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インコと我が家の物語①

イヌやネコが嫌いなわけじゃないけれど、我が家はずっとセキセイインコばかり飼い続けてきた。
ちょっとズボラでいいかげんな我が家の気風にあっていたからかもしれないなあ・・・

第一章 最初のインコ チッチ


小学校低学年の頃、母の知人宅で生まれたセキセイインコ一羽ををいただいた。
黄色と緑の原種に近い色のその子は"チッチ"と名付けられた、ほぼ我が家初の(ヒヨコとカメも飼ったことはあったが)ペットであるインコは、かなりでざっくりと育てられた。
兄は「飛ぶ特訓」と称し、インコを手で持ち上から落とした。マットレスを下にひいていたとはいえ、今思えばひどい扱いだ。でも「巨人の星」や「アタックNo1」世代の子供だった私も、そんなものかと思っていた・・・げに昭和は恐ろしい。
チッチは幸いにも丈夫で、飛ぶこともおぼえかなり達者に飛ぶ子だった。鼻色の青いオスだったせいか人にもなつき、いわゆる手乗りにもなった。おしゃべりこそしなかったが扱いやすいインコだった。
特訓にも耐えたチッチは丈夫だった。
家族旅行する時は、数日間、留守宅に放置された。
エサと水はたっぷりと入れてあげたが、当時くそ暑かったプレハブ家屋の中で留守番をさせられていたのだ。もちろん冷房等ないし、冬もカゴは暖房等ない廊下に置かれていた。
がさつな母が部屋のドアを閉める時、チッチの頭をはさんでしまった事もあった。母はそんなインコの頭に赤チンを塗り、それは当時でもかなり衝撃的ビジュアルとなったが、それでチッチは元気だった。
チッチは当時にしては長寿で、約7年ほど生きていた。
私が高校生になったある日、留守宅に帰宅した私の勉強机の上に白いティッシュの包みがあり、そこに動かなくなったチッチが横たえられていた。
その横にはメモがあり、「チッチが亡くなりました」と書かれていた。
そのメモを書いた母は、なんとか早くかわいがっていたインコの死を知らせてあげようと思ったのだろうが、さすがに心臓がドックンとするぐらい驚いた。携帯がない時代ならではの話だけれど・・・。
乱暴に扱われながらも慣れて長生きしてくれたチッチ。
そんな彼のおかげで我が家はその後もセキセイインコを飼い続けることになったのかも、と思うと我が家にとって偉大なインコだったと言えるかもしれない。

第二章 美人薄命なシロ

チッチを飼っていた頃は、世間でもかなりのセキセイインコブームだった。
飼っている友人も多く、我が家の前のお宅では庭に大きなケージを作り、大量に飼っていたりもした。
ある日、その前のお宅のおじさんが、我が家に一羽のインコを分けてくれた。それは真っ白で目の赤いとてもきれいなインコだった。
シロと名付けたその子は、いわゆるアルヴィノ(白子)で、そのせいかとても体が弱かった。先輩鳥のチッチのようにうまく飛べないし、いつもお腹の調子が悪いのかお尻にフンがくっついていた。
ある日、カゴ掃除をする為に放ったインコたちを風呂場に入れた。チッチは飛び回り捕まえられないのでいつもそうしていて、シロも一緒だった。
掃除を終えお風呂場を見に行くと、シロは風呂の残り水に落ち亡くなっていた。
不注意だった。うまく飛べない子なのに、風呂にふたをしないまま放鳥してしまっていたのだ。事故がなくとも短命だったかもしれないが、子供心にこちらの不始末で死なせてしまった事のショックは大きかった。
それがインコが亡くなり泣いた最初の時だった。

第三章 母性愛が強すぎたタロウ

その後、ご近所で迷子のインコが捕獲され我が家に連れてこられた。
「お宅、インコ飼ってるから」という単純な理由だった。
あまり人にもなつかず、手にも乗ろうとしなかった。意地の強そうな顔だったのでタロウと名付けが、実はメスだった。
なぜわかったかというと、卵を産んだからだ。
ちょうどそのころ我が家は家の建て替え中で、一時的に祖母の家に間借りをしていた頃だったが、そんな理由でインコらの為にも新居=巣箱を買ってきてカゴに入れてあげた。タロウはその後も何個か卵を産み足し、タロウは字真面目に巣箱に閉じこもり温めていたが、父親?のチッチは未経験なせいか、外に出て我々と遊ぶことのほうが多かった。
残されたタロウは巣箱の中から文字通りブウブウとなんか不思議な声を出したりしていたが、何日しても卵は孵らず、おかしいなあと思いはじめたある日、気づくとタロウは巣箱の中で亡くなっていた。
今思えば無精卵だったのかもしれない。早く気づいて卵から解放してあげなければいけなかったのだが・・・またしてもこちらの知識が足りないせいで、インコを死なせてしまった。本当に申し訳ないことをした。

第四章 天才ピーちゃん

こうして二匹を亡くし。長生きしてくれたチッチを勉強机の上で見送ったあと、しばらく我が家からインコが消えた。兄は大学生、私も高校生となりペットと遊ぶ暇もなくなっていたのもあった。
でもある日また、ご近所から保護したインコが連れてこられた、たぶん私も大学生になっていた頃だったと思う。
身体が水色で顔の白く鼻の青いオスのその子は、ピーちゃんと名付けた。
ピーちゃんは前の家でも手乗りとして育てられていたのか、すぐ人間に慣れた。それだけでなく、ピーちゃんは言葉まで話すようになった。
ピーちゃんに特別に言葉を教えた記憶はない。
最初は自分の名前を”ピーちゃん”と言えるようになり、その後も自分から色々な言葉をおぼえていった。
たとえば朝、カゴの布を開けると「オハヨウ」と言い、みんながごはんを食べる前には「イタダキマス」を言うようになった。そして水の音が好きなのか、母が食器を洗う時には肩の上に乗り水の音を真似して泣いた。なかなか片付けをしないでいると「オイシカッタ」「チャプチャプイコウ!」と食事を終えて洗い物をするよううながしたりもした。
間違いなく、ピーちゃんは我が家史上最高の天才インコだった。
そんな賢いピーちゃんだったが、ちょっと太めだった。文系だったのか運動神経もイマイチで、飛ぶのもイマイチ重そうだった。
それでも会話をするインコは我が家の人気者だった。
今だったらスマホやらで動画を撮りまくっていただろうけど、まだ昭和の時代ので写真が数枚と、私の書いたつたないスケッチぐらいしか残っていない。
ピーちゃんはまさに我が家の”幸せの青い鳥”だった。
そんな愛されたピーちゃんだったけれど、やや肥満とかもあったせいが、それほど長くは生きていなかった。それでもだいたい我が家で5-6年は飼っていたと思う。
幸い?亡くなる時もあまり苦しむ姿を見ないですんだ、。ある朝、カゴの中で亡くなっていたのを朝、気が付いた。最後まで主人に手をかけない良い子のインコだった。
当時は父母も元気で我が家もにぎやかで楽しい時代だったから、ピーちゃんの思い出は幸せなものしかない。
ピーちゃんが亡くなった後、父も体を悪くして入院した。
母も父の介護をしなくてはならず、また我が家ではその後しばらくインコと疎遠になっていった。

※父の病気についてはこちら→ 「父と病気」

第五章  頑張り屋のルーちゃん


父が亡くなった後、兄も家を出ており、母と私の二人暮らしとなったが数年して私も近くでだが一人暮らしをようになり、たしかその頃、また一匹のインコを飼うことになった。
たぶん、母も寂しかろうとペットショップで見かけたインコを買ったのだ。
インコ日誌(母が主に書いていた)によると1993年の2月末、父がなくなってほぼ6年がたった頃だった。
インコの色合いもそのころは昔とかわり、その子は流行の淡いパステルカラーだった。
まだ子供で性別はわからなかったその子に私はルルと名付けた。けっこうよく鳴いていて、ルー大柴みたいと言ってた記憶もあり、ルーと呼ばれるようになった。
ただルーはとても早熟で、半年もたたないうちに卵を産みだした。一匹飼いだったのでもちろん無精卵だ。特に刺激するような事もなかったのに、ルーは卵を産み続け、ワンシーズンに7~8個は産み続けた。今思えば先天的に異常があったのかもしれない。ある時等は飛びながら卵を産み落としたこともあった。
そしてルーのウンコは他のインコのように小さくまとまらず、水気が多くてゆるくてビシャビシャで始末が悪かった。そして人にあえてフンをする悪癖もあったが、我が家の女性陣はヒマだったのでそれでもかわいがっていた。
ルーは女の子だったが自分の名前とバイバイぐらいは言えていた。あえて人のところにいきフンをするとか、頭は悪くなかったかもしれないのだが・・・。
それまでも卵の産みすぎのせいか体調が悪くなることも数度あったが、飼いだして4年目になる頃、ルーのお腹が膨れだして獣医さんに行った。そこでの診断は「卵管炎」だった。未成熟なうちから卵を産み続けたせいか卵管が炎症を起こしてしまったようだった。鳥が専門のそのお医者さんでも決定的な治療法はないようで、クスリを飲ませても病状はさらに悪化しお腹にお水がたまり、注射針で水を毎回抜くようになっていた。
貴重な鳥のお医者だったけれど、我が家から電車を乗り継いでいかねばならず、さらに先生は厳しくエサの事とか禁忌ばかりを言われ、正直、私にもストレスだった。直る見込みがあるなら、頑張って通ったのだろうけれど・・・。
それで勝手は承知でその鳥のお医者さんに通うのはやめ、近くの動物病院にお願いした。そこの先生は「腹水を抜くぐらいしかできません」と言われたけれど、それでもいいとお願いした。逆に近い所なので、お腹がふくらんだらすぐに行けるようにはなった。、
腹水がひどくてもう長くないと思っていたルーだったけれど、それでも数か月生き延びた。
今思うと先天的な異常だったかもしれないけど、ルーは我が家史上一番がんばったインコだったと思う。
そんな状態でほぼ2年も生き続けたのは面倒をみてくれていた母の為にがんばってくれていたのかもしれない。
ルーは21世紀を目前にした1999年の1月末、そんな状態でほぼ6才まで生きてくれた、本当に頑張り屋さんだった。
でもルーの死が、その後の我が家に大きな変化をもたらすことになったのだった・・・
(※そういえば、と、母がつけていたインコ日記があったはずと探していたら、かなり細かい事まで書いてあり、こちらの記憶間違いもあったので加筆修正しました。母の書いたインコ日誌も近日公開予定)

後編につづく → インコと我が家の物語⓶

※タイトルは”ぴーちゃん”
下の絵は”ルーちゃん”
どちらも自作の走り書きな絵でスミマセン・・・

ルーちゃん


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