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はじめる日に大切なのは「覚悟」より「約束」

仕事であたらしいことをやろうとしたり、私生活でこれまでの連続性から外れるようなチャレンジをしようとすると、よく他人から問われることがあります。それが、

「覚悟はあるか?」

という問いです。

相談された側からしたら、その先にリスクを負うのは本人なわけなので、「考えが甘い」「深堀しきれていない」と察知すれば、親切心からそのような言葉を投げかけるのだと推察します。

あるいは、そこまで大きな人生の転機でなくとも、

「コミットできるか?」

という問いはよく会社の上司からも投げかけられていました。

そんなときに、やおら自分を省みると、

「う〜む、覚悟…ないかもしれない」という想いが湧いてくるのです。

そして一方で思うのは、

「覚悟がなくてもいいんじゃないかなぁ」ということでもあったりします。

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こんなことを書き出したのは、先日、学校の「進路を考える会」に参加したことがきっかけになったからです。

娘の通う学校では、15歳のときに「  」になる、を掲げて、幸せな子ども時代を過ごせるよう、幼・小・中の教育にかかわってくださっています。

でもそうは言っても、15歳となれば、高校受験か、どのジャンルの学校に進めばいいか、住むエリアだって変わるかもしれないし、大きな問題でもあって、そのことについて胸元を開いて大人同士で対話をしてみよう、と開かれたのが「進路について考える会」でした。

そこで、ある保護者の方から聞かされた言葉が印象的だったのです。

「子どもの『なりたい』を間に受けすぎない」

どういう意味か。

子どもの「なりたい!」は一時的なものかもしれないし、変わることだってある。子どもが「〇〇になりたい」と言ったからといって、親が「よし!きた」と先回りして動き回って御膳立てするのはなんだか違うんじゃないだろうか、というもの。

そこには、キャリアや進路というものは、変わったって全然OK !むしろ変わるものだし、変わっていく先に自分らしい働き方があるかもしれないよ、というおおらかなスタンスが込められている、と読み取れました。

そうだよな、15歳、どころか40歳になったって迷ってるよ、仕事のこと…。

というのが、大人の(いや僕の)ホンネ。

本気で何かをめざしながらも、最後の最後のところで、本人や周りが紆余曲折OK!挫折OK!とできるかどうかは、キャリアと付き合っていく上で、非常にたいせつなスタンスだと思う。

15歳のときの「なりたい」は「暫定解」なのです。

むしろ、その一歩目を「自分で」出せるかどうか、そちらの方が大事だったりするでしょう。

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ここで、冒頭の話題に戻るのだけど、やっぱり「覚悟」というのは、どこか引き返しようのない一発逆転・ギャンブル的な意味合いを感じてしまいませんか。

覚悟を決めた時点で、自分が「サンクコストの囚人」になってしまうような、冷静さを犠牲にする言葉にも感じます。

自分のキャリアのこれまでを振り返るならば…

新卒で入った会社では、編集の仕事ができる会社への転職が反対されたことがありました。関連会社の社長の肩書きを持つ広告系のトップの方が、ランチをご一緒する時間を割いてくださって、キャリアの悩み相談を開いてくれたのだが、そこで言われた言葉は、

「むいていないから、やめておいた方がいい」というもの。

当時2年目の社員だったので、そんなにポンポンやめられては困るということで、引き留めの意味合いも多分に強かったのだと思うが、その言葉を心底、間に受けていたら、きっと今、編集の仕事をすることも、軽井沢に住むこともなかっただろうなぁとも思います。キャリアってわからないものだ。

結局、進路の正解なんて誰にもわからないし、誰かのアドバイスに従うだけで結論を出すことほど、もったいないことはない。

だからこそ、もし「覚悟」という言葉に出くわしたら、こう捉え直してみてはどうだろう?

「あなたは明日の自分に約束できますか?」

と。

糸井重里さんのほぼ日では、「約束3原則」というものがあるらしい。これは他者とのビジネスのときに守るべきこと、というニュアンスだけれど、自分と自分の人生にも適応できそう。

そして、こんなふうにも書き換えられます。

「あなたは自分の子どもに約束できますか?」

今、やりたいこと、すべきことを目の前にして、どうしようっかな〜と逡巡している人がいたなら、少しだけ問いの形を変えてみてはどうでしょう。それでも答えが変わらないならば、そのときはもう、迷わず、GOです。

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