見出し画像

身体を動かすことは心と身体を笑顔にする

こんにちは。フィットネスインストラクターの中谷友星です。

画像7

僕の笑顔の秘訣を知っていますか???

これを書くにあたり、何度も何度も書き直しました。タイトルも色々と考えたのですが、僕がやってきたことは、これしかなく、他には何も無かったので、このタイトルにしました。

普段、人前に立って、スタジオでの運動指導を中心に活動しています。自己紹介や自分のことに関して、ブログでも記事にしたことがないので、ここで改めて書きます。

僕のことを知っている方は、へーーーと思うかもしれないですし、初めましての方は、何か共通点とかあったら、是非繋がってくださいね。もし悩んでいる人がいたら、ロールモデルとして参考になったら・・・。

誕生:予定日より1週間早く生まれ、未熟児だった

サントリー山崎蒸留所の近くで生まれ、祖父母にとっては初孫。とにかく可愛い孫だったようです。
祖父にポータブルのカセットプレイヤーを購入してもらい、童謡のテープを聞いていました。出かける時も常に持ち歩き、毎晩、食後はリサイタル。

とにかく自分が1番という環境で育ちました。

父の転勤で熊本へ:大自然の中でのびのびと成長

今は、合併して名前が変わってしまったのですが、熊本県の旭志村に父の転勤で移住しました。

画像1

阿蘇まで13kmほどで、大自然に囲まれ、食べ物、空気、水の美味しい場所。大人になってから再びあの場所に行ったら「あぁ、この匂い・・・」とすぐにわかる牛たちの糞の匂いも思い出しました。

幼稚園時代:負けず嫌いの性格が形成された

幼稚園は車で市内へ。とにかく幼稚園に行くことが嫌だった。お弁当の時間も嫌で、食べるということがあまり好きではなく・・・両親は苦戦したようです。

僕の性格がはっきりとしてきたのは、この時期だと思います。

幼稚園で、誰かが逆上がりができたら「なぜ自分ができないのか」納得いかず、家に帰り、真っ暗になるまで・・・というかできるようになるまで練習して、翌日には何事もなかったかのようにみんなの前で逆上がりをしていました。縄跳びを飛んで、誰が最後まで残るかということをやった時、自分が負けたらそれが悔しくて、帰宅してずーっと飛んでいたことを覚えています。

できないことがあったら、ひたすら練習して、できるように。とにかく負けず嫌いでした。

小学生時代:片道4km、往復8km。僕の足の強さの秘訣

小学生が片道4kmを歩いて学校に行くということは、本当に大変で、友達と喋りながらだから余計に時間がかかり、朝7時過ぎには家を出て、それでも学校が始まるギリギリに到着。
帰宅するときは、湧き水を飲んで、用水路を歩いてとか、遊びながらだったので、気付いたら真っ暗。その真っ暗の中を歩いて帰っていました。その当時は、今とは時代が違うので、地域の人が途中まで軽トラックで送ってくれたり、ということもありました。

旭志村では本当にいい経験をしました。同じ部落の人たちもみんなが優しくて、村の人みんなで子供を見ている感じでした。

画像2

東京へ転勤、何もかもが変わった

小学4年の夏に父の転勤で東京へ。
ここでガラッと変わりました。塾に通うのは当たり前、自然なんてなく、ゴミゴミした所、使用している教科書が違うので、習っていることも多少異なります。慣れることには時間がかかりました。

放課後にグラウンドでサッカークラブが活動していたので、入りました。男女混合のチームで4年から6年まで所属。小さい身体でしたが、頑張って通っていました。

中学生:運動神経が開花する

サッカー部に入りたかったので学校に聞きに行ったら「男子サッカー部なので入ることはできない」と言われ、他の部活を見学。厳しくて強い所を選び、バスケットボール部に入部しました。

・先輩後輩の上下関係というもの
・部活のルール、規則

というものを初めて経験。顧問の先生も厳しく、朝練、長期休暇の練習、本当に部活漬けの毎日でした。大変ではありましたが、すごく充実していた日々だったと思います。

それまでは普通だった運動神経が、バスケットボール部で毎日鍛えられた影響もあり、どんどん変化していきます。中学3年の時には、リレーの選手に選ばれるようになりました。体育が得意なものへ進化します。

高校生:無意識にできていたこと

高校は家から自転車で通える距離の公立高校へ。中学でバスケットボールをやっていたから高校でも・・・とは考えておらず、ここでも強い部活を選択。(最終的には部活を見学して自分で決めたのですが、最初は母の薦めがあり、いくつか候補に上がっていました)

東日本大会にも出場し、公立選手権では優勝をしていたソフトボール部に入部。全くの初心者だったので、どうなるかと思ったのですが、ほとんどみんなが初心者だったので、良かったのかなと思います。

毎日泥だらけで、先輩後輩もきちんとしている部活でした。

順風満帆かと言ったらそんなこともなく、1年の秋くらい?に同級生から「先生はうっきー(僕)をキャプテンにしたいと思っている」というような内容の話題が上がり、先輩を巻き込んでの話し合い。
3年の時は数名のメンバーからシカトされるということもあった。正直、僕は気付いていなかったのだが、OGと同級生数名が教室で楽しそうに話をしていて、僕が物をとりに行ったかでドアを開けたら、話が止まり同級生から睨まれるという。(そこで気付きました)

何がきっかけで始まって、何がきっかけで終わったのかは、わかりません。僕が考えるに、「先輩とすぐに仲良くなる」という僕の性格が原因だと思います。

別の言い方をすると「可愛がられやすい」ということでしょうか。

群馬オープンという大会に出場したり、公立選手権優勝で幕を閉じたソフトボール部。卒業してからも、合宿に参加したりしていました。色々とありましたが、今でも同期とは繋がっています。

大学受験:やればできるということ

大学は当初目指していた理学療法士になるための学校ではなく、急遽、方向転換して体育大学を目指しました。

体育大学を一般で受験するということは、実技があるわけで。最初から目指していたら、かなり前から練習しているのですが、途中で方向転換をした僕は、とにかくやるしかなかった。マット運動・100m走・球技といった基本のものですが、体育が得意な人たちが集まっているから、ただ出来るだけでは合格しない。

今まで、めちゃくちゃ頑張ったことは何回かあったのかもしれませんが、初めて自分を追い込んだような気がします。真っ暗になるまで坂道を走り込んだり、トレーニングをしまくったり。どんどん変化していく自分の結果を見て、やれば出来るんだということを初めて体感しました。

一般受験で入った日本体育大学。と言っても、入りたかった体育学部の体育学科ではなく、社会体育学科。

体育大にいきたいと決めて、どこにするかを選ぶときの僕の基準は、共学であること。目標は、日本体育大学の体育学科。でも、合格したのは、日本体育大学の社会体育学科だけだった。

入りたかった大学であることには変わりなかったので、そのまま入学。

大学生:体育大の洗礼を受ける

「なぜ日本体育大学にしたか」というと、「サッカー部に入りたかったから」というその理由だけ。中学、高校と強い部活という基準で選んで入部していた僕は、大学も強い部活という基準で選んでいたのだ。

大きな勘違いであった。

幼い頃からサッカーを続けていて、日本代表にも入るような人がゴロゴロいる部活に、全くの素人が入ったのだから、苦労しかない。しかも、厳しいことでは有名で、部則があり、入部したらその説明から始まるという。

今でもその当時の部則ノートは保管していて、懐かしいなと思って見ることもありますが、笑えるくらいに体育会系な内容です。流石にここには書けませんが。。。

挨拶、欠席届けの書き方、電話のかけ方だけでなく、事細かに決まっていることを全てやらないと、先輩から集合がかかり、集合の時は、「はい」「いいえ」「すみません」しか言えない。理由を説明するときの言い方も決まっていました。こうやって書くと、マイナスなことにしか見えないかもしれません。

その環境で学んだことも多くあり、仕事にいかされています。

「先輩が気づく前に先に動くこと」

周りを見ることは、すごく鍛えられました。少しの変化に気づき、何かあったら即座に動く、誰かが動いたらなんだろうと自分も反応する。先輩より先にやらないと怒られる→自ら探す、周りを見る→言われる前に行動するというように今の僕にはすごくプラスになっています。

フィットネスとの出会い:制服のない仕事

部活のシーズンオフを利用して、スポーツクラブに入会。自分のカラダを動かすことをしていました。マシンでトレーニング、ランニングマシンで走ると言った基本的なことしかしていなかったのですが、総合型のスポーツクラブだったので、スタジオがありました。

ランニングマシンで走っていたら、エアロビクスのレッスンが始まり、若いインストラクターさんが楽しそうに教え、参加者もニコニコ。それが気になり、次の週に初めて参加。

体育大生、見事!中級エアロビクスに撃沈!

これくらいできるでしょ?と思って参加したエアロビクスのレッスンで玉砕。全然動けず。負けず嫌いな僕は、とにかくいろんなレッスンに参加しまくりました。

最初に見て、いいなと思ったレッスンは常に参加。この仕事いいなと思ったきっかけでもあります。理由は単純で・・・好きな格好ができるから。

自分らしい格好で仕事ができる

これは僕にとって重要なことであった。好きな格好ができて、カラダを動かせる仕事って最高じゃないかと思い、インストラクターさんに「どうやったらこの仕事ができますか」と聞いて、そこから僕のフィットネス人生がスタートしました。

フィットネスクラブでアルバイトもはじめ、ジムのスタッフとしてレッスンも担当し・・・って部活は?となりますよね。
基本的に部活を辞めることは出来ません。僕はお願いして、退部させていただきました。

大学3年:僕のフィットネス人生がスタート

朝から学校へ行き、授業が終わったら、ジムでアルバイト。まずは養成コースに通うためのお金を貯めました。そして、インストラクター養成コースへ。

学校、アルバイト、養成コース。怒涛の日々を過ごしていました。21歳だったから、突っ走ることが出来たのかもしれません。養成コースもレッスンを受講するといった課題もあったので、学校とスポーツクラブを行ったりきたりしていました。

この仕事をやる。インストラクターになる。

そう決めていたから、全てが両立出来たんだと思います。大変な日々ではありましたが、辛かったと思ったことはありません。

フリーになる:学生兼インストラクター

養成コースを卒業して、大手スポーツクラブのオーディションを片っ端から受けまくりました。若いインストラクターということもあり、沢山のご縁をいただき、レッスンも決まり、大学4年でエアロビクスインストラクターデビュー。

学生兼フリーのインストラクターになりました。

大学4年といえば、授業もほとんどなく自分の好きに使える時間が多い印象があります。僕の場合は、どうだったか…というと、1.2年の時に落としていた単位を取るために授業へ。

授業が終わったら、レッスンやジムのスタッフという感じで、学校と仕事で忙しい日々を過ごしていました。沢山のレッスンを担当させて頂くこともでき、毎日が本当に充実していました。

その当時は、サバイバルエアロビクスという大会もあり、出場するために全国を飛び回ったり、勉強のために地方までワークショップを受けに行ったりと、とにかく何もかもが新鮮で、刺激的で、いろんなことに挑戦。
大学の授業が終わって、友達から「今日飲み会あるけど行かない?」と誘われても、全てお断りしてインストラクター業に励んでいました。

インストラクターになってから、沢山の人に出会い、沢山のレッスンを担当させていただきました。

壁があった:目立つことは良くないと思った

可愛がられる性格がマイナスになったのは、インストラクターデビューして3年くらいした頃。とにかく周りのインストラクターから叩かれたり、嫌味を言われることも多かったです。公開で書いている記事に書くことを悩みましたが、これも僕が通った道です。

「若いんだから、ヨガなんか勉強しないでもっと走るエアロビクスしたらいいのに」(昔は若手は走るエアロビクスを担当するみたいな流れがありました)

「うちの店舗には代行に来ないでください」(後で確認したら、そんなこと言ってないとしらばっくれられた)

その当時は、なぜか・・・がわからなかったのですが、17年という月日が経ち振り返ると、自分が若かったんだなと思います。もしタイムマシンがあって、その時に戻れるのであれば、周りの方々に頭を下げて歩きたいくらいに、飛ばしていました。本当に恥ずかしいくらい調子に乗っていました。

新たな挑戦:プレゼンターという立ち位置

フィットネス業界も日々変化をしています。プログラムも変わっていき、新しい流れがあったり。ダンス系のプログラムが多くなる時期がありました。なるべく目立たないように地味に活動していた僕も、新しいダンス系のプログラムに挑戦。そこで、プレゼンターという立場を経験します。

1つのイベントを作り上げるために多くの人が関わり、たくさんの時間を使って作り上げているということ。プレゼンターは、ただ御膳立てされた舞台に乗るだけが仕事ではないということ。人前に立つということを再確認させられました。

僕が大きく変わったのはそのあとです。

絶対に切られない存在になること

ここまで読んで、所々で「あれ?」と思った方もいらっしゃるかもしれません。

元は女性インストラクター。そして、今は男性インストラクターとして活動しています。

自分らしく自分の好きな格好で仕事が出来ると選んだこの仕事。しかし結局は、性別が付き纏う仕事でした。女性インストラクターしか担当できないプログラムだけでなく、更衣室、トイレもですね。

前例がないのであれば、自ら行動すれば良い

女性インストラクターから男性インストラクターに変わった人がいないなら、自分がなればいい。そう思った僕は、治療を開始しました。

お客様の目の前で変化していきました。何も考えずに自分がそうしたいから、という気持ちだけで治療を開始したわけではありません。今変わっても大丈夫という自信があったからです。

人と接する、人前に立つ仕事なので、変化すればすぐにわかる。ホルモン注射を打ち始めた時も「最近、先生の声が変わった」「先生の足の毛が濃いんだけど」などといった様々な話がロッカーでは飛び交っていたようです。(僕が直接言われたのではなく、お客様から後々聞いたことです)

色んな変化が起きると、お客様からクラブ側にクレームのようなものが入る可能性もある。対応できない、前例がないものだとレッスンの担当から外される可能性も考えられたので、僕は下記のことを意識しました。

◆とにかく休まない+代行を受ける
◆誰よりも集客をする
◆お客様とのコミュニケーションをより意識する

何もかもがうまく行っているように思われることも多いのですが、そんなことはなくて、色々言われたり、同業者からの風当たりも強かったり。僕が笑っているからいって良いと思うのか過去の性別をネタにされたり。

なぜ逃げることをしなかったのか?

指導者という仕事、人と接する仕事、人を元気にする仕事が好きだから

そして、もう一つ。

僕がカミングアウトした2人の先生が否定をしなかったから

「あんたの好きにしたらいい」「もし何か言われたら、あんたの前に立って守ってやるよ」と2人の方に言われたことが大きな支えになりました。

先ほど「今変わっても大丈夫という自信があったからです。」と書きましたが、それは僕だけのチカラではなく、周りに支えてくださる方々が沢山いたからです。

30歳:一気に転向する

30歳になり、今まで経験したことのない仕事が色々と僕のところに舞い込んできました。歌舞伎町にあるショーパブのダンサー、クラブイベントなどでのGOGOBOYなど。とにかく楽しそうなことには、なんでも挑戦していました。それは現在もです。

画像4

GOGOBOYをはじめた時に、トレーニングも本格的にはじめました。

画像5

雑誌やメディア関係の取材を受けることもありました。若い人たちの役に立てるならと、全てのお仕事を受けています。

▶︎ LGBTER(与えられた性別を言い訳にしたくない)
https://lgbter.jp/yusei_nakatani1/
▶︎ new tokyo(U-SEIのトリセツ)
https://jibun-rashiku.jp/article-255
▶︎G-pitチャンネル
https://youtu.be/GNdQBNloqzc
▶︎TENGAと深掘り!!SHELLYさんと考える!働くLGBTのクエスチョン!?
https://youtu.be/zz5qTzFlgHQ

コロナ禍で変わったフィットネス

フィットネスに携わって18年になるのですが、今年は今までに経験したことのない状況が続いています。街の様子が変わり、テレビでは感染者の数の報道が多く、自粛してくださいというキーワードを何度聞いたことか。

僕が働いているスポーツクラブも休館。3ヶ月近く休みになり、営業が再開しても、全てのレッスンが戻ることはなく収入は明らかに減っている。

営業自粛になったころ、何もせずにテレビを観ていたのかといったらそうではなく、朝から晩までPCの前に座って作業をしていました。

今、勉強したいことをする。

やりたいと思ったら即行動するのが僕です。レッスンが減り始めた頃、僕は以前から学びたかったデザインの勉強をスタート。Photoshop/Illustratorをプロから学び、次に動画編集として、Premiere Pro/After Effectsを勉強した。

勉強だけではなく、学生時代からお世話になっている先生に声をかけていただき、インストラクターがオンラインレッスンができるように、インストラクター向けの講座を毎日開催。約1ヶ月半ほどで、600人を越えるインストラクターに指導をしました。

講座を引き受けるか悩んだ時に、みんなで乗り越えるしかない状況だと判断したので、声をかけてもらった時に即OKをしました。全国、というより海外からの参加もあったので、本当に沢山の人に画面を通してですが、会うことができました。

そのインストラクターを通して、沢山のお客様にオンラインレッスンが提供できたのでは?と思います。

また、それだけでなく、動画編集を学んだことで、youtube用の動画編集をスタート。リアルタイムでのオンラインレッスンだけでなく、学べる動画の配信行い、より多くの方の元はフィットネスを届けようと奮闘しました。サムネイル、画像作成なども行いました。

レッスンが再開して感じたフィットネスの必要性

スタジオレッスンが再開した時、お客様の笑顔を沢山見ることができました。「コロナでスポーツクラブが休みになったら、本当に病気になりそうだった。再開して良かった!」というお声を沢山いただきました。

カラダを動かすことは人を元気に笑顔にできる

どんな場所でも、どの時間でも、性別など何も関係なく、カラダを動かすことは大切で、心も笑顔になれると改めて思いました。そして、運動はみんなの活力になると確信しました。

次のステージへ

今の僕にできることは何なのだろうと考えていたときに、自分自身を振り返るにはちょうど良いのかもしれない。そう思い、これを書いています。

・体育大学に入りたいと思い必死に勉強し、実技を練習して現役合格した
・インストラクターになりたいと思い学業と両立させ大学4年でデビュー
・ありのままの自分で生きるためにみんなの前で変化した

次は、もっと勉強しても良いかもしれない。すごい人は沢山いて、上を見たらキリがない。ただ自分の人生を思いっきり楽しまないと勿体ない。38歳になる前に次の1歩を踏み出そうと、もがいています。

画像7

自分自身を見つめることが苦手なので、あえて公開で書き、行動力へと繋がるよう、自分のケツを叩くしかないですね。

人と接することが好きである

人見知りな僕ですが、面白そうだなと思ったらすぐに行動し、集まりに参加したりしています。そして、人と人を繋げることも好きです。

誰かのために動くことが好き

僕は友達が少ないと思う。では人が嫌いなのかといったら、そうではない。学生時代のアルバイトから今までを見ても、全てサービス業。

高校生:八百屋
大学生:居酒屋、コンビニ、スポーツクラブ
卒業後:スポーツクラブ、専門学校講師アシスタント、ショーパブ、飲み屋など

人を見ることサポートすることが好きである

カラダの特徴を見て、様々な動きやポーズを提供してきたこともあり、普段から、人を見るトレーニングをしてきました。

僕にできることは、もっとあるのかもしれない。誰かのために、一生懸命動くこと、誰かのチカラになること。

誰かのロールモデルとして、導いていくこと。

これから、もっとパワフルに動いていきますよー!!!!!と宣言します。

誰かのために何かをしたい

誰かのために走り回ることを苦だとは思わず、必要とされたら全力でサポートしてきました。

それは現在のレッスンでも同じで、参加してくださった皆様のために、どのレッスンも常に全力で、参加者と真正面から向き合って指導をしています。

ある意味怖いインストラクターで、はっきり伝えてくれる良い人である

思ったことをはっきりと伝える指導法で、今のレッスンを作ってきました。相手のことを思ったら、きちんと伝えないといけない。できていないのに、できてますよと伝えることは、僕の中ではNOだと思っています。なので、レッスンで怖いインストラクターだなと思っても、嫌いにならないでくださいね(笑)

自分の性別はある意味グレー、性格は白黒はっきりしている

元女性であることを売りにはしていません。聞かれたら答える程度です。なぜなら、レッスンに、運動指導に関係がないから。過去の自分の出来事をネタとして話ことも場合によってはあります。

隠すことはしない。今まで生きてきた全てが僕である

画像7

デザインを通してフィットネスを発信したい

もっともっとフィットネスは広がって良いと思う。それが変わらないのは、インストラクターの発信力の低さかもしれない。パッと目を惹くデザインがあったら、興味を持つ人が増えるのかもしれない。

身体を動かすことはココロとカラダを笑顔にする。簡単な運動でも良い。手軽にできるものも沢山ある。もっと広げられるのではないだろうか。

楽しみながら、面白い発信をしながら・・・。

2021年5月からはじめたこと

デザインだけでなく、webに関するスクールに通いはじめました。
多分、年齢的には遅いですよね・・・
でも、やるからには、突き抜けますよ。

◆指導歴、職歴など

日本体育大学卒
運動指導歴18年、10万人以上にレッスンを提供
エアロビクス、ヨガ、ラテンエアロなど様々なジャンルを担当
専門学校講師、雑誌やDVD出演

◆スキルなど

Photoshop、Illustrator、Premiere Pro
Microsoft Office
中学、高校保健体育教員免許
心理アロマアドバイザー
飾り巻き寿司3級

僕の笑顔の秘訣は・・・

色々と真面目に書きましたが、新しいモノ、楽しいコト、刺激的な空間が好きな僕です。何があっても毎日を楽しんで生きています。

僕の笑顔の秘訣は好きなことをしていること

もっと楽しいことを。そして次のステージへ。
今の自分に満足することなく、進み続けます。



この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?