見出し画像

無価値な価値観(哲学)

丑婆の自己欺瞞である。無価値だと自分勝手に決めつけているのは
丑婆自身である。
私なんて無価値なんだ。
なんの価値もない人間なんだ。
とほざいているのは己である。
誰があなたのことを無価値だと言いましたか?

おそらくそんなことを平気で言えるヤツ。
サラッといったヤツは親しかいない。
お前の親は、おそらくはそんな言葉を言えるような知的な親でななかったハズ。
アル中の親父や一切子供興味のない母親からそんな言葉が出るはずがない。
つまり、親が親らしく振る舞わずに自分のことしか考えられない。
子供のこのなどモノのように扱う親から丑婆が感じたことである。

クソ親は私の価値などまるで見出すことが出来ないバカな親であった。
悔しいけど悲しいけどそんな親だった。

「私は親に愛される価値がない」

親に愛されなかったことで、価値がないと決めつけてしまったのは
丑婆である。

丑婆よ!おまも親に似てアホである。

親に愛されてた人が価値があって
親に愛されていなければ価値がないのか?
丑婆よ、よく考えてみたまえ。
それが傲慢であることに気づけ!

愛とか価値とかは、そんな小さな
狭くて浅いものなのか?
愛されていなくとも、価値はあるんだよ。
価値は親だけが決める定義ではないのだよ。
ただ、親には愛されてなかっただけだ。
そのことは人間形成において痛手が大きいのは事実である。

生まれて最初に出会った人間から
愛という価値(どれくらい大切か、またどれくらい役に立つか)を与えてもらえなかったことは、生きづらくて、たまらなかったハズであろう。

しかし、価値(どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかということ)を親から愛を注がれなかったから価値がないんだと、決めてしまったの丑婆自身である。

無価値であるという価値を与えてたのは自分自身である。

無価値という価値を信じ、価値がある自分に背を向けていたは私自身である。

小さくて狭くて浅さい価値なんて、どうでも良い。
言葉だけのペラペラの愛なんて、クソの役にもたたない。

価値があるないなんて、果たして
そんなに価値があるのか?
と思う今日この頃である。

愛という行為と言葉はイコールなのか?
言葉だけの愛に行為や行動が伴わないヤツが山ほどいるではないか?愛の詐欺師がわんさか闊歩している。
愛も価値もなくてもいいじゃないか?
そんなもんに執着しているこそが
無価値であろうに!

あーーーー
久々にすーっとした!
気持ちの良いnoteが書けたワイ!

自画自賛!上等!(笑)

色即是空 空即是色🙏