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SF日記:『タイムマシン』 H.G.ウェルズ

SF作品の感想を私見たっぷり濃厚に語るSF日記。最初にあらすじ、後半に感想を書きますのでネタバレに注意してください。現代を読み解く時、多くの人はデータやエビデンスに当たりますが、それらは過去を表しているに過ぎません。そこで未来の声として、将来起こりそうなことをリアルに描くSFの想像の力を借りてみようと思うのです。

あらすじ

タイムマシンを発明したタイムトラヴェラーが19世期のロンドンからはるか未来の80万2701年に降り立った。そこで出会った未来人は小柄で無邪気で無知蒙昧のまるで子供。いくつかある巨大な城館は荒廃し、そこに集団で住んでいた。それ以外は一面に森が広がっている。土地の境界もなければ、耕作地もない。気候は温暖。未来人は果物を採集するヴィーガンで、それは他の生き物が絶滅したからでもある。

未来人は、服装も、容姿も、所作さえの区別もなくなり、みな一様な性格を持っていた。タイムトラヴェラーはそれが、人類が争いを克服して暴力の脅威を免れた環境下では人口が急激に増加することで、子供への重要性が下がり、家族制度や性別の分担の必要がなくなったからと分析する。

「強さは必要がこれを生む。安全思考はなによりも弱者保護を優先する」

知的進化を遂げた人類が自然をコントロールした末、やっかいな虫も菌は消え、病気はすべて予防され、果樹や華やかな蝶で満たされた。そんな世界で未来人は派手に着飾り、労働からも解放され、あらゆるビジネスは消え失せていた。

「もはや行きすぎた感情は流行らない。ひとに不快を与える剥き出しの感情は未開な時代の残り滓で、洗練を極めた平穏な未来にあっては雑音だ」

その結果が、ひ弱な未来人だった。文明の最期期にはその「余力はやがて遊芸や色情に走って、その先はただ無気力と頽廃だよ。」

しかし、彼らは唯一闇を恐れていた。

80万2701年にはもう一種の未来人がいた。地上のイーロイ人に対して、地下のモーロック人は、漂白したような白い肌で大きく血走った目をもち、背中には金茶の毛をまとっていた。かれらは光を嫌い、井戸の中で暮らす夜行性の人種だった。

彼らは現代の労働者のなれの果てで、地下の工場においやられ、地底でくらすことが長くなったことの末路であった。富裕層が自然あふれる環境で暮らし、豊かな教育制度の中で暮らす一方、地下では、暮らしを乗り切るための日銭をかせぐために、労働者が社会の歯車を必死に回していた。彼らのおかげでイーロイ人は何もせずとも暮らすことができていた。

そのモーロック人の食料が、イーロイの人肉だったのだ。なにせそれ以外に食べるものがない。これがイーロイ人が闇を遅れて集団で暮らす理由だった。「イーロイ人は肥えた家畜でしかな」くなってしまったのだ。事実、天敵もおらず、のほほんとした暮らしをして、最後には食肉として食べられるのだから家畜同然だった。

そんな80万2701年でタイムトラヴェラーはタイムマシンをモーロック人に奪われてしまう。彼はマシンを無事に取り返し、現代に帰還することができるのだろうか…

感想

人類は搾取する側か

僕たち現代人は、はたしてイーロイ人なのだろうか、はたまたモーロック人なのだろうか。もちろんそのどちらもの先祖が今の人間世界を分断しているようにも見えるが、人類とそれ以外の対比としても見ることができるように思う。

タイムトラヴェラーもイーロイ人の方と通じ合うが故に、モーロック人を忌み嫌う言っている。僕らはイーロイ人に近いのだろうか。

確かに、人類全体として自然を克服する側に立っている。戦争も飢餓も克服されているが、自殺や飽食による死が上回るまでになっているから、僕たちは内面の欠落を補うにはまだまだらしい。多くの疫病も克服されたが、2020年のコロナウイルスのパンデミックは、最先端テクノロジーが不死を研究し出した時代に傲慢の鉄槌を振り下ろしてもいる。

なにかを得る時はいつだって失うものがあるものなのかもしれない。医療の発展と、テクノロジーの進歩によって、人々の寿命は伸びたし、肉体を酷使するような労働は過去のものとなってきた。強い感情が未来には似合わないという本文の描写はすぐにミレニアル世代を思い出させる。この100年間で生きる苦労は確かに減った。

しかし、それに甘えて健康に気を使うのは一部の意識高い人に限定され、ジャンクフードなどの嗜好品に溺れている人の多いことよ。労働といってもオフィスで椅子に座ってばかりいて、体の機能は低下する一方。まるで人々は自らの中にモーロック人を生み出しているようだ。モーロック人は細胞内の闇の中で癌細胞となって増殖していく。

環境破壊や自然災害もそうだろう。例えば農薬漬けの野菜は、健康を少しづつ蝕んでいくだけでなく、大地の健康もまた奪っていく。人間の宿主たる地球を酷使して、人口の増殖をはかることはウイルスと似ている。しかし疲弊した宿主はいつか反旗を翻す。野菜の受粉に不可欠無存在である蜜蜂は農薬によって減少している。バランスを崩した生態系は、特定の種の繁茂、増殖を引き起こすかもしれない。穀物を食い尽くすバッタの大群のように。そもそも農薬を散布する農夫は健康被害を直に受けていることを忘れてはならないし、脆弱なのはいつだって子供だ。

僕らはこのまま何かを搾取することでしか、文明を続けていくことはできないのだろうか。モーロック人という被征服者たる弱者や人類以外の生命を利用する以外に手はないのだろうか。そしてその末に、家畜のように平穏な暮らしを獲得するのだろうか。AIが考え、ロボットが労働をして、人間が芸術活動をする、と思ったら、AIが音楽や、小説を作り始めている。すべての労働が不要になってベーシックインカムで暮らして、ついには搾取されたAI労働ターミネーターがモーロックとなって家畜となった人々を襲うのかもしれない。

はたまた搾取される側か

そのくせ、僕たち自身がモーロックでもあるのだと思う。まさに今、家畜である食肉を生産するために、血眼になって働いて、牧草を栽培して、なんとか食肉を売り捌いて、挙げ句の果てには利益の一つも挙げられず、自分たちが食べるものに困窮するかもしれない。食料(牛)を作って、食料のための食料(牧草)を作って、自分たちの食料を買えないなんて馬鹿げていることが、残念ながら起きる。だったら最初から自分たちの食料を作っていればよかったものではないか。

しかし経済システムが人々を働くようにけしかける。うまくいけば事業に成功するかもしれないが、いつもうまくいくとも限らない。そんなシステムに税金と言うサブスクリプション代を支払って、その中で経済ゲームに勤しんでいるのが実情というところだろう。

ニュージーランドでは人より羊の方が多いというのは有名な話である。世界の人口は70億を超え、2050年ごろには100億を突破するとも言われているが、鶏はとっくに200億羽を超えている。牛、豚、羊、山羊はそれぞれ10億くらいづついる。しかも労働に明け暮れることはなく、食べ物は有り余るほど支給される。自由はないし、最後は食べられる。しかし、個体数だけみれば見事に繁栄した種族だ。まさにイーロイ人である。

そのイーロイ人たる家畜のために、僕たちモーロック人は働いている。彼らの世話をして働いて、彼らを食べるためにまた働いている。家畜に自由がないのなら、僕たちにも自由なんてものはないように思える。お金や贅沢品もまた僕たちを働かせる。まるで人々は荷役用の駄獣に他ならない。

イーロイ人だろうが、モーロック人だろうが、どちらにしても苦しむのだ。一方に一方の、もう一方にはもう一方の悩みがある。だからこそ人々は飽食に逃げ込み、行き止まりに達したものは自死を選ぶほか無くなってしまうのが現代なのだろうか。健康そっちのけで病気を患うのだって、自殺とそう遠くないだろう。

搾取するでも、されるでもないところ

ここまでディストピアを語っておいて、希望が見えてこないのも流石に辛すぎるから、解決の糸口についても触れておきたいと思う。

これまでのところによると、搾取する側もされる側も、どちらもお互いなしではいきられないのだから、両者が共に搾取し、されてもいる。経済的に豊かになっても苦しみは消えることはない。いっそうの豊かさを求めてまた苦しむ。最後にはそれを失って死んでいくことを恐れて苦しむ。

仏教は一切のものは苦であると説いたが、そうに違いないと僕は思う。生きていたら、老いるし、病気になるし、死ぬ。この生老病死の四苦から逃れられない肉体を持っている。さらには、愛するものともいつか離れなくてはならないし(愛別離苦)、嫌いな人も近寄ってくるし(怨憎会苦)、欲しいものは手に入らないし(求不得苦)、自分の心身すら思い通りんいかない(五陰盛苦)。まさにその通りではないか。これを四苦八苦と言う。

こんな世界で幸せになろうとする方が無理な相談だ。だから仏教は、幸せになろうと求めることに問題があると考える。不可能を可能にしようとするところに苦しみがあるのだから、不可能は不可能なままでよいのだ。モーロック人がイーロイ人になっても、その逆でも、どっちみに幸せになんかなれない。

僕はこの苦しみの理解の欠如が大量の自死を生んでいると考えている。SNSで拡散されている、「人々の幸せ」は苦楽をなめる人生の一部を切り取ったものに過ぎないが、そんな情報を大量に浴びせられると、自分だけが不幸なんじゃないかと思ってしまうのも無理はないのではないだろうか。他のみんなはこんなに幸せで溢れているのにと、不幸ばかりが降りかかることに耐えられなくなって、命を断つ。命というのは確かに不平等なもので、先天的に体が弱い人もいれば、いきなり災害でなくなるひともいる。巨視的に見れば因果はあっても、個人には理由のかけらもなく死んでいくかもしれない。

しかし、実際は幸せに満ちている人なんていない。SNSの投稿の裏では、次なる幸せをもとめて苦しんでいるし、日々の生活がいいことばかりであるはずがない。すべての人が苦しみで溢れていて、そこから逃れられないということ。僕も苦しいが、誰もが同じように苦しいと言うこと。そのことを理解すれば、自分だけが不幸なんてことはありえない。自殺問題の解決の中心はここにあるような気がしている。

しかし苦しいばっかりじゃ、やっぱり苦しい。前述のように、求めないことによって、苦しみを回避できると仏教はいう。では求めないためにはどうしたらよいのか。愛するものと永遠にいたいと求めたって無理だし、嫌いな人と合わないようにするのもまた無理。一つ手に入れたらもう一つ欲しくなるから、いつまでたっても欲しいものは無くならない。体はいつしか不具合だらけで、いつか肉体が滅びることだけは唯一わかっていることでもある。

これはいいかえれば、欲しいもの、愛するもの、という好きへの渇望と、嫌いな人、病気や老いという嫌いへの怒りに立脚している。欲望とは好き嫌いなんだろう。ゴキブリはきもい、お金が欲しいという好き嫌いによって個々人が勝手に作り上げた世界が災いのもとだ。そしてゴキブリを食料にする人や、お金なしで暮らしてきた先住民など、違う世界をもっている人たちと衝突する。カバンと言ったらトートを想像する人と、リュックを想像する人との間でもまた衝突する。

ヨハネの福音書は「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」で始まる。僕たちは各々の歪んだ世界の創造主だ。その世界は好き嫌いによって誤って定義づけられ、欲望で溢れている。ならばその世界から脱出するしかない。自分が作った世界からの脱出だ。宗教が語っているのは、その脱出方法なのだと僕は考える。

僕は宗教の大家でもなければ、脱獄者でもないので、これ以上を語るのはやめよう。しかし、社会が抱える問題の解決策は宗教にあるのだろうとは思っている。政治もビジネスも根本を解決することはできない。僕らに求められることは、イーロイ人であることからも、モーロック人であることからも卒業すること。明るい未来があるとすればそこなんじゃないかと思う。

ちなみに、能天気に生きている人がいる一方で、苦しみを余計に感じる人がいるのもまた事実だろう。後者は不幸なようで、実はそうではないと僕は言いたい。それは、苦しみから脱出するには、苦しみを知らないことには話にならないからだ。工夫は必要によって生じる。まるでイーロイ人が食肉に成り下がってモーロック人との立場が逆転を始めたように、苦しみを知っていることが鍵になると僕は思う。ブッダが王子の立場を捨てて真理を求めた出発点に苦しみがあったことは忘れてはならないと思う。

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