【NO死生観NOLIFE】 第3回感想
5月に初めて身内の死を経験してから、死というものについて色々考え始えました。そんなタイミングで友人がFacebookでシェアしてくれた死生観講座とやらに参加しています。
“はっぴーの家ろっけん”という神戸にある多世帯型介護付きシェアハウス。その経営者の方が主催する
”どう、死にたい?どう、生きたい?偏差値より人生偏差値!学力より生きる力を掴み獲る秋”
をテーマにした講座。隠しきれない溢れ出るカオス。最初は面食らうけど入ってみると優しい人達で居心地は最高です。
毎回の講座で時系列に心に触れたことを箇条書きにするスタイル。今回は第三回。テーマは”死生観×コミュニティデザイン〜200人の人生を変えた伝説の葬儀とは〜”
まずははっぴーの家で行われた葬儀について。
第三回があったこの日はなんとじーじ(昨年10月にはっぴーの家で葬儀をされた方)の一周忌とのことでした。はっぴーの家で行われた葬儀を中心に、コミュニティって何?みたいな話の回でした。
コミュニティの主役は?
入居者の方が徘徊。地域のネットワークを使ったら、連絡が入りすぐに見つかった。恐らく警察に連絡してもこの速さでは解決しない。迷子になった犬を、子どもたちがポスターを配り歩いて1時間で見つけたという話。コミュニティを作るという話が最近多い。だけど大事なのはその先の話、コミュニティが出来てどうなるの?何のためにコミュニティが必要なの?面白いことにどんどん巻き込むスタイル。
思ったこと。
最近日本酒の企画でもまちづくりの話をした。その中で紹介した下の記事。
日本酒を使ったまちづくりの話を調べていると、輸出をしたり海外進出をしたり、観光産業にして人を呼び込んだりといった事例が多い。確かにそれは街で必要なお金を獲得するという意味でとっても重要。ただ、まちづくりとかコミュニティって誰が主役なの?という話はとても大事な気がする。誰のためのまちづくりなのか。手段が目的化すると意味がない。
医学はときに微力。
1人のプロより100人の素人。100人くらいに話を聞いてデザインしたはっぴーの家。みんなでこんなことをしたいを詰め込んだから、なんでもできるだろうという期待があるかも。日常の登場人物を増やす。サービス付高齢者向け住宅のベランダでBBQ。十人十色の賄賂を用意して説得する。要介護4の入居者、お酒が好きならと酒を飲む場を提供する。元に若者と踊るようになった。大事なのは生きがい!
思ったこと。
以前名郷先生と似顔絵セラピーの村岡さんの勉強会で、場面によっては医学はとても微力、薬をどれだけ使っても笑顔を見せたことのない患者が、似顔絵を書いたときに笑顔をみせてくれたときに、あ、そういうことか、となったという話を思い出した。以前も書いたとおり、“医学”は拠り所の選択肢の一つでしかない。
ネガティブなストレスをボジティブなチャンスに。
コミュニティデザインしにくかった事例。はっぴーの家では街の人も使う。はっぴーに遊びに来た人が3時間、入居者の徘徊についていって見守った。人の家に勝手に上がりこむのも受け入れてもらえる。介護施設だけで見るのではなく、町全体でおじいちゃんを見る。自分が守りたい人を守るために必要だからコミュニティを作って活用する。
子供にマウントを取る昔は偉い役職についていたおじいちゃん。辞令を発行し偉いポジションにつけてあげた、マウントをとらせてあげた。行動がかわった、地域のまつりとかイベントに関わるようになった。
思ったこと。
ネガティブをポジティブに変換するための工夫を柔軟に考えることの重要性。思い出したのはユマニチュードの話。ユマニチュードの技法を考案し広めているイヴ・ジネストさんの取り組み、この動画は本当に圧巻。
介護の現場では日常でストレスを感じることが多く離職率も高い。例えば歯磨き。看護師からすれば言うことも聞かず口を開けてくれない患者はストレスだろうし、仕事の効率から考えても悪くなる。ただユマニチュードという技法を知ってうまく実践できれば、患者にとってのネガティブがポジティブに変わるだけでなく、介護者にとっても、それまでストレスだった日々の患者との接触がやりがいに変わる。そうじゃない人にとっても業務は効率化するし悪いことじゃない。面倒や手間、一見解決しなければいけないネガティブな課題を、どうやって楽しんでポジティブなチャンスにしていくか。とっても面白い。役割ってすごい、この方が委員って呼ばれるようになって愛されてるように。
日本の葬儀って暗くない?
そこをイノベーションしたい。はっぴーのYeah!!!
サービス付高齢者向け住宅で葬儀を挙げてしまおうという前例の無い取り組み。その一見すると違和感を感じる企画にどう人々を巻き込むか。いきなりやろうと言ってもみんな気が引ける。家族の思い、日本の位葬儀を変えたい、そこから入ってなにかしてあげたいという雰囲気を先に作ってしまう作戦。
“アマゾンで棺桶”棺桶買って拍手。葬儀ではなくお別れ会。亡くなって一時間後にも笑顔が生まれる空間。
棺桶を建築士と子どもたちが作るという体験。自分が棺に入ってみる納棺体験。棺桶に寄せ書き。亡くなった方にあったこともない人ばかりが集まった200人の葬儀。でもそこに集った人が、知りもしない方の葬儀に参加することで何かを得たり、なんなら人生を変えられたり。知りもしない人だけどめっちゃええやんと泣き出す参加者。亡くなるときに何かを残していく。全然知らないおじいちゃんやおばちゃんが心に生きているという感覚。
思ったこと。
前回までの講座で、死はみんなに訪れるしいいものでも悪いものでもない、というよりどうやったらよくできるかを考えるのが大事、とお坊さんがおっしゃっていたのを思い出した。紅谷先生の1回目の、「死は点じゃない」という話と繋がって、死を幅のあるものとして考えるというのが新鮮だったけど、今回はまさにそれを目の当たりに、追体験するような感覚でとても衝撃的だった。
“死”に価値をもたせる工夫って素敵だなあと、人が死ぬということを身近で見ることの体験を素敵なものにするということ、そして誰かの死から何かを受け取って、人生が変わるようなことすらあるということ。
個人的には暗い葬儀にも意味はある気がして、悲しむときは思いっきり悲しんで、だからこそ次へと切り替えるバネにすることができる気がしていた。それは人によって選べばいいと思うし、どんな亡くなり方かによって変わるとは思うけど、“お別れ会”として、涙があっても楽しく明るい雰囲気で送り出す、そして参加した人が何かを受け取る、そんな葬儀も素敵かなあと思った。
街でもやんちゃな男の子たちがいつものように遊びに来て、2階でお別れ会があるからと手を合わせて線香をあげていった。日常の中で、地域の暮らしの中でそうやって死と触れ合う機会が、身内じゃない誰かの死を感じたり、そこでその場にいる人がどんな雰囲気で佇まっているかを感じる経験ができるのは、きっととてつもない意味がある。まさに、人生偏差値をあげる体験。