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「役に立つ」を目的にした本が売れなくなったのはなぜだろう

こんにちは。出版社で書籍の編集として働くようになって、気付けば今年で10年が経っていました。

この10年の間「出版不況」と呼ばれ、紙の年間売上は減少の一途をたどってきたわけなのですが、一方で毎年の年間ベストセラーには<すぐに役に立つ>実用系のビジネス書が名を連ねていました。

僕自身、一人の読者として、感銘を受けて仕事の中に取り込んだり、本の構造自体を模倣するなど、そのすばらしい構成美をもつ、ビジネス書・実用書に魅了されていた一人でもあります。

ただ、ここ数年、そうした「役に立つ」系の本を手に取る機会がめっぽう少なくなってしまいました。もっというと、個人として関心がもてない。

時代の大きな変遷については、山口周さんの一連の著作で指摘されている、「役に立つ」から「意味がある」への変化が大きな要因の一つであることは多くの人が認めるところだと思います。

ただ、なぜ「使える」の本から遠ざかっていったか、もっと個人的な理由があるのではないか。

そう考え、今日はそれについて書いてみます。書きながら考えるタチですが、おそらくそれは、今もっている子供への教育観というものに触れていくのではないかという予感があります。

1・植え付けられた「生きる」・「はたらく」への飢餓感

思い返すと20代、30代。

いかにビジネスパーソンとして生き残るか、ばかりに関心が寄っていました。「10年後残る仕事は?」「会社は?」「そのためにどんなポータブルスキルをつければいい?」向けられた視線の先は常に「自分」。その先に「幸せ」があるかどうかもわからない。それどころか、立ち止まったらダメだ、努力せよ、という内側からの声も頻繁に聞こえてきていた気がします。

ただ、それがいつの間にか和らいで行きました。なぜか。

それは子ども誕生です。自分、自分、自分…と内側への視線を向けている間に、世界環境はたいへんなことになっているし、格差も拡大している。むしろ、自分が努力すればなんとかなるという価値観を自然に持てていること自体が、環境に恵まれていることの証左だった。そんな錯誤にも気づきはじめた時期でもありました。

自分と自分のキャリアにばかり目を向けたいちばんの弊害は、物事の見方が短期的になることです。その視点を、子どもの誕生が引き伸ばしてくれました。20年後、30年後、子どもが社会に出るタイミング、活躍しようとするタイミングでどんな世界・社会を手渡してあげられるか。そんなことを考えると「仕事が他人より速くできる」の価値は低くなります。結果、そうしたハック的なメソッドにはあまり関心を寄せることができなくなってしまったのです。

2・「成長」への呪縛が解ける?

さらに決定的だったのは、軽井沢へ移住し、東京の価値観から距離を置いたことでした。

外に出てみるときづくこと、というのはあるもので、その場に身をおかないと人は体感をもって何かにきづくことはできません。

会社に行く機会が少なくなると、社員や同業者という「比較の軸」が消失し、他人と比べることがほぼなくなってしまいました。

これは若い頃を振り返ると言えることですが、幸せになれない要因の大きなひとつは、他人との比較だと思います。他人軸があると、自分の行為も価値観も外部に支配されてしまい、何をしても「満ち足りない」になってしまう。わかっていてもなかなかやめられない思考パターンでもあって、結果的に、「比較・脳」をリセットすることができたのは、移住の思わぬ果実だったと振り返って感じます。

こうして、他人軸や人との比較から距離を置き、自分の内側への問い合わせ、家族との時間が増えてくると、大切なものの優先順位が「自然と」置き換わっていきます。

その結果、自分のため、自分のため、と思い込んでいたキャリアやスキル、資格たちは、果たして本当に自分のためだったのかと疑問に思うようになってきました。「生産性」という言葉が意味するように、それは仕事のアウトプットの質を上げるということです。でも、それって目的になるようなもの? 生産性を上げていちばん得するのは誰だろう? それって経営者であり、資本ではないのだろうか?

オフィスに出社する、という行動を1日の習慣に組み込むということは、思考停止の第一歩です。思考停止、と書くとちょっと陰謀論っぽいような悪〜い印象を与えてしまうかもしれませんが、どこかの諸悪の根元を叩きのめす!ということを書きたいわけではありません。なぜなら、毎日、行く場がある、自分と認めてくれる場が今日も変わらず存在している、ということは「居心地の良さ」にもつながるからです。(しかも昭和では会社がセーフティーネットにもなっていた!)

どちらがいい・悪いということではありません。

会社という安心・安定と思い込める場を離れて、フリーとして一人立っていくことはその分の「不安定さ」を引き受けることでもあると想像するからです。

ここで伝えたいのは、結果として「会社にいながら、会社にいないような距離に自分を置くことになった」そのグレーゾーンで感じた心の変化についてです。

つまり、会社に(その業界に)居心地の良さを求めたい、と強く願っていた時代に必要だと信じて疑わなかった「役に立つ」「実用系の」「ビジネス本」が、テレワークとなり、オフィスに出社しないようになり、家族と時間を過ごす時間が長くなると、必然、その輝きを失っていったように、僕には感じられたのです。

3・創造性と生産性

西村佳哲さんの『かかわり方のまなび方』にこんな文章があります。

ワークショップはファクトリーと対比するとわかりやすく、ファクトリーが生産性を求めているとしたら、ワークショップが求めているのは創造性だろう

会社の全てがそうだとは断言できませんが、かつて「ファクトリー」で求められていたスキルが、再現性であり、スピードであり、画一的に質が高いアウトプットであったならば、それが今の時代に急速に通用しなくなることにはある種の納得感があります。

そうではなくて、むしろ僕らは「生きる」ことの創造性を求めているのであって、それは少なくとも「ノウハウ化」できない類のものであり、ノウハウに修練されているのであれば、疑った方がいいようなものであるからです。「こうすればこうなる」的なものではない、答えではなく「問い」のようなもの、一読しただけでは真似しづらいが、考え方がインストールされるようなもの。それこそが、創造性に寄与する本のひとつの条件かもしれません。

そこには、本来すべての人は創造的であり、条件さえそろえば、発動できるという期待や信頼がベースにあるような気がします。(この指摘もまさに「かかわり方のまなび方」より借りてきたインスピレーションです。ご一読ください)

他人のモノサシで成功した、できた・できない、と一元的に、瞬間的に決めつけられてしまうのではなく、もっと長期的な視点で自分自身と「待つ」「付き合う」姿勢をもちたい。そんな考えも、思考のシフトを後押ししてくれています。

4・結局、子どもの育ちの話につながる

ここまで書いた、自分に向けた視点の話は、そっくりそのまま子どもの育ちに向けられた視点と重なり合うなぁと思います。むしろ、子どもの育ちやそれを支える学校のスタッフの方などの姿勢から愛ばされること多数。

Doing ではなく、Being として、子どものあり方と向き合っていきたい。そんな願いは、自分や他人を評するときの視点にも影響を与えています。

マーケティング的な視点などはゼロなので、タイトル負けしていますが、生活者として自分がこれからどんな本をつくっていきたいか、さらに深堀して追いかけていきたいと思う今日この頃です。


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