なぜ自然利子率はゼロではないのか

MMTには自然利子率がゼロであるという奇妙なテーゼがある。どういうことか。MMTerはいわゆる主流派経済学を指して、彼らは金庫に積み上げられた有限の札束なり金塊なりを貸付ける誤ったイメージで資金供給を考えているのだ、と主張する。資金需要が増えれば借り手が同じ札束や金塊を巡って競うことになり、金利は上がる。だが(とMMTerが続けるところでは)、信用経済では貸付は口座に数字を記帳するだけで実行可能である。つまり資金を借入れる行為自体が資金を作り出すので、借り手が資金を巡って競合することはあり得ず、資金需要の増加は金利を上昇させない。細部においてはバリエーションはあるものの、これがMMTerの主張の基本路線である。

 これは、純粋信用経済では資金供給曲線はフラットであるという主張にほかならない。MMTer自身はそういう表現をしないかもしれないが、資金需要の増加(=資金需要曲線のシフト)に対して金利が反応しないと言っているのだから、そう理解されるしかない。するとまた、彼らMMTerは、いわゆる主流派経済学において資金供給曲線が右上がりになる理由を、札束や金塊の貸し付けを前提しているからだ、と考えていることになる。札束・金塊の貸付=右上がりの資金供給曲線=主流派経済学、信用創造=フラットな資金供給曲線=MMT、という対比がMMTerの中にはあるわけだ。

 だが実際のところ、これは二重に誤っている。いわゆる主流派経済学において資金供給曲線が右上がりになるのは札束や金塊の貸し付けを考えているからではないし、また純粋信用経済を仮定したからと言って資金供給曲線がフラットになるわけでもない。厳密な説明は過去にブログで与えたので、ここではより記述的な説明を試みよう。

 まず企業部門・銀行部門・家計部門からなる信用経済の一巡を概観しよう。はじめに企業部門は銀行部門から資金を借入れる。このとき借入と同額の預金が創造される(信用創造)。企業は借入れた資金を使って家計部門から財や労働を購入し、生産活動を行う。当初に創造された預金は、ここで企業部門から家計部門に移動することになる。家計部門は手に入れた預金の一部を使って、企業部門から財・サービスを購入して消費する。これによって預金の一部が家計部門から企業部門に戻ってくるので、企業部門はこれを使って銀行部門に対する借入金の一部を返済する。ここで返済された分だけ、当初に創造された預金が消滅する。

 これで経済活動が一周したことになる。以上の説明には札束も金塊も登場せず、純粋信用経済の描写となっている。MMTerもこの描写については何の異論もないはずである。家計部門が企業部門から受け取った預金のうち、消費財の購入に使わなかった部分は、家計部門の預金のまま翌期に繰り越される。また企業部門の生産物のうち、家計部門によって購入されなかった部分は企業自身の資産の増加(在庫投資・設備投資)として翌期に繰り越される。適当な数字を置いて考えれば明らかな通り、企業部門の(減価償却考慮前の)資産の増加額と家計部門の預金の増加額は(今は直接金融を考慮していないので)一致している。投資と貯蓄は必ず等しいというマクロ経済学においてよく知られた事実がこれである。そしてこれらは銀行部門の貸付金=企業部門の借入金の増加額とも等しい。

 さて、この純粋信用経済において資金需要曲線と資金供給曲線の形状はどうなるか。まず資金需要曲線から。金利がより低ければより生産性の低い投資プロジェクトでも採算がとれるようになるので、企業はより多くの資金を借入れようとする。かくして金利を縦軸、資金量を横軸に取った資金需要曲線は右下がりとなる。これは何も問題ないだろう。

 一方、資金供給曲線はどうか。家計にとっては金利が高いほど翌期に繰り越す預金を増やす方が有利である。反対に金利が低ければ貯蓄するメリットが小さいので、家計はより多くの預金を取り崩し消費に振り向けるだろう。資金供給曲線はかくして右上がりとなる。(厳密には代替効果だけでなく所得効果も考えなければならないが、今の議論にとっては本質的ではないので省略する。)

 MMTerが間違えているのはまさにここである。いわゆる主流派経済学において資金供給曲線が右上がりになるのは、金庫に積み上げた札束や金塊を貸付けることを想定してるからではないのだ。家計部門が持ちたがる以上の預金は消費行動を通じて銀行部門に返済されてしまうため、翌期に繰り越されることができない。金利は家計部門に預金を持たせ続けるために必要なのである。純粋信用経済を仮定したところで、彼らが勘違いしているように、自然利子率をゼロすることはできないのだ。

 直観的な理解を助けるために、イソップ童話のアリのような人々からなる世界と、キリギリスのような人々からなる世界を比較されたい。アリ星人たちは低い金利でも喜んで貯蓄するため、資金供給曲線は低い位置と緩やかな傾きを持つだろう。一方、キリギリス星人たちは所得を消費に当てようとする傾向が非常に強いので、彼らにより多くを貯蓄させるためには金利を大きく上げなければならない。キリギリス星人たちの資金供給曲線は高い位置と急な傾きを持つだろう。アリ星人の世界では家計部門の預金残高は大きく、企業部門の投資残高は大きく、銀行部門のバランスシートは大きく、金利は低くなり、対してキリギリス星人の世界では家計部門の預金残高は小さく、企業部門の投資残高は小さく、銀行部門のバランスシートは小さく、金利は高くなることが理解できるはずである(できなければ先ほどの信用経済の一巡の描写に戻ってよく考えるように)。MMTのフラットな資金供給曲線は、受け取った預金を全額そのままそっくり自分の口座に貯蓄し続ける、究極的なアリ星人を仮定した場合にのみ成立する特殊ケースに過ぎない。

 MMTerからの反論の余地をなくすために、次のようなシンプルかつ極端な例も挙げておこう。家計部門は常に一定額だけの預金を保有し、それ以上の預金を手にした場合は全て消費に当ててしまうような世界を考える。例えばどの家計も100万円だけを自分の口座に残し、それ以上の預金は全て消費財・サービスの購入に充てる、といったようなことである。この世界の資金供給曲線は垂直となる。この世界では一定額以上の預金を家計部門に持たせることは不可能であるから、政府の借り入れによってそれを超える預金が創造されても、家計の消費行動によってたちまち企業部門から銀行に返済され、民間投資をクラウディングアウトしてしまう。

 このような極端な例は現実的でない言われるかもしれないが、今の論脈ではそれは問題ではない。重要なのは家計の貯蓄選好に一定の仮定を置かない限りマクロ経済の預金残高は決定されないということだ。我々がキリギリス星人に近い生き物なのか、アリ星人に近い生き物なのかという点を無視して、MMTerがいうところの「会計的事実」だけから財政赤字が金利を上げるとか上げないとか言ったことを論じることは不可能なのである。

 日本経済は長いあいだ低金利の状況にあった。それは有望な投資機会が少なかったからかもしれないし、我々が比較的アリ星人に近い生き物であったからかもしれない。おそらくは両方だろう。いずれにしても低金利の理由は現実の経済状況の中に求めるしかない。どのような政策的立場を取るにせよ、政府がいくら借入れを増やしても金利が上がらないなどといったことを先験的に主張するような説に立脚することは、この国の経済政策にとって不幸なことである。常識的な議論に基づく経済論壇が再建されなければならない。

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