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醤油さしの「美」と「教科書をデジタル化する」ということ

ここ数回、色々物議も醸しつつ、デジタル教科書のことを書いていました。一旦は今回が最後。
「教科書をデジタル化する」について私見を書いてみます。

「教科書をデジタル化する」とは?

「いやいや、デジタル教科書があるのに何言っての?」ってツッコミ受けそうですが、、そうなのですが、それだけじゃない、むしろ本質的に「教科書をデジタル化する」ということは、もっと別のこともあるのでは、と思っています。

私は、教科書をデジタル化するということは、教科書が持つ体系的なカリキュラムをデジタル学習環境全体に浸透させること、だと捉えています。

何言ってんの?って感じの人多数だと思うので、順を追って補足してみます。そしてタイトルの醤油さしのことは最後に回収させてくださいー

DXに至る3段階

まずは前段として、世に言うDX(デジタル・トランスフォーメーション)に至る3段階の話。
DXに至るには3つのステップがあり
①Digitization=デジタルに代替
②Digitalization=プロセスの変化
③Digital Transformation:DX=価値の変革
などと言われています。

自分がプレゼンする資料とかだと以下みたいな感じ。

1st GIGAはタブレット導入というデジタルへの代替。2st GIGAはデジタルを通じたデータによって学びや業務が変わるタイミング、としています。
では、今のデジタル教科書ってどの段階のものなのか?

今のデジタル教科書はデジタライゼーション

デジタル教科書は平成30年に法制度化され、紙の教科書と同一の内容をデジタル化することになっています。これはまさにデジタルによる代替=デジタイゼーション。

学習者用デジタル教科書の活用による指導力向上ガイドブック

さらには各社で提供価値の差異はありますが、共通の機能として以下あたりが追加されています。この辺りはプロセスの変化=デジタライゼーションの一部。

学習者用デジタル教科書の活用による指導力向上ガイドブック

つまりは、デジタル教科書は、まさにデジタライゼーションの只中にあるように見えています。
でも"トランスフォーメーション"と呼ぶぐらいですから、場合によっては元の在り方が消失し、別の価値が創出される得るのがDX。ただ、姿かたちが変わっても本質的な価値は残る。むしろその価値を高めるのがDXのはず。
そうなると、教科書の本質的な価値、教科書ならではの価値が何かを見極める必要があります。

教科書"だけ"の価値

では、教科書"だけ"の価値は何か。
私見ですが、教科書が担っている本質的な価値は、国が標準的なカリキュラムとして定めている学習指導要領を、実際に学校で行われる授業・学習として運用できる状態にしていること、だと捉えています。

学習指導要領ってめっちゃくちゃ考え込まれた優れた要求が書かれていますが、抽象度が高く、そのまま実運用すのは難しい。
ITシステムに無理やり例えると、方向性や目標が検討し尽くされた優れた要求書はあるが、要件定義が曖昧なのでめちゃくちゃダメなシステムができる可能性を包含している感じ。勿論、めっちゃ良いシステムができる可能性も。

これって学校教育が地方分権=現場主義である、という考えからこのような方法なのだと理解しています。
とはいえ、実運用が厳しい。なので、より具体的なオペレーションのための中継する仕組みとして教科書が機能しているのだと感じています。
その中核が冒頭に書いた「体系的なカリキュラム」。具体的には教科書の単元配列=目次なのだ考えています。

啓林館「新学習指導要領における算数・数学内容系統一覧表

これにより、全国津々浦々の先生や児童生徒、または保護者に至るまで、学習指導要領が求める資質・能力の育成に対し、何を学ぶのか、が共通言語として理解されているのだと感じています。

日本の教育の底板を支える構造化

このカリキュラムの構造は、過去の膨大な実践や研究に基づいて、めちゃくちゃ考えられてつくられている、と感じています。

以前、以下のフィンランドの学力(といってもPISAスコア)の低下について書きました。

上記のなかで紹介した動画では、ザックリ書くと

  • 生徒主導型の教育への転換が学力低下を招いたのでは

  • その意味で日本の詰め込みは捨てたものではない

という仮説を結論に据えていました。

上記に対し、私の考えは少し違っていて、私は生徒主導型への転換=経験主義への偏重=系統主義の軽視が要因ではないか、という仮説を持っています(なんのバックデータも持たない主張なので参考までに)。
生徒主導のメリットを上回るほど、過去積み上げてきた体系的に学ぶことを手放したことのデメリットがあったのでは、と。

【学びに向かう挑戦】第1回 プロローグ「変わる学校教育」

日本でいえば、優れた要求書である学習指導要領を、教科書という媒体でブレイクダウンし、学校現場で実運用可能な状況にしている。
大げさかもですが、この教科書によるブレイクダウン=構造化が、日本の教育の底板を支える一助なんじゃないか、と。

DXを通じた「個別最適な学び」への変革

上記を前提にすると、より効果的な「個別最適な学び」を別の観点で言い換えると、先生主導=系統主義の良さを失うことなく、生徒主導=経験主義的な学びに移行していくこと、と定義することができます。

学習者の「学びたい」「わくわく」を起点にしたとしても、構造化されたカリキュラムの良さを踏まえ、質高く学べる環境にしていくことです。

経済産業省教育産業室長 浅野大介氏インタビュー「GIGAスクール元年、教師とデジタルの新しい関係」

上記をシステマチックに行うには「データ」が肝になります。その辺は以下あたりに要素を書いていますのでお時間あれば。

そして学びのデータを利活用していく際に、教科書の体系を組み込むことで、大きな価値を発揮すると感じています。
単に先生や児童生徒、保護者にとっての「共通言語」としての分かりやすさだけに留まらず、過去の膨大な実践や研究が積み上げられた先人の貴重な資産を活かすことでもあるはずだからです。

AIによって非構造データも構造化される?

少し何言っているか分からんこと書いちゃうかもなので、この節は興味ない方は読み飛ばしてもらえたらと。

構造化したデータが重要と言っても生成AIの進化が著しいので

教科書の体系がなくても、構造化されていないデータ(非構造化データ)も量があれば、生成AIなどをつかって新しい構造をつくれるのでは?それを用いて「個別最適」を実現すれば?

みたいな声が出てきそうです。既に民間ではそういった動きが加速しています。

多分、できます。恐らく時間の問題なのでは、と。
一方で、前述した「過去の膨大な実践や研究が積み上げられた先人の貴重な資産」を活かせなくなる可能性はあります。

なので、この構造をデジタル学習環境に組み込むことを急がねば、と感じています。ほっておくと、世界的にも優れているとされる貴重な資産=体系的なカリキュラムがありながら、ゼロスタートすることになっちゃうので。

有志で行われている教科書LOD

でも、教科書単元をシステムが理解できるよう構造化するのってめっちゃ手間なのでは、と。
そこはそういった在り方を予見して、汗をかいてくれている研究者がいます。ありがたや。

上記は国立教育政策研究所などに所属する有志の研究者が、教科書に関する情報(メタデータ)をシステムが読み込める形で整理し、無償公開しているサイトです。
上記ページ見ても分かり辛いと思うので、人間が理解しやすいエクセル形式になっている部分をチラ見させるとこんな感じ。

https://view.officeapps.live.com/op/view.aspx?src=https%3A%2F%2Ferid.nier.go.jp%2FSHUISHO%2Fshogakko_sido_2020.xlsx&wdOrigin=BROWSELINK

あら、余計分からない?上記リンクで実ファイルにもアクセスできます。
これは文部科学省が公開している教科書編集趣意書から、各社の教科書の属性や単元を抜き出し、学習指導要領コードとの対照を付与し、システムが読み込めるIDやURLを付番したものです。

あらゆるデジタルコンテンツが、この構造を踏まえてデータを創出し、利活用することができると、前述した「系統主義の良さを失うことなく、経験主義的な学びへの移行」に近づくのでは、と。

「環境を通して行う教育」を見据えて

これらを実現するにあたり「すべての学びを教科書を起点に学ぶようにする」という方式も考えられます。
起点が教科書になれば、構造を埋め込み・活かすことは容易くなるためです。

一方でその方式は、学習者主導の学びとの相性が良いかと言うと、必ずしもそうではない。
以前の以下でも触れましたが、今後は学習者があらゆる学習リソースから自ら選択し学んでいく時代になってくるはずです。

幼保分野で大事にされている「環境を通して行う教育(保育)」の小学校以上への拡大は、恐らく不可逆の流れなのだと感じています。次期指導要領の検討の方向性でもありそう。
教科書も様々な学習リソースの1つでもある。なので起点ではなく選択肢の1つ、極めて大事な選択肢の1つとして設計されるのが望ましいのでは、と考えています。

なので、前回の以下では起点ではなく学習者の振り返りや成果の活用の観点として、教科書単元を基準にした学習成果のオープンバッジ化、という話を書いてみたりしています。

表面ではなく裏側でしっかり構造が背骨のように残す、という考えで書いてみています。
ちなみにバッジを表示する「ウォレット」の事業者は、教科書単元の情報を表示する必要があるので、権利料を支払うことになるはず。そうすると、教科書発行者にとってもビジネスチャンスが広がるので良いのでは、とか思ったりしています。

改めて「教科書をデジタル化する」とは

と長々書きましたが、、、上記の考えから「教科書をデジタル化する」とは、教科書が持つ体系的なカリキュラムをデジタル学習環境全体に浸透させること、という私見でした。

勿論、今の紙面再現のデジタル教科書を否定している訳ではなく、むしろ紙面再現のみデジタイゼーション版のみでも全教科配った方が良い、と思っていたりします。

一方で、教科書のみが創出する極めて大事な価値が、デジタルのなかで発揮されない状態はDXとは言えないと個人的には思っており、あえてこのような主張をしちゃいました。

で、醤油さしはどこにいった?

あ、ちょっと思いついただけのことをタイトルに入れちゃっただけでした。

私自身、感性乏しくアートとかは疎いのですが、機能美には惹かれがちです。その中で、キッコーマンの醤油さしのデザインがめっちゃ好きなんですよね。

食卓に置いても安定していて倒れず、持ちやすい。そして何と言っても醤油を注いでも液だれしない!
60年以上前、工業デザイナーの榮久庵憲司さんのデザイン。

なんで醤油がたれないのか、など興味ある方は以下とかのデザイン秘話をご覧いただけたらと(なんでNTTコムウェアがこんな解説しているのだろう?)

この醤油さし、本体の絶妙な丸みとクビレ、注ぎ口の下型をカットしたデザイン=構造によって、食卓での醤油の使い易さに大きく貢献しました。
抽象化すると、構造によって食の価値を高めたとも言え、教科書のカリキュラムに通ずるものがあるな、と。

構造の実用性は機能美

なんか無理やりな感あります?まあ、そうですよね。思いついちゃっただけなんので、、
ちなみにキッコーマンの醤油さしは構造が「商標」として認められた稀な例だったりします。

一方で、教科書のカリキュラム=単元配列は著作権の行使対象なのか、という声も良く出ている印象です。
勿論、文言単体だけでなく「素材の選択又は配列によって創作性を有する」という編集著作権という概念があるので、その権利だという理解です。
でも、学習指導要領を学校現場に実運用可能にしていく構造化って、ものすごい機能美だな、とか思ったのです。機能美の粋は権利として保護されるもの、とも言えるなと思ってキッコーマンのこと書いちゃいました。
単に、この醤油さしのこと書きたかっただけかもw

おわりに…

ということで、デジタル教科書についてしばらく書いてきた最後、「教科書をデジタル化する」とは?でした。

ここしばらく、だいぶヘビーな内容を書いてしまった感があるので、次週はお休みさせていただくか、またはライトなものを何回か書いてみようと思っています。
そのあと、また重めのものでも書こうかな。

ではまたー。

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