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どうかここの草を刈らないで頂けますか。

以前住んでいたアパートの横に、ひっそりとした草むらがあった。玄関を出るとすぐ右手に十畳ほどの急斜面があり、草がたくさん自生しているような場所だった。道路に面していたため腰下くらいの高さのガードレールに囲われていた。特に近所の家の敷地というわけでもなさそうだったので僕はたまにガードレールを越えて草の斜面に座ってぼーっとしていた。様々な植物が生えていた。暖かくなると黄色や紫、白などの花も次々咲いた。虫たちは花の蜜を求めて飛び回り、彼らの営みを観察するのが好きだった。ある時その草むらから子猫の鳴き声がしたので、たまにお肉やシーチキンなどを置いて彼の成長を見守った。その草むらは、身体の小さな彼が外敵から身を隠すには絶好の場所だった。

ある朝、大きな草刈り機の音で目が覚めた。外に出ると草むらの草がすべて刈られてしまっていた。刈った草はそのままそこに放置されていたので、翌日には薄茶色の枯れ草まみれの場所になった。梅雨になると美しい花を咲かせる紫陽花まで根本から斬られてしまっていた。僕にはその行為の意味がわからなかった。あの紫陽花が一体誰にどんな不利益をもたらしていたというのだろう。まるで自分の身体の一部を切りつけられたような痛みと悲しみを感じた。草は刈られ、虫たちの棲家もなくなった。ああ、わたしはここが好きだったのに。みんなごめん。僕の知らないうちに全員殺されてしまって、何もできなくてごめん。あんなに豊かで美しかった世界の片隅を、こんな荒れ果てた世界にしてしまってごめん。住み着いていた子猫も移動したのか、以降ぱったり鳴き声がしなくなった。

しばらくすると草はまた生えてきた。ある日また草刈り機の音がしたので、僕は急いで外に出て草を刈っている男性に尋ねてみた。「あなたはこの土地を管理されている方ですか?」。男性は「ちがう」と言った。「ここの草を刈ることを誰かにお願いされたり、お仕事でされているのですか?」と聞いた。「ちがう」と彼は答えた。彼は定年退職後、ボランティアで近所の雑草の草刈りをしているという。「では、どうかここの草を刈らないで頂けますか」と僕はお願いした。男性は、意味がわからないという顔をして僕の顔を見た。「ここに草が生えていることが誰の不利益にもなっていないのであれば、僕はここの景色が好きなので、どうか刈らないでください」ともう一度頭を下げてお願いした。相変わらず彼は何を言っているのかわからないという顔をして僕を見ていた。僕は彼に「ここに生きている草や花、虫たちを美しいと思いませんか?」と尋ねてみた。彼は草むらを一瞥して「美しいとは思わん」と即答した。美しいとは思わん。雑草が生えていて誰も刈らんから刈っている。俺はそれを個人的なボランティアでやっている。始終そんな調子だった。押し問答だったが、さすがに僕のことがめんどくさくなったのかブツクサ言いながら去っていった。

「植物を刈る」という行為に対して、僕はなぜかとても抵抗がある。まるで自分の身体の一部を切られているような痛みさえ感じてしまう。もちろん事情があって刈る必要があったり、誰かにとって何らかの害になっているならやむを得ない。だが、せっかく生えてきた命やそこに棲息する生き物たちの住処をなんの理由もなく無意味に奪わないであげてほしいと思ってしまう。あの男性は「雑草」と呼んだが、それらはオオバコ、ヨモギ、セイタカアワダチソウなどちゃんと一つひとつ名前があって種類によっては食べられるものもある。花が咲けば蜜を求めて蝶や蜂が寄ってくる。ちょっとした草でもトンボやコガネムシの休む場所になる。葉っぱの裏にアブラムシやテントウムシの幼虫たちが暮らしている。それらの虫を狙って小鳥たちが飛び交う。彼にはそういう景色はまったく見えていない。生態系の物語が眼の前で繰り広げられていても見えていないので、神秘を感じることができない。「雑草が生えていて誰も刈らんから刈っている」。彼の中の物語はそれだけだ。とても貧しい物語だ。豊かな生態系は死滅し、枯れ草だらけの荒廃した世界が作られる。彼はボランティアと言ったが、それによって別に誰も得をしていない。切った草を何かに使うわけでもない。ただただたくさんの生き物たちの棲家が奪われただけである。心が貧しくなると、見える世界も貧しくなる。しかも彼は自分の心の貧しさや、自分の心が作り出してしまっている世界の悲惨さに気づくことすらできないのだ。

逆を言えば、心が豊かになれば見える世界も豊かになるということでもある。その昔、神奈川県の藤野で行われたサバイバル食イベントに参加した時、とある野草食研究家の先生が食べられる野草の種類と美味しい食べ方を教えてくださった。その先生は「“雑草”という植物はない!」と仰った。別のサバイバル食研究家の方には、ヘビやカエル、ザリガニやミドリガメ、昆虫や川の虫などを調理したものを食べさせて頂いた。それ以来僕はすっかり野食ハントにハマった。そのへんに生えている食べられる野草を片っ端から採ってきて、天ぷらにして普段の食生活に取り入れた。虫はあまり積極的に食べる気にならなかったが、食べようと思えば捕まえて食べられることはわかった。節約術とか貧乏飯とかそういう類のものではない。「地球を食べる」という感覚だ。普段の食生活に「地球食」が加わっただけである。手に職をつけることを「食っていく」と表現するが、地球で生きているものを「食っていく」ことができるなら、地球にいる限り僕らは何があっても食いっぱぐれることはない。それはとても豊かな、安心感のある人生ではないだろうか。

日向神話ゲストハウスVIVIDはもともと空き家だったため、建物の一部を大きな蔦植物が覆っている。住む上で邪魔になる部分は切ったが、それ以外は基本的にそのまま残している。大量の蔦に覆われながら45年間生き残っているこの家の生き様を、僕は結構リスペクトしている。この蔦こそがこの家のアイデンティティであると言っても過言ではない。これまで何人かの人に「あの蔦は全部切った方がいいよ」と言われた。不思議なことに、僕と仲良くしてくれている人にはそんなことを言う人は一人もいなかった。みんなこの蔦が好きだと言ってくれる。この蔦が家を守っているとさえ言ってくれる。「蔦を全部切った方がいい」と言ってきた人は全員、僕が名前も知らない人たちだった。なぜなら彼らは自分の名前を名乗りさえせずいきなり「アドバイス」してくるからだ。もちろん近隣の家の人というわけでもなく、特に何の関わりもない通りがかりの人だ(もしもあの蔦が誰かのご迷惑になっているなら僕だって流石に対処します。もしもそういう人がいたら面と向かって言ってほしいです)。

眼の前に美しい光景が広がっていても、何も感知することができない人というのがいる。彼らは神様からどんなに恵みを受けていてもそれを受け取ることができない状態になっている。この世界で起こるすべてのことは、自分の庭のほんの一隅でもまったく同じことが起こっている。心が貧しくなれば見える世界も貧しくなる。心が豊かになれば見える世界も豊かになる。感じること、考えることを諦めていない成熟した大人たちと、つつけば泉が溢れ出るような真っ直ぐな言葉を語り紡いで僕は生きていたい。

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