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伝承の濃度

平和記念公園、旧海軍司令部壕・海軍壕公園に行った時の話。
太平洋戦争で激戦地となった沖縄で、その痕跡を後世に伝えるための資料や展示がみられる場所です。
あまりに重くて、息が詰まって苦しく、神経をやすりで削られるような、そんな場所でした。その日の僕の心の容量では、すべての展示に目を通すことができなかった。それでも行ってよかった。そこで感じたことをつらつら書きます。

慰霊の日


“事実”をありのままに伝えることは不可能で、どこかでそれは必ず歪むし、立場によって解釈は変わるけど、最小限の得られた知識だけまずは書こうと思います。沖縄が激戦地となるまでの背景。

1930年代に起きた昭和恐慌。そんな不景気に対処するために、大陸に戦争をしかけて進出するといった機運が高まったらしい。戦争により局地的に景気が好転する現象は大戦景気と呼ばれる。その後、満州事変、中国大陸侵略が始まり、国際連盟を脱退、日本は世界から孤立した。国内では軍部が台頭し、その権力が国の舵取りをするようになり、自国の繁栄のため外国に侵略するファシズムという思想が日本を覆った。
書けば本になるほどの当時の情勢はあると思うけど、本当にざっくりと言ってしまうことが許されるなら、こういう流れの中で太平洋戦争は起きた。
そして太平洋戦争で日本は敗戦した。日付上は1945年8月15日のこと。
1945年3月頃から沖縄への米軍による進攻が激化し始めた。日本本土への攻撃の足がかりのため、米軍が沖縄をその手に収めようとした。圧倒的不利であることをおそらく承知の上、余力のなかった本土から、沖縄で米軍を食い止めろと、本土への進行を遅らせる時間稼ぎをするよう沖縄にいた人たちは伝えられた。そしてその圧倒的な戦力の差の前に、ついに奇跡は起こらず沖縄は米軍の手に落ちた。当時の司令官が自決したとされる6月23日が慰霊の日となっている。
大田司令官の電文。県や軍が崩壊してもなお、沖縄は最後まで戦うことを強いられた。
http://www.okinawainfo.net/kaigun.html
こういった歴史が、沖縄にはある。
観光地としての魅力的な側面ばかりみていた。
そこから振り落とされ、沖縄の持つ別の顔を、覗き込むことになった。

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死者の写真

当時の状況を図示、説明する展示以外に、当時撮影された写真や動画も展示されていた。
銃撃によって亡くなった方の写真。
「あ、展示していいんだ」そう思った自分がいた。
激しい銃撃の写真も、火炎放射の映像も、攻撃される側の人を視点とはしていない。そこで完結する展示って、その先で実際に殺された人のリアリティを描出していない。それらが伝えるのは、当時使われた殺傷道具の苛烈さ、無慈悲さ。
その無慈悲な攻撃によって本当に人が死んでいる、その写真を目にして初めて、攻撃のその先の光景に気持ちが及んだ事に気がついた。やっぱり僕の想像力は乏しい。その写真をもってして、まざまざと見せつけられなければ、あまりに稚拙な想像しかできなかった。
亡くなった方の写真を展示することへの抵抗が、自分の中にどうやら存在していた。教育的にとか、刺激が強すぎる、といってオブラートに包んで隠して、臭いものに蓋をすることは、本質的ではない。

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正義は立ち場・時代によって形を変える

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写真を見ていて思ったこと。
当時の人の持つ“死”への感覚ってどのようなものだったんだろう。

常識や前提、正義が違えば、正当化される行為や感情も異なる。
戦国時代においては、敵の将軍の命を奪えば英雄。
沖縄での戦争では、米軍の目標は日本兵の掃討。
兵士という仮面を被ってはいても、人を殺すことが正解とされた。
自身の命を投げうり、お国のため、と無謀とも言える特攻をすることが正当化された。

今の僕には絶対出来ない。大抵の人にはおそらく出来ない。それでも当時は多くの人が、人を殺めた。
生存本能、死への恐怖は、その時生きる世界の前提によってくつがえってしまうのかな。
狂気のような洗脳、崇拝のもとで、人を殺めることが良しとされたら、傷つかずにその行為に及べるのかな。
冷静でいられない、極度の緊張が持続する戦争という異常空間で、感覚が鈍麻しても、多くの人は、言葉で言い表せないような負の感情に押しつぶされていたんだと思う。そんな戦いを終えて休息に戻る空間が、あの防空壕で、軍服のまま立って身を寄せ合い寝ていたって、何がなんだかわけがわからない、理解が追いつかない。

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人の命

こういう資料をみていて、ひどく感情を揺さぶられた。
感情を揺り動かされる体験をしたとき、それを俯瞰して冷静でいることは難しい。感情に流されて短絡的な意見を持ちかねない。
どんな展示の仕方をしたって、既に書いたように状況を偏って伝えてしまうだろう。
だから今回の展示を見て、当時の軍の上層部が、とか、世界の情勢がこうだったから、とかそういうことを論じられるほどの勉強をそもそも僕はしていないし、そこについては書かない。きっと色んな立場で色んな意見が存在している。
だけど。

人の命がこうも簡単に、それも尋常ではない数が奪われたということは間違いなく事実として存在していると思う。そしてどんな理由であれ、それを正当化することって出来ない気がした。どんな理由であっても。
戦争で人が死ぬことを、テレビから流れる死傷者の数といった極めて無機質な数字で見ることに慣れ、感覚の鈍化したこの世界では、戦争によって1人の人間があまりに酷い方法で殺され、命を軽んじられたというそのリアリティを想像することは難しい。1人1人に自分と同じだけの、人としての物語があったことを想像させない、感情をまとわない数字の羅列。
以前書いた認知不可の話。人の脳はいちいち物事を真剣には考えないように出来ている。だからしょうがないってわけではなくて、だから工夫しなきゃねって話。

伝承の濃度

戦争を体験した方と同じ感情の質量で、戦争について語ることは決してできない。
人から人へと伝えること、感情を継承していくと、徐々に徐々に濃度が薄くなり、どこかで意味を失う。過去の体験を100%の濃度で伝承していくことなんてどうせ無理だろうと思っていた、だから戦争は繰り返し起きるんだろうと思っていた。
でも、そうやってまともに考えもせず諦めている自分を恥じたくなるほど、資料館や壕でみたものには、ずっしりと重みがあった。
同じものを見た時に感じることや程度は人によって千差万別。90%の濃度で伝わることも、5%の濃度しか伝わらないことも。

それでも強い信念を持って、後世へと記憶を継承しようとする人と、その思いのこもった場所があることが素敵だと思った。

戦争を体験した方のインタビュー。

何かを伝える上で考えなければいけないのは、どんなに熱い思いも、それを伝える工夫がなければ最大の効果を発揮しないということ。僕がイギリスで美術に興味を持ったのは、美術館が無料だったから。訪れるための敷居を下げることは一つのポイントな気がする。
僕の中学高校は、修学旅行が2回とも海外だった。それはそれでいいけど、こういうところ、来れたら良かったのにと思った。どんなに質の高い展示も、訪れない人には届かない。多くの人が一度は訪れる、経験する場所に、出来たらいいのかな。
平和ってなんだろうね。

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2020/6/23 (慰霊の日)追記

素敵な詩を、とてつもない濃度で心に届けてる。感動した。


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