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父と病気

「この人は本当なら、もうかなり前に死んでいますよ!」
と、母は父のことを見てもらった占い師さんに言われたそうだ。
まあ、そう言われても無理はない、父の生涯は病気や死と隣合わせの人生だった。

昭和2年(1927年)に生まれた父は実は次男。上に兄がいたが、生まれてすぐに亡くなったらしい。
父もそれほど頑健ではなさそうだったが、それでも普通に入隊する程度に健康だった。戦争後期で多少は選抜基準が甘かったのだろうが、予科練へ入隊し、その中でそれなりにやっていたと思う。
海軍航空隊に在籍し、いつ特攻隊として死への片道飛行に出てもおかしくはなかったが、一人息子なのが考慮されたのか、後回しにされたおかげで戦争では命を落とさずに済んだ。

しかし終戦後、再び父に死神が近づく。
実家に戻った父は、戦後の東京で満足な栄養も取れない中、勤めながら夜学に通ったりの無理もあったのだろうか、多分その頃(はっきりわからない)結核にかかってしまう。
当時、結核といえば死の病だった。
父も結核の療養所に入院し、そこで死と直面する日々を過ごすことになる。

だが奇跡的に当時"新薬"といわれたストレプトマイシンがあらわれ、そのお蔭で父は一命をとりとめる(※日本では1950年ぐらいに本格生産、実用化されたらしい)
裕福ではない中、まだ高価だったその薬を使う為に、父の実家はかなり苦労したに違いない。
父方の祖父母は喜怒哀楽をあまり出さず無口だったからその当時の話は残念ながらあまり聞いてはいないが、入院、治療にはお金もかかるし大変だっただろうが、なんとか父は一命をとりとめた。

結核が直ったとはいえ、父は肺の半分近くを切除した。その手術をする為に、肋骨も数本切り取られていて、その背中には、肩甲骨沿いに大きな手術痕が残っていた。
肋骨がなくなったせいで、その背中は左右不均衡な形だったし、それ以上にその後の生活に影響したのは、肺切除のせいで肺活量がなくなった事だった。

あと一つ、この結核が父に大きな変化をもたらした。
それは父がキリスト教(プロテスタント)に入信した事だ。
海軍時代もだろうが、死と背中合わせ療養所生活で、父はそれを決意した。元々、父の叔母も信者で、入院中の父にすすめたのもあったようだが、当時の結核療養所では、同様に死を前にした人たちが聖書を読んだり入信する事は少なくなかったらしい。

そんな父だが、その後母と結婚し(このくだりは他で)、会社に勤め、兄と私という子をもうけ、家を建て・・・そういう普通の生活をおくる事が出来ていた。
ただ家へ向かう駅からの道には急な坂があり、そこはかなりつらそうだったが・・・それでも父は歩く事自体は嫌いではないようだった。
私や兄が小さい時は、夏になるたびに山への家族旅行を行った。
楽ではなかったはずだが、そうやって山歩きをする事は好きで楽しそうだった。泳ぐことも嫌いではなく、幼い私や兄を連れてプールにもよく行った。大きな手術痕も気にせず(本人には見えないからかもだが)我々に海軍仕込み?の泳ぎを教えてくれた。
むしろそうして運動することで、自分の肺の機能を鍛えようとしていたのかもしれない。
それでもそれほど体力のない父は、普段はあまり運動するわけでもなく、酒もほとんど飲まず、会社から帰り食事をすませると、好きな本を読みつつうたた寝する事も少なくなかった。
会社の担当医?がそんな体力のない父を思いやって、一番軽度のものだけれど、身体障がい者手帳をもらってもいた。

そんな父があまり"特別"に感じてなかったのは、我が家の環境もあったとは思う。
叔母(母の姉)も元結核患者でやはり身体障がい者手帳を持っていたし、偶然にも我が家の2軒隣で兄の同級生の家の奥さんも、やはり結核で手術し、身体障がい者手帳を持っている方だった。
その家のご主人は貧しいながら苦労して中学の校長先生にまでなった方だけれど、彼女が病気の時も交際し、何度度生まれ変わっても彼女と結婚する、という話をするほどのロマンチストだった。
ただ父や叔母やその奥様らは、新薬が間に合った運のよい人たちだったのだな、と、今になって思ったりもする。そしてその運がなければ、私達兄弟やイトコ、兄の同級生もこの世にはいなかったという事だ。

さて、父は身障者ながらも、右肩あがりで成長していた時代の電気会社に勤め、残業も多かったけれど、それなりに充実した日々を送っていた、と思う。
日曜にはまだ寝ている家族を起こす事もなく、1人、1時間以上も離れた昔なじみの教会へと向かった。たまに気が向くと、母よりこじゃれた我々の朝食まで用意しえくれた事もある、そんな父だった。
教会の礼拝に出て、讃美歌を歌い、そのあと教会の仕事等も手伝ったり、と、そんな平穏な日々が終わりを続けたのは、たぶん父の転職がきっかけだった。

55才を迎えた父は、働いていた電気会社を退職し、その関係の電気部品の代理店?へと転職することになった。
そこで父は営業関係の仕事をすることになったが、もとより理系男子、しかもあまり社交的とはいえないタイプの父にとって、大会社とは違う小さなコミュニティの中での慣れない仕事は大変だったようだ。
しばらくしてストレスからか、父は帯状疱疹という病気にかかった。

帯状疱疹自体はそれほど難しい病ではないが、体が元々弱かった父は、治療の遅れと症状がひどくかったせいでか、直ったあとも足の痛みが取れなかったのだ。帯状疱疹後神経痛と言われるものらしい。
ズボンでスレただけでも痛いらしく、歩くことも苦痛になった。
痛みを消す為に"神経ブロック注射"というのも試みたが、一時はおさまったものの、またしばらくして痛みがぶり返してしまい、結局その痛みは消える事がなかった。

そんな状況で父は仕事を辞めたそうだったが、母は父が働かない生活に不安があったのか、それとない父の言葉にあまり良い顔をしなかった。
自分の意見を押し付ける事のなかった父は、痛みをかかえたまま、満員列車に揺られ仕事に向かっていたのだが・・・そのうち、別の病気が父の体を襲った。
ひどい咳が止まらなくなった父の胸をレントゲンで撮ったところ、その切り刻まれた肺には、なにか黒いものが広がっていることがわかったのだ。

父は入院した。
通っていた教会関係の方の紹介で、我が家からは遠いが、胸部疾患では定評のある都内の国立病院(元は結核療養所)に入院する事が出来、そちらで手術をすることになった。
その手術後、執刀医の先生は、その父の肺から取り去った物を我々に見せてくれたのだが・・・子供の脳みそぐらいありそうな大きなそのかたまりは、腫瘍ではなく、なんと"カビ"だと説明された。
父の病気は肺真菌症という病気だった。
弱っていた父の体の中にカビの菌が入り込み、それが肺を侵食していたのだった。

手術は終わったが、切除部位が大きく、父の身体にはそこからの出血を止める力がもうなかったのか、その後ずっと出血が止まらなかった。
父の胸にさされた管からは、たえず血が流れ続け、その血はベッドの横に置かれたガラス瓶の中に少しずつたまっていった。
ビンがいっぱいになると、また空のビンに交換される、だが、またそれもいっぱいになり・・・
出血を続ける父は当然血が足りなくなるので、常に輸血をしなければならなかった。
同じA型の私ももちろん何度か輸血を提供したが、それでは足りず、父の知り合いの多くの方々が父に輸血をしに来てくださった。

管につながれた父は、一度も家に帰る事もできないまま、半年以上も入院していた。
輸血しかなすすべなく、父の体はだんだんと弱っていた。
入院は半年は超えていたかと思う。
そんな中で、私が念願だったアニメ(それも父の好きなSF物)のシナリオの仕事をしていた事や、兄が結婚相手を連れていく事ができたのは、わずかながらも親孝行になったのかもしれない。

若い頃から療養生活をしていた父は、一度も家に帰れないそんな長期の療養生活でも淡々と過ごしていた。看護婦さんやお医者様にも、本当によくしていただいていたし。
ただ母は大変だった。
病院が家から遠かったので、当時、都内で一人暮らししていた兄の家に寝泊まりして、看病に通うことが多くなっていて、その母の方が先に精神的にまいっていたようだった。
私が看病にいった時、父は私に、母が少しおかしくなってるみたいだ、と告げた。
そしてある日父は母に、家に帰れ、と言ったらしい。
母が私に「家に帰れ、っていうのよ」と、少し怒ったように告げたが、それは父が母を気遣って言ったのだろうと思う。

父はその頃、かなり朦朧とすることも増えていて、意味のわからない事を口走ったりするようにもなっていた。
そこにありもしない「ケーキ食べろ」とか、私に言うこともあった。
そして母にはこんな事も言ったらしい。
「もう、神様にそろそろお迎えに来てください、と頼んだんだ・・・」と。

ある日、ちょうど仕事を終えて手すきだっただったので、兄の家にいって少し休んできたら、と母に言い、私が父についている事にした。
長期の輸血等もあって肝機能も悪化し、黄疸になり、父の足はひどくむくんでしまっていた。
眠っている父のその足を、私はいつものようにもんであげていたのだが・・・

すると、急に部屋に看護婦さんがとびこんできて、父の様子を確かめにきた。
たぶん数値に変化があったのだろう、すぐにお医者さまらも部屋にきた。
私は兄の家にいる母に電話して、あわてさせないよう気遣いながら、なるべく早く病院に来て、と告げた。
しかし、その母が戻って来る前に、父の臨終が告げられた。
父は希望通り、やっと神様の所へ行くことが出来たのだ。

父の死の直後、父の最後の勤め先の社長さん夫妻が偶然にもその時、お見舞いに来て下さり、会社関係への連絡等をして下さった。
父と長年のお付き合いがあった教会の牧師さんもすぐに来て下さった。
牧師さんは、父が自分が亡くなった時、母が動揺するのではないかと心配していた、と教えて下さった。そう多分、父は私がそばにいる時を見はからい、天国に向かうことにしたのだな、とその時思った。死ぬ時まで気配りをかかさない、そんな父だった。
生前、父が言い残していた通りに、父の身体は解剖されることとなった。その後、同じ病気になっった方々のお役に立てるように、と。

父のそんな心遣い?のお蔭で、母も取り乱す事なく父の死を迎える事が出来た。
そんな母だが、冒頭で「この人は本当なら、もうかなり前に死んでいますよ!」と言った占い師さんは、母の存在があったからこそ、ここまで生きてきた、とも言っていたそうだ。
本当にそうなのかもしれない。
母がにぎやかに大人しい父にハッパをかけてきたからこそ、父はイヤイヤ、でも実はそれなりに楽しい人生をおくり、ここまで生きながらえる事が出来たのかもしれない、と今は思う。

もうすぐ父の命日、12月20日だ。
あの時、還暦を迎えるほんの2ヶ月前に、父はこの世を去った。
その後、60才を過ぎたら保険の金額が大幅に減った、という事実を知った我が家の家族は、またもや父に、感謝するしかなかった。
病気がちな父だったけど、いや、病気がちな父だったからこそ、周囲への細やかな心配りができたのかおしれない。
本当に、父は最後まで周囲を気遣う昭和の男だった。

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