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できることからはじめるということー保護者としての関わり方

先日、学校の夏休み開放デーに「見守り」に行ってきた。開校1年目。初めての夏休み。しかも、移住者が多く、地縁の少ない土地ということで、子どもの長期休みは(とくに働く親にとっては)死活問題。

そんななか、あぁすごいなぁ、あざやかだなぁ。

と思わされたことがあった。

保護者の方々が互いの対話から、「夏休みの子どもの過ごし方は自分の問題であり、他の家庭の問題でもある」と気づき、声を上げ、運動体として取りまとめていったことだ。

こうして実現に至ったのが「学校開放DAY 」。

僕自身は、その動きの中心には関わることができなかったけど、せめて、と思い、半日だけ「見守り」に入った。

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最終日の、開放DAY。それまでに比べると、落ち着いた雰囲気だったそうで、子どもたちは、ゆったりと本やPCに接したり、体育館でスポーツに興じたりしていた。

そんな光景を見ながら、「いる場所があるっていいな」「その選択肢がたくさんあるというのはいいな」とぼんやり思った。学校開放以外にも保護者の方の主導で、夏休みキャンプなどが開催されている。あくまで主人公は子ども。その場づくりを親が支援しているという関係性に、まず共感できた。

そこで思うのはーーこれは自戒を込めて書くのだが、親の立場からは、どうしても「サービスの受け手」として批評的な立場でモノを言ってしまいがちだ。「先生の時間がない。忙しすぎるのは問題だ」「日本の教育をなんとかしないといけない」。ヤフトピにコメントするかの如く、子どもの教育には問題が溢れているように「語る」。

でも、大文字で語るときの「教育」には、気をつけないといけない。

そこには、主役であるはずの「子ども」が抜け落ちていることがあるから。

教育関係者ではないので、個人的な感想しか言えないのですが、保護者がもっと主体的に関わることができれば、物事が前進することもあるかもしれない。そんな願いを込めて、見守りに参加した。とても微力だったけど。もちろん、学校のライブラリーで長い時間を過ごせるぞ〜という垂涎ものの体験も見越して。

1学期中の学校の消毒も、保護者の方が支援してくれたそう。先日、厚労省の見直しで「消毒は不要」として改訂されたとしても、その行為が無駄だったとは思わない。

学校のスタッフや、保護者の方の関わり方に接していると、「学校」とは「教える場」ではなく、もっと子どもを「支援する場」として認知されてもいいのではないか、とすら思えてくる。

なにより、学校のサイトを見回しても、「教える」という言葉は出てこないわけで。

小さな気づきですが、書き残しておきたいと思いました。

※写真は、開放DAY の午後、3歳の娘と初めて学内で過ごした。子どもの学校での過ごし方が少しだけ想像できて、とても、うれしかった。

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