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知った気でいるもの

近年開発されている建設材料に、将来、火星での応用を期待されているものがある。イングランドのウェスト・ヨークシャーという都市州には、森を見守る目的として伐採した木材で建てられたツリーハウスがある。廃棄される陶器を砕いて混ぜた、デザイン性の高いプランターが存在する。

これらは全て、私が「知った気でいるもの」だ。


絶対に食べると数日前から決めこんでいたパクチーラーメンのお店が、やっと出向けた日に休業日だった。

午後から慌ただしくなる家事、拍車をかけるべき原稿、夜も長期戦であろう仕事。「腹が減っては戦ができぬ」というけれど、私の中の確固たる “戦” たちが、これでもう全てできない。

八つ当たりにも似たような思考をめらりと巡らせながらスマートフォンを手に取り、別のお店を検索する。人指し指を走らせて画面をスクロールしていると、ひとつのサイトが目に入った。

それは、アジアンチックな佇まいのエスニックカフェだった。車の入りにくい脇道から抜ける、一見目立ちにくい場所。穴場のようなそのお店は、計画を果たせなかった自分をなぐさめるのに最適な空間だと思った。

お店に着いてすぐ、シーフードスープカレーを注文した。当初お目当てだったパクチーとは程遠いけれど、好きな海鮮が食べられると思うと気持ちがほぐれた。

空腹を紛らわすためメニュー表を眺めていると、壁際に置かれた和紙の飾りが目に入った。パステル調のやわらかな色がパズルのように重なっていて、それを際立たせるかのように、裏には暖色の明かりが灯っている。薄手の紙から気まぐれにこぼれる彩りの美しさが気になり、その場で「和紙 色付け」と調べた。

染色の種類だけでも「引き染め」「浸し染め」「重ね染め」など3種類以上、模様の入る染色となると「丁子引き」「マーブリング染色」など6種類以上になる。さらに、にじみを消すために紙の表面を加工する必要があるのだが、加工用の液が固まらないように常に熱を加え続ける。和紙が厚い場合、これを2回以上行わなければならない。

和紙の微細な見え方を追求するために、さまざまな工程が踏まれている。このお店に来なければ、おそらく今後も知らなかったことだ。

運ばれてきたスープカレーの湯気からは、スパイスの香りが舞い上がっていた。トッピングには自家製スパイスの効いたジャークチキン、全粒粉を発酵させずに作るチャパティ。香辛料がこっくり溶けたカレーを、ひとさじ、ふたさじ、ゆっくりと口に含む。



横に添われたチキンは口元へ運んだだけでハーブの香りが鼻を抜け、頬張るとじゅっとうまみが零れていく。弾力のあるイカに、スパイスのまろやかさがここまで調和するなんて知らなかった。身が弾けそうなほど厚みのあるエビのエキスが、こんなにもスープに深みを出すとは。

この頃には、別のお店でお腹を満たそうとしていたことなど忘れてしまっていた。ここに来てよかった。むしろここへ来るべきだったとさえ思った。



世の中は明るすぎて、ときにあらゆるものが透けて見える。その点、夜は自分がそのとき見たいものを選別できる気がする。静寂の音。本棚の隙間からひとすじ漏れる照明。夕方少しだけ焚いたシダーウッドのアロマの残り香。意識せずとも刻まれていく記憶の端くれ。

自分と向き合う文章とはそういう中でこそするりと書けて、朝に読み返ししっくり来なくなっては、「また今度」と下書きに片付ける。

そんな風にしてふくれた「いずれ残したかったこと」は、いざ書くときには熱を失って書けない。後でカメラに収めようとしていた空に滲む三日月は、5分後たちまち夜の薄い雲に隠れて、元の居場所すら見つけられない。満月だって暗闇に浮かぶから映えるのであって、空が明るくてはきっと目立たない。

曖昧、おぼろげ、華奢という名の幻。「またいつか」で、一生消えてしまうものたち。




「歌い手の声をあえて無くして楽曲を聴くのも好き」と話して、不思議がられたことがある。『インスト曲』と呼ばれるそれに身も心も溶け込ませるとき、ものごとの答えや楽しみ方がかならずしも「言葉」にあるとは限らない現実を知る。

突き抜けるように明るい歌詞の曲が、歌声のないバックサウンドのみになると途端に切なさで染まる。悲しみを笑顔で隠しているような音楽が、世の中にはたくさんある。

もともと雑味のないものを、さらにブラッシュアップすること。鮮やかな色彩のインテリア。映る影まで絵画のような風景、味が保証された料理、おろしたての服。どれもこれも洗練されていて、まるで成功の象徴みたい。

でも実際のところ、メロンと信じて舌に乗せた緑色の飴玉の味は青りんごだし、誰かにとっての二つ星レストランは、誰かにとって五つ星だ。履きこなせないと思っていた靴がいまでは一番のお気に入りで、忘れられてしまいそうな道端の花の蕾は、水に挿せばゆっくりとふくらむ。

毎日はそんなちいさな裏切りの繰り返しでかたどられていて、「知らない」を知るチャンスが、いたるところに転がっている。明るみにあるものが自分に響く真実かどうかは、自分自身で確かめなければ分からないのだ。



「忘れたいのでも、忘れないのでもなくてね、人間は、忘れていくんだよ。」何年前に観たか忘れてしまった有名なドラマのワンフレーズが、いまでもふとした瞬間に頭を巡る。

知った気でいるものに手を伸ばして知識を得ても、次第に忘れていく。「初めて知った」の連続も、「またいつか」で葬っている日々の欠片も、淡い鋭い悲しみも、しなやかで甘美な記憶も。

どんなに逆らってもいずれ忘れていくかもしれないが、見ていないもの・聴いていないものを「知った気でいる」より、自分の手で選び取ることで無知を自覚したい。どうせ忘れるのだから、と知ることを諦めるより、自分の手足を動かして、残して、過去の未来を生きたい。

誰かの不正解は、私にとっての正解かもしれないから。「もっと早く知っていれば」ではなく、「いま知れてよかった」のである。

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