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母と旅行

果たして母は旅行が好きだったのか、それはいまだによくわからない。
昭和6年に生まれた人だから、戦後、青春時代を迎えてからも、今のように若い女性が自由に旅行に行ける時代ではなかった。
母から聞いたのは、結婚前、職場の同僚がミスコンに出場することになり、その付き添いで福岡に行った、という事ぐらいだ。

そして父と結婚し母は憧れの東京へ。
新婚旅行は熱海あたりへ行ったようだが、貧乏公務員で両親も養っていた父との結婚生活では旅行に行く余裕もなかったのだろう。

その後、父が民間企業に転職しても相変わらずの薄給、そして兄や私という子供がいる身では、どこかへ行くと言えば長崎への里帰りぐらい。
とはいえ、幼い子供二人を連れて長崎へ帰るのは、容易な事ではなかったはずだ。
関門トンネルが開通し、寝台列車"さくら"に乗れば帰れるとはいえ、当時住んでいた川崎のド田舎から、東京へ出て電車に乗るのも一苦労、さらに珍しい三段式の狭い寝台列車にはしゃいだり泣いたりする子供二人を連れての移動は大変な事だったと思う。
それでも親戚たちがいる長崎への帰郷は、母にとって大きな楽しみだったはずだ。子供の我々も、親戚たちと田舎の海等へ行った楽しい記憶が残っている。

我々子供達が小学生になると家族旅行へ行くようになる。
「父と旅行」で述べた通り、父が計画した会社の契約宿舎等に泊まる鉄道旅行だった。
それほど山や電車に興味のない母だったが、旅先で珍しい木や花を見るのは楽しそうだった。花道を少しだけかじっていた母は、草木の知識はそこそこあり、今ほど厳しくない当時、珍しい草花等を旅先で採取しては我が家で育てたりもしていた。
今も我が家の庭には、母が連れ帰った植物の末裔が居座っているのだろう、そのお蔭で、私も普通より少しだけは植物の種類や名前を言えるような気がする。

さて、そんな子供たちが大きくなると、旅行に行くのは父と二人という事になるのだが、あまり二人では旅行へは行けなかった。北海道旅行へいったり、あと長崎にいた叔母(母の姉)夫婦と関西あたりで落ちあったりはしていたが、父はリタイアする前に身体を壊してしまい、結局、夫婦で旅行へ行く時間はほとんどなかったからだ。

父が病気で亡くなったあと(「父と病気」参照)、母はいきなり旅行をしまくる人になった。
父の看病疲れから、いきなり"はじけた"のかもしれない。
母はご近所の奥さんたちを誘い「びっくりバスツアー」なる日帰りやら一泊二日の激安ツアー等に頻繁に参加するようになった。
気の合うご近所さん達は、まだ旦那様が健在でそれほど時間が自由にならなかったりで、そんな中、一番ともに旅行していたのは、隣家の母より少し年上の未亡人だった。
お得意様に送られてくる分厚い旅行カタログから手頃なツアーを見つけて電話で予約をし、ひと月に1、2度はツアーに参加していたように思う。
あと一度だけ、仲良しのご近所さんと海外にも行った。
ヨーロッパ周回ツアーだったが、それまた激安で、パリだのドイツロマンチック街道だの、ローマだのを忙しくあちこち旅行してきた。
同行のオバさまは、すべてパノラマモードでカメラ撮影し、とんでもない事になっていたりと、お間抜けな珍道中だったようだが、彼女らなりに楽しい思い出になったようだった。

思い返せば、母は景色や名所を巡る、という点より「日常からの脱出」を楽しんでいたのではないかと思う。
旅行に出れば、好きではない"家事"等から解放される。
勝手にご飯は出てくるし、友達とずっとおしゃべりもしていられる。
そして"おみやげを買う"という大義名分で、大好きなショッピングも謳歌できるのだ。
だから、ツアーの質より、たくさんいける激安ツアーで十分だったのかも。

かくいう私も旅行好きだが、背景には母と似た部分があるように思う。
海外の景色や名所めぐりも好きだけれど、それ以上に"非日常"を味わいたい、という気持ちがある。
そんな利害の一致?もあり、私も母と旅行をした。
父の亡くなった後「母を案内する」という大義名分をふりかざし、なによりツアー代金を一部負担してもらえるのもあり、父の死後、何度も母と海外へ行った。

たいていは12月初旬。スポーツ観戦もオフで暇だし、なによりツアー料金が安かった。
そしてこの時期はクリスマスシーズン前なので、どこの町もホテルもきれいに飾り付けられているのも魅力でもあった。

マレーシア&シンガポールツアーは、鉄道で国境越えをしたくて私が選んだものだった。
なぜか同じツアーにすごく家がご近所のお一人様がいて、3人で一緒にシンガポールでカクテルを飲みに行ったりもした。
安い分、飛行機は直行ではなく途中、ボルネオ乗り継ぎで、その空港の土産物屋で母が1メートル弱の陶器のツボを買いたいとゴネだし大変だった思い出も今は懐かしい。やっとこさ、小さな壺を買うことで母をなだめたが、今もそれは花瓶として我が家で活躍している。

オーストラリアも行ったが、メルボルンステイの珍しいプランで、乗り放題の市電で市内を巡った。
この街はきれいで治安もよく食べ物もおいしくて、母とうろついた市場では当時珍しかったカプチーノを飲んだり、チェリーを買ったらとんでもない量で食べきれず困った思い出もある。
実は私の主目的はフェアリーペンギン見物だったのだが、母もオーストラリア名産の安オパール(本物?)アクセサリー等を買って楽しんでいた。
ただその頃から母は病気の影響か、よろけたりする事が多くなっていた。
病名がわからないまま、歩行が次第に不自由になってきていた母を、私はそれでも旅行に連れ出した。家にこもるよりは、出かけた方が気分転換になると思ったのだ。

そんな母との旅行で一番多かったのはハワイだった。
当時はツアーで行くと朝食券(クーポン)が配られて、宿泊ホテル以外でも使用出来たので、毎日、私と母は色々なホテルの朝食巡りをした。
ロイヤルハワイアンも良かったけど、やはりハレクラニでの朝食は最高によかった。
イケメン好きの母は、朝食会場の前の海岸の道を通り過ぎるカッコいい男子を見たりして楽しんでもいた。
お昼や夜はフードコートや、部屋でコンビニおにぎりとかですませることも多く、実は朝食が一番の贅沢だったりした。

母もハワイが好きだったが、良い気候なのはもちろん、日本語が通じるし、大好きなショッピングも不自由なく出来た点もあったと思う。
地元スーパーや土産物屋での買い物がメインだけれど、夜遅くまでデューティ-フリーをブラついたりしたものだ。
最後に母が行った海外もハワイで、その時は兄夫婦とコンドミニアムで合流した。
ハワイはトロリーバス等もあり、車の運転が出来なくても便利だけれど、やはり車の運転ができる兄が一緒だったのはありがたかった。
なにより家族で最後に一緒に旅行出来て良い思い出が出来た。

一番最後の母との旅行は、叔母(母の実姉)とイトコとで行った湯布院旅行だったと思う。
その頃、母は歩くのがかなり不自由になっていてたので、距離のある露店風呂までの道のりは、ゴルフみたいなホテルの専用カートで送ってもらったりして、そんなささいな事で笑いが絶えない旅だった。

その後、母は歩けなくなり寝たきりになった。
娯楽もテレビぐらいになってしまう。
それでもテレビの旅行番組等で「ここは前に行った所だよね、おぼえてるよね」と話すことは出来た。
そう、身体は動けなくても風や香などの雰囲気の記憶とともに、一瞬でもあの場所に行けたらと、私は母に話しかけた。

時代によって、事情によって、それぞれ旅行の意味は変わるだろう。
ただ、その時はどんな意味をもっていても、一期一会の旅行の記憶は、きっと大切なものだろうと思う。
母にとっても、誰にとっても。




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