私は永遠 "モラトリアム"

モラトリアム 

E.H.エリクソンの提案した精神分析学の用語。本来は「支払い猶予期間」の意であったのを転じて,社会的責任を一時的に免除あるいは猶予されている青年期をさす。生きがいや働きがいを求め,発見するための準備を整える一方,自分の正体,アイデンティティを確定できず,無気力,無責任,無関心など消極的な生活に傾きながら,自我の同一性を確立してゆく。

そう、私は22歳現在もモラトリアムの真っ只中。

20歳の時、音楽ライターを志し、約2年の月日をかけて実績なる作品を世に送り出すことができた。

しかし、今は「就職活動」という名のゴミのような活動期間のため一切の執筆を行っていない。

私は自身がモラトリアムであること、精神的弱者であること、HSP、鬱傾向、などなど

 そんな過敏な感性や気質を武器に、文字にその全てをぶつけてきた。

自分自身の生きにくさを音楽に、バンドマンに昇華させ、爆音の鳴る場所で心動かされ、寝る間も惜しんで文字を書いた。生きにくさはクリエイティブの根源だった。

私の書く文章が好きと言ってくれる人も居た。

嬉しかった。けど、まだ書けるんじゃないか 満足の行く内容にまとめられたのだろうか。その時その時のベストを書いていても満たされることはライターになってからもなかった。

やはり自分に対しての人間としての欠落を自認しているからこそ、よく言えば向上心なる気持ちが湧き出てきて、続けてこれたのだと思う。

こうと決めたら、叶えるまで、走る。そういうタイプなんだ。

大学4年、22歳。私は社会のレールに乗って就活をしている。なりたかった音楽ライターになった。次のステージを考える期間ということもあり、自分なりに考え、エントリーを試みた。思うようにはいかなかった。

それでも社会人になることは当たり前という観念が頭を駆け巡る。追われるように無理にでも行きたい会社を探す日々を送った。

しかし、私のような自己肯定が低く感情のアップダウンの激しい人間は通常の社会には向いていないらしい。それはそうだ。そんな心の貧弱な人間組織にいた所で不安要素でしかないだろう。どうやら無意識にそれがダダ漏れていたらしい。

自己分析とかいうクソみたいな儀礼を一通りやって、私はやっぱり直感的に、感覚的に、衝動的にはっきりと「やりたい」と思うことには全てのエネルギーを注ぐことができる。でも、そうでないものには一切の興味が無い。

そして、私は自分に自信がない。全てにおいて自信が無い。なぜなら物足りてる感覚がないからだ。これは昔からずっとそうで、足りないものを埋めるために生きているような感覚だった。

だから、努力を努力だとも思ったことがないし 当たり前を当たり前にできないことが嫌。

手の届かないものに届くよう走るのが好き そんな解釈でペラペラ喋ってみたけれど、世の社会人には中身スカスカで自己肯定がないやつとでも思われたのだろう。

そーだよ。何が悪い。それが私だ。生きにくさが根源で何が悪い。そう思うのも束の間。社会に受容されない自分の社会不適合さに嫌気がさし、抗うつ剤まで飲んでいる。薬が切れると手が震える。涙が出る。副作用で吐き気がする。たった一食しか食べていないのに、太る。

気がおかしくなるかと思った。                             あれだけ好きだった音楽が一切聞けなくなった。

意味が分からなかった。なりたい「私」は常に先へさきへと走っている私なのに。何がしたいのかも分からない。  

今は、普通の人間として社会に受容されるために、本を読んだりして自己改革してみている。自分の存在を他者や社会に求めるのではなく、自分で満たしたい。

それで私のクリエイティブが死ぬのなら、その時は本当に憧れの世界から消える時なのだろう。

好きなようにいきていきたい 好きだけでは生きていけない。知ってしまった現実世界。

なんなんだこの世界は。クソみたいな就活は。

社会に合うように矯正されていく感覚。私には耐えきれなかった。

向き合いきれないモラトリアム人間が今日も微かに息をしている。

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