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”認知負荷”と“百聞は一見に如かず”

認知負荷

認知負荷という言葉を知っていますか?
イギリスに留学していた時に心理学の勉強をして、その時かじった知識の一つなのですが、すべての人間の認知の根底にあるシステムを理解するのに重要で、知っておくことで世界の見方が、1mmくらいは変わる、かもしれないものです。

私達は普通に生活しているだけで非常に多くの情報を処理しています。
視覚は私達の得る情報源の8割をなすとも言われます。街を歩いていると多くの人とすれ違う、広告が目に入る、信号を見てチカチカしだしたから、走り出す。視覚は大事だけど横断歩道を渡るときには、意外と聴覚が大事なことにも気づく。イヤホンをつけていて背後から車が来ていることに気が付かなかったり。そうして無事対岸にたどり着けば、鼻腔をくすぐるジャンクフードの匂い。今日はこのお店にしよう。

さて、あなたはその日すれ違った人の顔や服装をどれだけ覚えているでしょう。あの巨大なスクリーンにはなんの広告が流れていましたか。イヤホンを外してから耳に入ってきていた他人の会話をどれだけ思い出せますか。

生きているだけで遭遇する情報の量は、優秀な人間の脳の処理能力を遥かに超えます。だからこそ脳は正攻法でなく、ある手段でこれを解決しました。そうだ、全部を馬鹿正直に処理するのはやめよう。認知負荷の考え方です。
脳は、情報を処理せず受け流し、必要と考えられるものだけを抽出し処理している。それを自然に行っています。賢く横着なのです。

その機能を垣間見られる現象の一つで有名なものに、カクテルパーティー効果というものがあります。心理学では知覚や認知といった分野で研究されていると思います。簡単に説明すると、多くの人が話しているパーティーの中でも、自分の名前が呼ばれたら気づくことができる。これがカクテルパーティー効果です。雑多な会話や音楽は意識のステージにのぼること無く処理され、自分の名前という重要な情報は、意識と無意識の輪郭にあるドアを破って、人をその方向に振り向かせる。
人がどのように情報を知覚、認知しているのかに関しては、Trelsman’ s attenuation model、Broadbent’s Filter Modelなどいくつかのモデルがあり、話の本筋からそれるため割愛しますが、私達の脳は、無意識下にこのように情報の取捨選択を行っています。

アジアスケッチ

さて、心理学の現象について突然たらたら急に書き始めたきっかけになったのは、友人が貸してくれた本でした。高山義浩先生のアジアスケッチという本を読んだのです。

高山先生が学生時代にアジアを横断し、その地域や文化と自身の輪郭を溶かして触れ合うような旅をする中で、感じたことや考えたことを書かれている本でした。
百聞は一見に如かず。直接その場所でその現実に自身をさらし、五感を使ってまざまざと体感する。訪れる場所に根付く価値観や、そこに住まう人の考えの一端に触れた先生を通して、現地をぷかぷかと浮いて漂っている感覚になりました。とても面白くて刺激的だった。

この本を読んで思ったこと。きっと百聞は一見に如かず。
今まで行ったことのない国に触れて、今ある常識の壁の一部を粉々にしてほしい。そういう旅をしてきたようで、まだまだ行ってみたい場所はたくさんある。
ではなぜ百聞は一見に如かずなんだろう、心理学に出てくるスキーマという考えが、このことを考える時に大きな手助けをしてくれる気がする。

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スキーマという横着

私達の脳が使う賢い横着の一つに、スキーマというものがあります。
僕の使っていた教科書には
“A mental framework or a body of knowledge that organizes and synthesizes information about something”
要するに、僕たちは多くの情報を今までの経験などから培ってきた枠組みに当てはめることで、処理を簡単にしています。簡単な例を上げて説明しましょう。

中学高校と電車通学をしていた僕にとって、2回や3回の電車の乗り換えなんてお手の物です。でもそれが、違う国となったら。どこでチケットを買うの?え、このチケットどこにいれんの、とあたふたするところが容易に想像できます、というかそんな体験をしました。
しかし、何回か使ううちに最初の当惑などどこへやら、スマホをいじりながら難なくこなすことができるようになっていきます。新たなスキーマが構築され、特に意識をすることなく処理をすることが出来るようになっている。

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スキーマと偏見

さて今話した、スキーマ。もう少し範囲を広げてみます。連想ゲームです。
眼鏡をかけた男性。なにを連想したでしょう。賢そう?
入れ墨をした入浴客。え、銭湯入っていいの?
黒人と白人。この言い方が適切かはわからないけど、肌の色の違いで連想することに何か差はありますか?

スキーマが集団に適応され、否定的なニュアンスを帯びたとき、それは偏見と呼ばれます。
Racial stereotypeの研究の一つに、アメリカでの罪人の判決に関するものがあります。黒人の罪人のほうがそうでない罪人より重い判決を受けやすかった。
こういったステレオタイプは、幼少期に形成され、軽薄的な事が多く、集団を均質化したものが多いとされます。ネガティブなスキーマを形成しやすいことに関しては、また別の議論が必要になりますが、残りの2つに関してはスキーマの特性を考えれば至って自然なことです。

スキーマはなんのために生み出されたか。あまりに雑多で過多な情報に圧倒されることがないよう、脳が楽をできるよう、意識の蚊帳の外で情報を処理してしまうため、です。
普段の生活の中でそれを意識のステージの上まで引きずり出して、その本質を問いただす時間はどれだけあるでしょう。

タイ、と聞いた時に自然と頭に浮かんでくる単語。暑そう、笑顔の国、パクチー。
行ったこともないしあまり調べたことのない国に対して、瞬間的に頭をかすめるイメージ、スキーマってこの程度のものだと思う。タイに詳しい人は他の国でもいい、国じゃなくてスポーツでも、なんでもいい。紐付けされる情報は意識してみるとなんて乏しいんだろうと知る。それを知るためにはわざわざ行かなくても、今の時代、本やらネットで色々なことを知ることが出来る。

でもやっぱり行ってみたいと思った。すべての分野でそうすることは到底無理でも、自分が大切だとどこかのタイミングで感じた脆弱なスキーマは、変える努力をしたほうがいい気がする。国に関して言えば、同じ国だって行く場所や出会う人によって、形成されるスキーマは違ってしまう。だけど自分の目で見ることの価値は、やはり大きいと思う。最後にそれに関して簡単に書いておしまいにする。

3.11

3・11のあった2011年。震災の当日は学校に泊まって、震災の次の日、家に帰ってから見た津波の映像がもたらした、感情を掻き立てえぐるあの感覚は一生忘れないし、まさに衝撃的な光景だった。

2011年の夏、僕は被災地のボランティアに参加しました。実際に訪れた被災地。津波の高さが何メートルあったかなんてたくさんニュースで聞いた。でも、ボロボロになった高い建築物を見上げた時に見つけた波の到達地点、あの高さをあの地点で見上げて体感する波の高さの恐怖は、どんな想像力を持ってしても、どんな映像を持ってしても感じることはできないと思った。そしてその恐怖は震災の日に直に体験した人の恐怖には、到底遠く及ばないんだろう。それでも見に行ったことでスキーマの色だか形が変わった気がする。

国外も国内も、まだまだ行ってみたいところがたくさんある。働きだしたって、1週間でも1ヶ月でも、なんなら1年でも、行きたいところに行ける生き方をしたいなあ。

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