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学校の授業でバイタルデータを取得することは悪なのか?

このところかなりバタバタで、1か月ちょっとnoteを更新できていませんでした。やっと土日で時間が取れるようになってきたので、久しぶりに書いてみます。
来週以降はできるだけ定期で書きたいな。

脈拍をモニタリングして集中度を見る実証

今週、以下の記事が界隈で話題になっているようです。

燃えた話題に首を突っ込んだ過去の「パソコン1台27万円」に則り、今回は燃える覚悟でこの話題に突っ込んでみたいと思います。

炎上マーケティング疑惑もあるので、話題にすること自体が思うツボ感ありますが、議論のキッカケをもらったと思って乗っかってみます。

ちなみに先に個人意見をざっくり書くと

  • バイタルデータであることで、脊髄反射的に否定するのはどうか

  • 内心を知ろうという行為そのものは、皆同じようなことしていないか(自戒込めて)

  • 目的や理念に照らして、是非や手段を論じるべき

という感想を持っています。この記載で自分も炎上しちゃうと怖いですが、、以下にて、自分が感じた内容を言語化してみます。

記事への意見の多くは否定的

学校関係者の方々の意見は、否定が9割、一部肯定が1割、という感じでしょうか。
否定的な意見には「そもそも集中度を測ること自体に意味があるのか」「授業評価の観点はこれで知りたいことじゃないだろ」みたいなものがある一方で、今回の件に多くの人が色々言いたくなったのは、やっぱり「脈拍=バイタルデータの活用」なのだと思います。

否定的な意見を要約すると、以下の3つぐらいにまとめられそうです。

  • バイタルデータを用いることそのものへの嫌悪感

  • 強制的な情報取得による学習者の権利侵害

  • 管理・統制に用いられることへの忌避・危機感

それぞれ自分なりですが考察してみます。

バイタルデータを用いることへの嫌悪感

否定的な意見のなかでは「まずは大人がそれをやれよ。それが嫌なら子供にやらせるな。」という意見も多く、全くもってその通りだと感じました。
一方で私に限って言えば、自分の脈拍のデータが他人に知られてもOKな品源です。むしろ内心が相手に伝わって配慮してくれるとありがたいな、ぐらいに思ったりしています。
ジオン・ダイクンのニュータイプ理論の信奉者で、人と人が誤解なく分かりあえる社会を目指していたりするので。
当然、その考えを他人に強制したいとは思っていませんが。

内心を知ろうとする行為そのものへの批判もありましたが、そもそも教育の場ってそういう行為にあふれているものなのでは、と。
朝の健康観察でも、ノート評価でも、授業の振り返りでも、質問紙調査でも、読書感想文などなどでも。むしろ、内心を理解し寄り添うことで、支援の精度を高めているはず。
学校教育としての目的を違えているとしたら話は別ですが、「内心を知る」という行為だけへの批判は、学校教育そのものを成り立たせなくなるものだと感じています。

一方で、自ら意見を表明するものと、「嘘をつけない情報」が自動で取得されることには、それなりの違いがあります。
記事のなかでも

「脈拍はうそをつかない。自分ではコントロールできないから」

とのこと。
授業の振り返りとかでも、感じたことをそのまま書かないことはできますが、脈拍は制御できません(いずれは脈拍すら誤魔化す輩も出てきそうな気もしますが)。バイタルデータを通じた情報取得と、自ら表明する情報ではこの点で大きな違いがあります。
ただ、社会生活のなかで、とりわけ学校生活のなかではウソが許容されるかと言うとそうではないように感じます。学校現場が意見表明をそれなりに強制し、そこに偽りを許していないのであれば、その差はどこにあるのか。
個人的には、感情を抜きにしてその境目はつけることは難しいのでは、と感じています。
上記もあって、情報取得に拒否する権利があったかどうかは重要な論点のはず。

脈拍は強制的に取得されていたのか?

情報の取り扱いという意味では、個人情報の保護が最初に思いつきます。
バイタルデータ(生体情報)は、それ単体で個人情報に該当するかと言うとそうでもなく、指紋や虹彩、顔の骨格など特徴など、個人を特定し得る情報の場合が個人情報に該当します。

上記から、今回の脈拍が個人情報かと言うと該当しないのでは、とは感じます(静脈認証とかありますが、静脈の構造パターンで識別しているはずなので、今回とは違うはず)。
一方で、バイタルデータなので機微な情報であることは疑いようもなく、個人情報であること以上に、手続きや保護の厳格化が求められるはずです。

記事のなかでは、本人または代理たる保護者への目的説明と同意について、以下のような記載がありました。

保護者には概要を伝え、個人情報への配慮も説明。了解を得ているという。

保護者だけでなく、生徒本人にも利用目的の説明や同意(または賛意)は取っているのかな、拒否した生徒は対象から外れる(オプトアウト)設計になっているのか、などなど一抹の疑念は残りますが、手続きについては配慮しているように見えます。

一方で個人情報保護法の「同意」も、本人の自由意志が守られている前提という理解です。「学校」という構造そのものが一定程度権威的であり、強制力を持っているとも考えられるため、拒否に対する不利益がないことへの配慮など、「同意」への手続きに一般的なビジネス時以上に配慮が必要なのだと感じています。

データの処理・管理手法には一考の余地がありそう

話が脱線するので短くしますが、個人的にはデータの処理・管理手法の設計が気になったりしました。

(1)登校した生徒は、それぞれに割り当てられたリストバンド型の端末を装着する。端末は生徒の脈拍を刻一刻と記録。
(2)そのデータは、教室の隅に置かれた小さなボックス型の機器に自動送信。集約され、インターネットを通じてサーバーへ。  
(3)サーバー上では、脈拍データが特別な計算式に当てはめられ、一人一人の集中度が割り出される。結果は先生の手元のノートパソコンに折れ線グラフで表示。グラフは保存され、授業後に見返すこともできる。 

上記記載だと、バイタルデータが生値としてサーバに送られていそうです。自分が設計するなら「小さなボックス型の機器」で処理を行い、生値ではなく解釈結果をサーバに送る設計をしそうです。
生体認証の国際規格でもあるFIDO2.0なども、ローカルで処理して結果のみ送る設計になっており、その辺りはちょっと甘そうだな、という感想です。

管理・統制に用いられることへの忌避・危機感

内心を知る手段の是非についての判別の難しさ、手続きや情報保護を満たしている場合(前者の判別は大いに議論を続けるべきだと思いつつ)、現時点の論点は「管理・統制に用いられることへの忌避・危機感」になりそうです。

立場が非対称、評価をする側=大人が、評価をされる側=子どもの情報を、しかもウソのつけないバイタルデータを取得する。その情報を用いて、子どもを管理し、望む方向に統制してしまうことの懸念。
こう書くとまさにディストピアまっしぐら

一方で、今回の記事のなかで、脈拍情報の利用目的は以下とされています。

担当者はこのシステムについて、こんな表現をした。「漫画の『ドラゴンボール』に出てくる『スカウター』のよう」。生徒を値踏みする目的で使われる懸念については「分かります」と理解を示しつつ、こう強調した。「あくまでも狙いは授業改善で、どうやって教育の質を高めるか。評価のためではない」 

上記の通りであれば、むしろ管理されているのは大人=先生の方のようです。それはそれで是非の意見がありそうですが、子どもを管理・統制するために用いられている訳ではなさそう。これなら安心?

地獄への道は善意で舗装されている

でも「これで安心」とも言えないだろうな、と。
この担当されている方が別の考えの担当者に代わり「これは子どもの管理・統制に使える」と思ったらどうなるのか。

市民を豊かにするために交易用に作られた道も、時と場合によって侵略のために使われることがあります(歴史的には逆に軍事利用を民事転用する方が多そうだけど)。

教育データを利活用していくには、この辺りをどう考えていくのかもセットにすることが不可欠なのだと感じています。

倫理・法・社会の観点で判断が必要

ではどんな観点でこれらの課題を捉えていくと良さそうなのか。
新たに開発された技術を、技術的な課題以外=倫理や法律、社会的な受け入れから検討する「ELSI(Ethical(倫理的), Legal(法的) and Social(社会的) Issues)」の観点で判断していくことが求められているのだと思います。

元はヒトゲノムを解析するプロジェクトのなかで産まれた観点・言葉とのことですが、医療分野以外でも同様に転用されています。

学校教育におけるEdTech活用(データ活用含む)の観点でも、以下のような研究が始まっています。

EdTech論点101としてまとめてくださっている内容なんかは、とても参考になるものです。是非、この辺に興味がある方は目を通していただきたいです。

哲学的原理の観点での判断が前提

さらには、法を成立させる原理の面、そもそもの根底にある方向性との照らし合わせも必要なのだと感じています。

以前もnoteで紹介した熊本大学の苫野先生と、独立研究者である山口さんで立ち上げた一般社団法人School Transformation Networking(ScTN)が、「哲学原理とエビデンスに基づいた実践(Philosophical principles and Evidence Based Practice: P-EBP)」を実現しようとしていることも、こういった新しい変化への期待と、それと同居する危機感からなのでは、と。

公教育が何のためにあるのか、「各人の自由及び社会における自由の相互承認の実質化」と正当性の原理である「一般意志及び普遍福祉」に照らして、あらゆる実践を考えていくこと。これはそもそもの前提になってくるのだと思っています。
この前提に則れば、自ずと「管理・統制社会のディストピア」を回避できるとも言えます。

なかなか難しいけどやっていかねば

とは言え、各学校設置者や学校、先生方や保護者、当然ながら児童生徒自身もですが、それぞれがイチから考えていくのはしんどい感じ(イチから考えることが一番大事とも言えますが)。

今回の記事を読んで自分なりに考えたことは、ここまで書いたことような考え踏まえたうえで、一定の構造化やフレームワークを設け、各々が自ら考えていける土台をつくらないといけないな、でした。
少なくとも自分にとっては、元々感じていたことを改めて認識し、考えをまとめる良いキッカケになりました。

もう1つ個人的にやりたいと思っている(でも生きている内にまず無理だと思っている)ことは、内心を知られることを恐れる原因を社会から取り除くことです。

本来、人は社会的な生き物らしいので、他人なしでは生きていけないはず。本当は自分を知って欲しいのでは、と。
一方で、内心を知られることによって相手には良くも悪くも偏見が生じ、いわれなき差別を受けることもある。だから「自分を知って欲しいと」「内心を知られたくない」の矛盾する気持ちが同居するのだろうな、と。

元来、人はそれぞれ凸凹で多様で、それ自体に良いも悪いもないのですが、価値基準が多様化していないと数少ないモノサシで良し悪しが決まり、偏見や差別に繋がっているのでは、と感じています。
そもそもの人の多様さと、価値基準の多様さの実感をもっと社会実装できれば、ジオン・ダイクンの目指す姿に近づけそうだな、と。
自分にとってのビジョンである「誰もが自分らしく学べる社会」はまさにその状態が前提になっているとも言えるので。

おわりに

久しぶりに書いたので調子が分からず、5,000字近くなって結構長くなってしまいました。
できるだけ定期で書いていきたいと思うので、少なくとも土日が仕事でどっぷりにならないよう調整せねば。

次に書くこと決まっていないので、これからも行き当たりばったりでその時あったとこ・感じたことで書いてみたいと思います。

ではまたー。

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