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インコと我が家の物語②

昭和の家族が飼い続けてきたインコたち
そのインコたちと家族のあれこれをなんとなく語っています・・・

前編はこちら→ インコと我が家の物語① 

第六章   鬱なインコ、チロちゃん

ルーがなくなったあと、母の体調がおかしくなった。
下腹部が痛い、と訴え続けるがその原因はわからず、いくつもの病院をまわり、様々な検査もした・・・結局、最終的に母に下された病名は”うつ病”だった。
明るさだけが取り柄のような母だったが、当時は何をするのもつらそうだった。
本当の原因はわからないが、ルーの死も影響していたのかもしれない。
当時、外で一人暮らししていた私より母がメインで面倒を見ていたルーが亡くなり、心の張りのようなものがなくなったのかもしれない。

そんな状況下で、またも我が家にインコが来た。
強風の日、ご近所のバルコニーに飛ばされて来たその子は、鼻は赤黒くカサブタになっていた。チロチロと力なく鳴くだけのその子にチロちゃんと名づけたが、その子は母と同じくまるで鬱病のようなセキセイインコだった。

今思うとインコをつかまえたのは、母とごく親しいご近所さんで、もしや母を元気づけられるかもと我が家へ連れてきてくれたのかもしれない。
だけど母にとって、そんなインコの面倒を見ることさえ当初は負担なようだった。
ある時、チロが見えなくなり必死で探しまわったあげく、冷蔵庫の中に入り込んでいたという事件があった。母が冷蔵庫を開けた時に偶然入り込んでいたのだろうが、すぐ見つけられて本当によかった。でなければチロは我が家で凍死した不遇なインコとして悲しい記憶となっただろうから。
またある夕方。私が家に戻ると、電灯も点けないままの暗い部屋にインコと母が微動だせずじっと座っていた事があった。私はその様子に呆然としたものだ。
鬱病というのはその人から生きる力を抜き去って、本人もだが、まわりにいる者も辛い。
私はその後、結局一人暮らしをやめ家に戻った。母も運よく近くの大学病院で良い先生に巡り合った。母に言わせると「ただ私の話を長いこと聞くだけ」とのことだったが、それで処方された薬がきいたようで、次第に母の体調は上向きになっていった。
そして母とインコが暗がりで凍りついてた光景も笑い話にできるようになった頃、インコのチロちゃんも、ほんの少しだけど人に慣れてきた。
鼻の上のカサブタもとれ、本来の青い色の鼻になり、チロがオスだと分かるようにもなった。
でもそんな頃、母がうっかり窓をあけたことで、チロを外に逃がしてしまった。おりしもその日は冷たい雨で、私も必死で近所を探したけれど結局見つける事ができなかった。今のようにSNSやネットもない時代で探すにも限界があり、ただ誰かが保護してくれている事を祈るしかなかった。
飼っていた期間も短く、そんな唐突な別れだったが、母の病気の思い出とともに、やはり今も忘れられないインコだ。

お蔭で鬱病から回復した母は、また大好きな旅行にも行けるようになったのだ。
でも・・・数年後、また体に変調をきたした。
鬱病がぶり返したかと思い再び精神科に通いだしたが好転せず、紆余曲折あってようやく判明した母の病気は”多系統萎縮症”という難病だった。

※母と病気についてはちょっと重い話題なのでそのうちまた
※母の旅行についてはこちら →
「母と旅行」

 第七章 体育会系のキーちゃん


本格的に母の介護をするようになった私は、懲りずにまたインコを飼うことにした。近所のホームセンターで3000円ぐらいで売られていた子だったと思う。今度は健康そうな子をと、動きのはつらつとした黄色いインコを迎え入れ、キーちゃんと名付けた。

キーちゃんは思った以上に体育会系な鳥だった。
言葉はおぼえず、止まり木で宙返りとか勝手におぼえて身軽にやっていた。
まわりがブツブツになったマッサージボールを転がしてあげると、その上に飛び乗り器用に玉乗りもできる子だった。黄色はアルヴィノに近いため鼻の色はピンクのままだったが、多分、男の子だったと思う。
そして体育会系のせいか、インコなのに頭がなんだか四角くて角刈りみたいに見えた。

キーちゃん最後の玉乗り

幸か不幸か、当時ほぼプータロー状態だった私は介護に専念していた。
母は診断通り次第に神経の機能が衰え、歩けなくなり、動けなくなっていった。
そんな中、キーちゃんは愛嬌こそあまりなかったが、気の滅入るような介護生活の中でのガス抜きになってくれていた。
でもそんな私のストレスが伝染したのか、丈夫だったはずのキーちゃんが、体調を崩した。
母がもうほぼ寝たきりになっていた頃なので、病気がわかってから3-4年たっていた頃だと思う。
母の介護の中、インコも病院へ見せにいかなくてはならなくなった。
また電車と徒歩で30分ほどのところに新しい鳥を見てくれる病院をみつけ、そこへ通った。
幸いそれほど悪くはなさそうだったが、定期的に見せにきなさいと言われ、その後、母の看病の合間をぬって、2-3ヶ月に一度程度、インコを病院へ連れて行くことになった・・・ダブル介護だ。
さすがに動物病院へ行くのは、ヘルパーさんが来てくれている間では行って帰ってこれない。なので、兄夫婦が介護しに来てくれる時などにインコを動物病院に連れていっていた。
無職介護に専念できるとはいえ、さすがに毎日では自分がつぶれそうなので(自分がつぶれたら介護は崩壊するとの論理)、電車で1時間程離れた場所に住む兄夫婦に月に数度はかわって母を見てもらうことにしていた。
基本、そんな日は自分の気分転換に趣味のスポーツやら映画やらを見にいったりして羽を伸ばしていた。
一時は落ち着いたキーの体調だったが、ある時、また調子を崩した。
気づいたのは、ちょうど兄夫婦に私が介護を代わってもらった翌日だった。
私が家に戻り兄夫婦と介護を引きついだ時、すでに夜でキーのカゴには布をかけられていて、翌日の朝、布をとって中を見ると、インコはかなり調子が悪そうだった。
今思うと、もしかしたら暑がりの兄がクーラーをガンガンにつけていたせいで、体が冷えていたのかもしれない。
ちょっと前から少し元気はなかったのだが・・・その日はいつも以上に体を大きくふくらませてグッタリしていた。
獣医さんに連れていきたかったが、兄夫婦が来てくれたばかりでまたすぐに来てくれとは言いづらく、悶々として様子を見守っていたのだが:::。
そんな中でキーは、外に出したらなぜか久しぶりに得意の玉乗りをした!
ちょっと驚いたけれど、少し元気になったのかなと少しほっとした。
なんとかその日を終えカゴに布をかけて早めに寝かせた。数日中になんとかまたお医者さんに連れていこう、と思っていたのだが・・・。
翌朝、キーちゃんを起こそうとカゴの布をとると、キーはカゴの下に横たわっていた。まるで眠っているようだったのが、せめてもの救いだった。
思えば前日、ああして玉乗りしてみせてくれたのは、最後にカッコいい姿をみせたくて頑張ってくれたのかも、と思うと涙が止まらなかった。
それなのに医者さんに連れて行く事もできなかった自分に対して腹がたち、情けなかった・・・。
愛想はなかったが、キーは本当に最後までカッコいいインコだった。

第八章 最後のインコ? リンちゃん

そんなことがあったので、もうインコは飼うまい、と思っていた。母の介護の中で、ちゃんと面倒を見られないかも、と思ったので。
。でもだめだった。
ある日、フラリとのぞいたペットショップに小さなインコが一羽だけポツンと売られていたのを見てしまったのだ。

買ってきたばかりのリン

一度は我慢したけれど、我慢ができず結局、翌日、その子を買いに行った。
それが2008年の11月。そしてその子にリンという名前をつけた。
今度の子は、インコのブリーダーさんの所からペットショップに連れてこられた子という事で、初めての保証書?のようなものもあった。そのせいか今までの子よりちょっとだけお値段が高く、4000円ぐらいだったと思う。
その時のリンは本当にまだ赤ちゃんで、我が家にきたばかりの時は、慣れない場所のせいかほとんど動かなかった。人見知りなのは賢い子なのかな、と思ったが、一週間ぐらいですぐに慣れてくれた。

うちの母のほうはさらに病状が進みほぼ寝たきりの上に、ほぼ自分では動けなくなっていた。
食事も流動食を直接、胃に入れるようになり、こちらの手はほとんどかからなくなった。
幸いなことに指定難病だったことで医療費の負担はほとんどなく、お医者様も大学病院の担当の先生が独立して訪問医療を始めてくださっていた。
介護についてもお風呂サービスやベッドや吸引機等も貸してもらえて、訪問介護の方にも定期的に来てもらえた。たぶん痴ほうの方の介護より負担は少なかったと思う。
ただ食べる喜びもなくなり、話すこともできなくなり、テレビを見るだけの母を見ているのは辛かった。もちろん一番辛いのは本人だとは思うが・・・。
それとタンがつまると呼吸ができなくなるので、すぐタンを引けるようにと、私も母のすぐそばで寝るようにもなっていた。
そんな中で赤ちゃんインコが成長し、なついてくれるのは、私にとっては大きな喜びだった。

そんな介護生活が続いていたある日、かなり病状も安定しているということで、母は検査も兼ねて胃ろうの取り換えの為の短期入院をする事になったのだが・・・なんとそのたった数日の入院中に、タンをつまらせ帰らぬ人となってしまった。
母の最期はなんとか看取れたが、まさか家ではなく病院で亡くなるとは・・・。

そんな風に唐突に母がいなくなった私のそばにずっといてくれたのが、このリンだった。
リンは最初、期待していたほどには賢くなく、いつまでたってもほとんど言葉も覚えなかったが、明るく要領のいいインコだった。
誰が遊びにきても怖がらず、その人の肩や手にのるような子だった。
丈夫だったお蔭で、短い旅行の間は家に残していくこともできた。
最初はおずおず留守番させていたが、エサだけいっぱい入れて、二泊ぐらいは留守番をさせていた。そんな時、帰るといつもジジジと怒りの声を出して迎えてくれた。

さすがにちょっと長い旅行の時には病院のペットホテルで預かってもらった。迎えにいったら、いつもは聞いた事のないような甘えた声を病院のお姉さんに出していて、リンはよそ様にはこんな甘え声を出すのだなあ、と思ったこともある。でもリンなりに、なんとか他人様に気に入られようと苦労していたのかもしれない。

そういえば、我が家にしばらく親戚の若い女の子が住み着いていた時、彼女が仕事から帰ってくる時分にあんると、玄関あたりで物音がするとリンは騒がしくピーピー飛び回り”お姉ちゃんがかえってきた、かえってきた”とはしゃいでいたのも思い出す、ホントに若い女の子が好きだった。

ところで母がいる時から飼っていたせいで、私はインコを「子」としてはみなしていなかった。だから人様に”リンちゃんのママ”と言われる事に違和感があった。まあ、言い返す事でもなかったけれど。私からすると年の離れた”弟”みたいに考えていたのかもしれない。
リンからすれば私はどんな存在だったのだろう? ”ご主人”にしてはかなり態度がでかく、自分のほうが偉いぐらいにふるまっていたけれど。ただ明らかに若い女の子とはリンの態度は違っていたと思う(笑)。

そんな風に生意気だけど手のかからない元気なリンだったが、3-4歳の時に一度、緑青色のフンをしてグッタリしてしまった事があった。お医者さん(キーちゃんをみてくれた獣医さん)に連れていくと「なにか悪い金属を食べたかも(金属中毒)」と言われ即入院、先生にも覚悟するようにと言われたけれど、持ち前の生命力で奇跡的に回復!
ただ回復した後、私は旅行予定があり、そのまま入院延長したせいで旅行代金と同じぐらいの入院費用を払うはめにはなったけれど。

病院費用と言えば、その後レントゲンを撮ったら「腫瘍があるかも」と言われ、さらにその後、鼻水がいつも出ていて、注射器のようなもので鼻を洗うことになった。
その後も定期的に病院来るように言われ、鼻を洗うごとに5000円近くとられ、それを1-2か月に一度は来るよう言われたのだけど、鼻水はやまず、腫瘍も変化なく、言った先生本人が腫瘍の事なんて忘れ去っていて。
その他にも以前の治療も忘れてたり、さらにその先生に最大の不信感を抱いたのは、インターンさんが見学してた時、いつにない猫なで声で「リンちゃん、どうしたの?」みたく話かけていて・・・あまりの態度の違いに”はあ?”ってなって・・・
ちょうど別の鳥の病院が出来たので、その後はそちらに転院した。

鼻洗わなくなり、ココナッツオイルとか塗ってたら鼻水も治り、たまに風邪っぽい時に病院に連れていくぐらいで、うちのリンちゃんは元気に生き続けてくれて・・・いつしか平均的なインコの寿命を過ぎていた。
ちょっと長い旅行に出かける時も、自称”インコスキー”な友人のお宅で預かって遊んでくれてたお陰で、ストレスなくいつも過ごせていたのもよかったのかもしれない。
10才ぐらいになった頃からは、心の準備はしていたけれど、さすがにコロナの頃は旅行にも行けない中「今は亡くなっちゃダメだよ」と頼みこんだおかげか、バンクーバー、ピョンチャンに続き、この前のペキンと三度の冬季五輪も共にテレビ観戦することができた。


それでも最近のリンちゃんは換羽期になると以前よりだるそうで、さすがに年のせいかなと感じる姿も見られるようになってきていた。
そして今年の3月頃、また体調を崩した。春先、寒暖の差がはげしく、ちゃんとケアしてなかったせいかもしれないが、いつものように復調せず、ごはんをあまり食べず、フンも柔らかくじっと動かない事が長く続いた。


病院で見てもらったが、あまりはっきりとした事は言われなかった。「病院であずかることもできますがどうします?」と言われたけれど、お薬をもらって家で世話することを選んだ。

数日するとフンが前より固くなり、少ないながらもエサをかつかつと食べるようにもなった。かと思えばリンは半日ぐらいほとんど動かずそんな時は寒いのかなと、私の手元で暖かい布にくるんであげたりしていた。すると夕方ぐらいになると急にに動き出し、ものすごい勢いでエサを食べだし、まるでゾンビのように「リンちゃん!」と呼びかける私の声も無視してエサを食べ続け、その時は無理やりエサからひきはなし、ケージにもエサを入れずに寝かせた。
すると朝には元にもどっていたてまたグッタリしていて。
普段は触られるのが嫌いでモフモフもさせてくれなかったのに、調子が悪くなってからのリンちゃんは、触れてとでもいうように向こうから近づいてきてくることも多くなった。ある時などは寒かったのか、私の着ていたセーターの襟首から中にもぐりこんだこともあった。

ただ、ちょっと調子がよくなると触れられるのを嫌がり、逃げたりもあったので、このままよくなるかな、と思うとまた悪くなりを一ヶ月ほど繰り返していた。お医者では「頑張っていますね」とまた2週間後の診療を予約し、帰ってきた翌日などは、最近はめったに飛んでこなかった台所にまで飛んできて、いたずらをして、いよいよ元気になったかな、と思った翌日。またエサをほとんど食べなくなり、動かなくなった。そして私の手の中に首をつっこんでくる。なでてあげると気持ちいい、というように小さく羽をふるわしていたけれど、翌日には同じようになでてもほとんど反応しなくなってしまい・・・。
その朝、リンちゃんを暖かい布でくるんでひざの上にのせていたら、急にバサバサと羽を動かしだし、あわてて温風ヒーターをつけて会叩貯めたけれど、私の手の中で何度かつらそうに体を動かしたあと、いつの間にか動かなくなっていた・・・。
いつなくなったのかわからなかったけれど、私の手の中でリンは虹の橋の向うへ行ってしまった。

正直、長患だった父や母の時以上に涙が出た。父や母より介護の時間が短かったからかもしれないけれど・・・。
それでもリンは、ちゃんと私が納得できるぐらいのお別れの時間をくれて、私の手の中で亡くなってくれた。本当に飼い主のために、せいいっぱい頑張ってくれたのだと思う。4月28日、13歳と5か月。まだリンがかじっていた紙の端切れを見つけるたび涙が出るけど、でも本当に感謝しかない。
リンちゃんについてはまだ書きたりないので、また思い出をつづるかもしれない。
というわけで、ちょっとダラダラ長い我が家のインコの話はこれで終わる。
本当にインコたち、今まで私を、そして我が家をささえてくれてありがとう!


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