーベンはそういう意味で解釈した。

欲しがれば星は無限のひかりだな断頭台は手をこまねいて
手をこまねく、わかっていても「招く」と混同してしまうところがあって、一瞬招いているのかと思ってしまう。(それは短歌の話ではないのではないか)
「欲しがれば星は無限のひかり」、信じるものは救われるみたいな話だろうか。夜空を見上げないと、星の光に気づくことはできない。

にごり酒(ほんとは見る人のこころ反映してるなんて言えない)
水見式を思い出す。別に水見式は見る人のこころを反映しているわけではないけど。
見る人のこころを反映している酒があったとして、ほとんどの人は濁っているだろうから、あんまり問題はないだろうと思う。問題なのは、透明だったときだ。

平凡な家庭に育つ可能性ごろごろ野菜の満足カレー
「平凡」は必ずしも褒め言葉ではないけれど、「ごろごろ野菜の満足カレー」と共に提示される「平凡な家庭」にはかなり肯定的意味合いを感じる。
ただし、「可能性」という言葉は不穏だ。裕福な家庭と比して平凡な家庭を描いているのか、貧しい家庭と比して平凡な家庭を描いているのか。平凡な家庭で育ちたかったという憧れなのか。
そんな不穏さもにじませつつ、「ごろごろ野菜の満足カレー」に騙されて平和な印象が残る歌だと思った。

時計塔ふたりのそらはえいえんにあかいけいとできりさかれるの
「とけいとう」と「けいと」。
毛糸が二人の空を切り裂くというのはどういうことだろう。深く考えなくてもいいか。

カルネアデス嗚呼生きることは奪うことまづひとつぶの角砂糖から
カルネアデスの板。ストレートな歌だと思う。
生きることは奪うこと、カルネアデスの板はまさに生死を争って板を奪い合うことになるが、何気なく食べているもの、何気なく使っているものの裏に経済的なパワーバランスを利用した搾取が存在していることはあり得る。

まほうつかいなのでレジから2万円消せるし2日くらいは逃げる
魔法使いなのにやっていることがコソドロ。なんかこういう歌について感想を書こうとするとギャグに対する無粋な解説みたいになってしまうような気がする。この感想すべてがそうなのかもしれないけど。

八重桜たくさんあったお守りもこの一撃でお仕舞いになる
バトル短歌だと思った。式神とかが出てくる霊力バトル。
八重桜は八連撃の必殺技で、お守りを切らした側は絶体絶命。この歌の次の瞬間が戦いの幕引きとなる。

三月は廃止されました永遠に卒業式を待つ冬桜
(勝手に)コロナ禍を感じる歌だった。
卒業式が廃止になるのではなく、三月が廃止になるところが面白い。だからいつも通りに咲いているはずの桜が冬桜になってしまう。

鯨幕きみがいなけりゃ色のない世界なんだよ空気読め空
鯨幕を使って、白黒であることと君がいないことを重ねてイメージをつくる。その上で、「空気読め空」と空が灰色ではないことを導入する。
見立てを提示して、その見立てが簡単に破綻する構成に、人が死んでも粛々と日常が続いていくこの世の有様を感じる。

プシュケーをガチャ果てるまで引く人のエポケーとして光るガラケー
ガチャが果てるのはゲームのガチャじゃないな、ということを思ったけど、「ガチャ果てる(動詞):ガチャでお金を使い果たすこと」みたいな意味という路線もある。プシュケーがよくわかっていないけど、命ということなら、命が果てるまでガチャを引くということだ。それは人生だ。
(人の短歌に対して雑に人生論めいたことを書いて終わらせるのはよくない)
プシュケー、エポケーに対して、ガラケーが来るのがオチみたいなものだ。今ではスマホゲーなんて言われたりもするけど、ガチャはガラケーのときからあったことを思い返す。

着拒されごめんできない夜もあるサフランライスすごくきいろい
理解できないことが詩であると言うなら、前半に対して後半で唐突に別の話を始めると詩になるのだろうか。
この歌に関しては、理解できると思う。「着拒されごめんできない夜」には、何気ないことが頭に残ったりする。その意味で、この歌においては唐突さが必ずしも唐突ではない。前述の「結婚を諦めた日のカルピス」がやけに印象に残る、というのにも似ている。

髪の毛が月に届くほど伸びるならかぐや姫さま帰ってこれる
軌道エレベーターだと思った。

わたしたち生き残ったらガラクタになる地球で最後のがらくた
たぶん生き残るからこそガラクタになるんだと思う。
人は当然のように自分たちにとって使いものにならないものをがらくたと捉えるが、地球の人類がごく少人数の「わたしたち」であれば、それはもう「わたしたち」が地球によってがらくたと判定される側にまわる。

カフェオレがカフェ・オ・レになる放課後があったんだろうメープ・ル・シロップ
別に、誰かがカフェオレをカ・フェ・オレに分割したわけではない。でもこの歌はそういう(わざと)誤った分析を経てメープルシロップをメープ・ル・シロップと分割する。
突然だが、エプロン(apron)は元々napronであり、a napronがan apronであると誤って分析されたために形成された言葉だとされている。これは言語学において異分析(metanalysis)と呼ばれる現象だ。
メープ・ル・シロップとわざと区切って見せるのは、この異分析にすこし近い面がある。言葉に対するハッキングを感じて面白い。

無線LANえっちするときだって飛ぶ暗号鍵の因数分解
性って生であり生活の間抜けさを感じると嬉しいところがある。これは別に間抜けではないんだけど、「一方そのころ」感がいい。

ほしぞらにモールス信号飛ばしましょ💥💥💥🚀🚀🚀💥💥💥
どうやって読むのかわからない。トン・トン・トン・ツー・ツー・ツー・トン・トン・トンで良いんだろうか。
突拍子もなく規模を大きくすると面白いというところがある。

囲われた世界で壊れたぼくたちの16bit HAPPY END
西尾維新の「きみとぼくの壊れた世界」「不気味で素朴な囲われた世界」、sasakure.UKの「ぼくらの16bit戦争」を思い出した。
16bitが電子ゲームを想起させる要素であるなら、囲われた世界とはそういうことだろう。このHAPPY ENDは多分「ハッピーがエンドに変わる」が意味するハッピーエンドとは異なる。囲われた世界では、続いていくハッピーエンドが成立する。

颯爽と消えたつもりのかたつむり拍手喝采まだ鳴り止まず
音がいい。「さっそー」と「かっさい」、「つもり」の「かたつむり」。
内容も。かたつむりはおそらく颯爽と消えることができない。でも(だから、)拍手喝采は続く。

人生が題詠『愛』の人ですか?『悲哀』のぼくと連歌しますか?
「絡んでくるなよ……」という感じがちょっとある。でも人生が題詠『愛』の人は愛をもって接するのかもしれない。
人生に題詠『愛』とか『悲哀』が設定されているのが好き。何故なら「空の境界」(というかTYPE-MOON)の「起源」に関する設定とか好きだったから……。

電池だよ 目覚まし時計が鳴らない理由探してたでしょ眠り姫さん
まず、「電池だよ」を隠してみよう。「目覚まし時計が鳴らない理由」、意味深に見えてこないだろうか。加えて「眠り姫さん」と続く。詩的に見えてこないだろうか。
「電池だよ」がなければ、「目覚まし時計が鳴らない理由」の意味深さは「眠り姫さん」のファンタジー感とセットになって、思わせぶりに機能するはずだ。「眠り姫さん」が起きたくないから目覚まし時計が鳴らないのかもしれないし、目覚まし時計が「眠り姫さん」の寝顔を眺めていたいのかもしれない。現実でなければ、ファンタジーであれば、そういうことがあってもいい。
でもこの歌は、そういう可能性を排除するところから始まる。「電池だよ」と現実を突きつけるところから始まる。そのくせ「眠り姫さん」とファンタジーの語彙で呼びかける。
ミステリーで、犯人をホラーのように演出することがある。民話や怪人になぞらえたりする。でも、最後に謎を解いて、ホラーを解体して現実に戻す。この歌は、最初に謎を解いてしまう。だから、眠り姫さんというファンタジーは滑稽なものとして映る。「犯人たちの事件簿」にせよ「古畑任三郎」にせよ、ミステリを犯人の視点から事件を描くと、どこか滑稽さが漂う場合がある。それと同じだ。
ただ、私の印象としては、滑稽さよりも、構造の面白さが印象に残る。でもこの構造の面白さは、ぱっと読むと伝わらないかもしれない。この歌は可能性が排除されるところから始まるから、そもそも可能性が存在したことを隠している。そこも含めて面白い。

著作権フリーの空をコピーしてペーストしない 膝を擦りむく
確かに空は著作権フリーだなぁと思った。コピーしてペーストしないというのは、単なる不条理にも見えるけど、コピーした状態はそれを所有した状態とも言えるんじゃないだろうか。手につかめるものは少ないので、他のものをコピーしたとたん落としてしまうことになるけど。

ほろびゆく(夕焼けにプラスドライバー/朝焼けにマイナスドライバー)
対立的な構図は強いんですよ。たとえ意味が解らなくても。
夕焼けとほろびは(個人的には)相性が良くて、世界が滅ぶときは夕焼けであってほしい。だから、滅ぶときは夕焼けがプラス側であり、朝焼けがマイナス側であってほしいという不思議な納得感がある。朝焼けは滅んだあとの世界だ。ん? そう考えると朝焼けがプラスの方がいいんだろうか。

恋しぐれ 最接近の木星と土星の0.1°の齟齬が
私が宇宙系のワードに弱いというのが大きい気もしてきた。
宇宙から降り注ぐ恋の雨みたいな様子を想像した。いや、どんな様子か聞かれても答えられないですが。

眼球の外にも華があることのヴァイオレットはすみれの総称
眼球の外に華があるのは当然で、むしろ「外にも」の前提として想定されている眼球の中にある華があることの方がわからない。わからない、説明できないことを短歌に仕込むにしても、色々な方法があるけれど、文そのものは当然のことなのに、文が成立する前提にわからなさが入ってきているのがいい。
前半と後半は花を軸につながっていて、だから「華」もすみれを想像する。でも「ヴァイオレットはすみれの総称」自体は前半の内容から少し飛躍していて、それでいてつながるための軸がちゃんとある部分が良い。

あとはもう繰り返される文字列の三十一時あさがくるのだ
この歌以外に取り上げた歌は、ほとんどさよならあかねさんがツイッターで投稿していた歌だが、これは「半年たったんか」の企画募集において完成図における短歌の例として示されていた短歌だ。

この完成図における例文短歌は、半年たったんか投稿における注意事項を短歌にしたものが並び、最後に「あとはもう繰り返される文字列の」というこの歌が来る。要するに、「注意事項は提示し終わったので、単なる文字埋めにすぎません」というのがこの短歌が示す内容だ。
ところで、注意事項や要項の説明というのは得てして読むのがめんどくさいし、眠いものだ。だからこそ、「あさがくるのだ」がしっくりくる。注意事項の提示が終わるということは、夜明けなのだ。
また、この歌の「三十一時」は当然あくまで文字を埋めるための「三十一字」の文字列というところから来ているが、実際「三十一時」は七時を意味し、朝になる。つまり、この短歌は「注意事項は提示し終わったので、単なる文字埋めにすぎません」を過不足なくあらわす内容であり、その内容から一歩も出ないままに、「三十一時」と「あさがくるのだ」が完璧に決まっている。非常にずるい歌なのだ。
ちなみに2020下半期の「半年たったんか」が以下の記事で公開された。朝が来たのかもしれない。


50首挙げましたが、中でも好きなのは以下の5首です。

麦わらを編むのは機械麦わらを解くのは夏、機械仕掛けの

なくしてもいい螺子だけを集めたらなくしてもいい世界ができた

カフェオレがカフェ・オ・レになる放課後があったんだろうメープ・ル・シロップ

電池だよ 目覚まし時計が鳴らない理由探してたでしょ眠り姫さん

あとはもう繰り返される文字列の三十一時あさがくるのだ

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